3

 夕餉のあと。

 戒能の部屋に泊まりに行く準備を、自分の部屋でしていた。こういう時、何を用意したら良いのか、あまり経験がないのですぐには頭に思い浮かび上がらなかった。まあ一晩だけだから、着替えも何も要らないだろうけど。

 戒能は部屋の外で待たせていた。一人にするなと言われてから、彼女は私にずっと着いてきた。任務に忠実というか、変に生真面目だなと感じたが、私が狙われているとなるとそれが普通なのだろう。

 寝間着を出して、外に着て行っても恥ずかしくないか、汚れがないかなどを確認しているところだった。

 電話が鳴った。こんな時間に誰だろう。あとはもう、お風呂にでも入って、適当な空白時間を潰して、眠ることだけが学生の本分とも言うべき時なのに。

 画面を開いて見ると、蔵乃下先輩からだった。不思議に思いながら、応答をした。

「こんばんは」

『ええ、こんばんは、榎園さん。突然で悪いのですけど、わたくしの寮まで来てくださらない? コズレック寮なのですけれど、談話室にいますの。よろしくて?』

「ああ、はい、わかりました……」

 電話が切れた。こんな土壇場に、変な用事が出来たものだ。準備は一旦置いておいて、表にいる戒能に伝えよう。

 彼女は私を見ると変な顔をする。

「なんか、すごい匂いだな、芳香剤か?」

「ああ……、うちの部屋だけ空気の流れが悪いのか、匂いが貯まるみたい。固形の芳香剤を置いてるだけなんだけど……」

「ふうん。じゃあ掃除しなくても良いのか」

「そんなことはないよ……」私は言う。「あ、そうだ。今、蔵乃下先輩から連絡があったんだけど、ちょっと寮の談話室に来て欲しいんだって。行く?」

 戒能は嫌そうな顔を隠そうともしなかった。

「行くもなにも、あたしはあんたを一人にするなって言われてるんだぜ? 拒否権なんかないよ。えっと……しづ先輩って、コズレック寮だったよな」

「うん、そう言ってた」

 戒能は時計を見て更に眉をひそめる。

「うわ、早く行かないと消灯時間だぜ? 急ぐぞ。監督生に見つかりたくないだろ。あの谷端とか口うるさそうだ」

 戒能は私の腕を引っ張った。

 コズレック寮は、ここから北に位置している。距離的にはさほどでもないが、こんな時間に夜道をあること自体が、すでにある種の精神的な圧迫を私に与えていた。

 中の作りは変わらない。廊下と個室とトイレと階段がある位置まで、ほとんど同じだった。談話室と言えば、何処の寮でも最上階に位置するので、すぐに階段を駆け上がった。途中で監督生に見つかることもなかったし、見つかったとしても片方は鈴本、もう片方の監督生は鈴本の名前を出せば抑えられるだろうと踏んでいた。

 最上階。ここは、教員の部屋なども含まれるが、要素の半分くらいを談話室が占めていた。

 談話室は横に長い部屋だった。自分の寮でも、それほど立ち入ることはないので、ほとんど談話室という空間自体が初めてだった。

 中に入ると、ソファ数組と、共用のコンピューターが目に映る。テレビと自動販売機まで存在する。これはスパーホークにも同様に備え付けられているが、コズレックは少し様子が違った。

 遊び道具がたくさんあった。アナログなボードゲーム、テレビゲーム機、ヘッドセットディスプレイを用いる機器、なんだかよくわからないものまで。聞いたことがあった。蔵乃下先輩と鈴本先輩が、せこせこと購入要望を出して、学校の予算で購入させているらしいと。監督生とその友人からの要望とあっては、学校側としてもそう簡単に断ることもできないのだろうか。

 さらに大きめのモニタースピーカーからは、奇妙な音楽が流れていた。一聴すると、なんだか気持ち悪かった。これも蔵乃下先輩の趣味だろうか。戒能に尋ねると彼女は「これはサイケデリック・レベティカというジャンルで」と講釈をたれ始めたので止めた。やはり、蔵乃下先輩の好みだろう。

 ともかく、スパーホークの娯楽性の乏しさに比べれば、ここはあまりにも恵まれていた。怠惰的ですらあった。

 生徒は数人くつろいでいる。確かに暇をつぶすなら、ここがどう考えても最適だった。入ったところから見える、一番奥のソファに、目立つ二人組の女がいた。

 蔵乃下しづと、鈴本香代美だった。彼女たち二人は、お互いに向かい合って、必死でアナログなボードゲームで遊んでいた。傍から見れば、子供みたいに熱中していた。

 しづ先輩の格好に目が奪われた。

 古風な白いバスローブを身にまとっていて、いつもは後頭部で結ってある長い髪も、今はほどかれていた。毛先が地面と平行になって揺れている。カーテンだか稲穂だか、そんな風景を思い起こさせた。こんなに長かったのか。結んでいると、よくわからなかったけれど。

 一方の鈴本先輩は、普通の格好だった。正直、監督生とかそれなりにカリスマ性のある優等生だとか、そんなオーラは感じられなかった。休日のお姉ちゃんと言って遜色なかった。

