2

 平松が取り付けたという約束の時間が来たので、私達は三人で移動した。

 私、戒能、そして平松先輩というあまり見られない組み合わせだった。はたから見れば、何の集まりだろうと思われるに違いなかった。

 その生徒の部屋は、シャリン寮にあった。生徒会長と副会長が取り仕切る、妃麻先輩曰く「窮屈で居心地の悪い場所」。確かに、足を一歩踏み入れただけで、その厳かな空気が伝わってきた。建物の作りもそう変わらないのに、この違いは一体何なのだろう。

 部屋にたどり着いた。三階の隅の方にあった。

 平松先輩が代表をしてノックすると、すぐに開くかと思った扉は沈黙を続けていた。

「もう……いませんの?」

 不満そうな顔をして、平松先輩はまたノックを繰り返す。今度は少し強めだった。それでも返事はなかった。

「眠ってるんですの……? もしもし! ねえ起きなさい!」

 今にも足が出そうな平松先輩が殴っているドアの下。

 落ちているものに私は気づいた。

「先輩、下、見てください。何かあります」

「え? …………あら、なにかしら、これ」

 先輩は手を止めて、つまむようにして拾った。戒能は「案外おっかないよな、この人」と私の耳元で囁いた。戒能も、見た目では相当距離を置きたいけれど。

 ドアの下に落ちていたものは、紙。

「図書室にいます……ですって」

 平松澄子は、それを読み終えると舌打ちを漏らした。

「もう……部屋にいてって言いましたのに……。おふたりとも、図書室に向かいましょうか」

「とにかく部屋はここなんだな」戒能が部屋番号を確認しながら呟いた。「ノートを返しに来る時は、ここを覚えておかないとな……」

「シャリン寮なんだから、釘崎先輩に頼んだら良くない?」

 私がそう口にすると、戒能は呆れたように呟いた。

「あの人が極度の人間嫌いだって知らないのか……? 断られるに決まってるよ」

「あー、そうなんだ、やっぱり……」



 図書室に到着する。

 寮から校舎まで戻り、そこから三号館に入らなければならなかったので、思った以上に歩く距離があった。もう疲れてしまう。

 中へ入ると鍵は開いていた。覗いても、誰もいない。昨今は、図書館の利用率の低下が懸念されているので、誰もいないことが多いらしいが、本当だったようだ。わざわざ図書館でしか出来ないこと自体が この世界に於いてもはやあまりない。課題に追われた帰宅部が自習で使うという話も、もう過去のものなのかも知れない。

「何よあの娘……」

 