「あら、おふたりとも。急に呼び出してすみませんね」

 蔵乃下しづはこちらを向いて、長い髪を邪魔そうに払った。声を聞くまで、本当に彼女であるという確証すらなかった。

「ああ、いえ、構いません」

「しづ先輩、こんな時間にどうしたんですか?」

 戒能が尋ねる。

 蔵乃下しづ先輩は、私の顔をじっと見てから訊いた。

「……図書館で襲われたんですってね。その時のこと、詳しく訊かせてくださる?」

 私と戒能は、了承してなるべく詳細に伝えた。思い返すと、ますます私が殺されかけたという実感が増してきた。夢での出来事じゃないんだ。今更そんな事を考える。

 蔵乃下先輩と鈴本先輩は、聞き終えると首を縦に振って頷いた。

「なるほど、わかりましたわ。それからは、何もありませんでしたの?」

「はい……ずっと戒能さんと一緒にいたんですけど、特には」

「そうですの。わかりました」

 そして、私をまっすぐに見つめる先輩。

 動けなくなる。

「榎園さん。これからは何があるかわかりません。端的に言うと、敵も焦っていますわ。手段を選ぶなんてクレバーな脳みそなんて、もう持ち合わせていないかも知れません。良いですか? 絶対に、一人にならないようにしてください」

「……はい」

「あなたは狙われています。これは、この学校に巣くう悪意とおそらくは同じものでしょう。一人になれば、そこを付け入られますよ。気をつけなさい」

「…………」

「今日お呼びしたのはそれだけですわ」ふっと力を抜いて、微笑む彼女。「わざわざ悪かったですわね。電話だと、どうにも盗聴の恐れがありましたもので、一応直接聞いておこうかと思いましてね」

「盗聴って……」

 背筋が寒くなって、自分を抱いてしまった。

「まあそれは口実で、あなたが心配だから、顔を見ておきたかっただけですわ。ですが、元気そうで安心しました。もう戻ってもよろしくてよ。おやすみなさい。明日も早いでしょう? 監督生には、香代美さんが手回しをしておきますから」

「ええ、聞いてないよ……」

「じゃあ今からお願いしますわ、香代美さん?」

 ばいばい、なんて手をふる蔵乃下先輩。

「お疲れさまでした……」

 私達は挨拶をして、その場をあとにした。なんだか緊張した。他の寮にこっそり侵入することが、こんなに精神を削る行為だったなんて知らなかった。

 同じ道を通って、寮に戻る。たった二、三週間とはいえ慣れ親しんだ家屋は、なんだかんだ言っても、それなりに愛着から染み出してくる安心感みたいなものを、否応なしに覚えた。

 玄関をくぐった途端に、怒鳴り声が聞こえて身体がすくんだ。

「こら! 何処行ってたんだ」

 監督生だった。谷端ではない方の。えっと、名前は失念した。色白で少しふくよかな身体と長い髪が目立ったが、全体的に地味な印象だった。明らかに、私達が夜遅くに出歩いていることに対する怒りだった。鈴本先輩から連絡が入ってるんじゃないのか。

「許可は得ましたよ」

 戒能がけろっと表情ひとつ変えないで、そう鈴本先輩の名前を出すと、監督生は首を振った。

「聞いているけど、そんなの関係ないわよ! 先生に見つかったら、私の責任でもあるんだから、気をつけてよね」

 結局私利私欲なのか。まあ監督生を請け負う人間なんて、みんなそうなのかも知れない。

「はいはい、わかりましたよ……」戒能が呟く。

「もう……。まあ鈴本さんのよしみで、今回は見逃すから、早く帰って寝なさいよね。あの池田じゃあるまいし、夜中に何するってのよ……」

「池田?」

 何度も聞いた名だ。こんなところ出てくるとは思わなかった。

 私を襲った疑惑がある、悪女。

「ああ、知らないの? あの池田って娘。夜中ずっと起きて作業してるって話だよ。それでシャリンの娘たちが迷惑してるって話。シャリン寮の監督生……まあつまり生徒会長だけど、彼女に聞いたの。まったく、池田がうちじゃなくてよかったよ……」

 新聞部一年も、そういう話をしていた。池田が不気味なくらいの作業量に追われていると。何の強迫観念なのだろう。彼女を駆り立てるものの正体は、わからなかった。

「そんなのでいつ寝てるんですか、その池田って」

 戒能が尋ねると、監督生は頭を抱えた。

「それがわからないのよね……私の知ったことじゃないし。でも、あれで授業には全部出席してるみたいだし、ちょっと気味が悪いわね。ショートスリーパーなのかしら……」

 しかしそう考えると、新聞部は何故それほどまでに忙しいのか。ニュースの量だけでは無い気がしていた。新入部員にも仕事を振っていると言うが、それが機能していないのかも知れない。

 それなのに、なぜわざわざ千鶴探しなんていう、如何にも面倒な話を、私の邪魔をしてまで遂行しようというなんて。専門家だから、それは義務だ、任せろ、とでも言いたげだったけれど……。

 考えていると、もう監督生はいなくなっていた。

 私は、自室に戻ってから入浴に向かって、さっさと準備を済ませて、戒能の部屋に行った。夜中の二一時になろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る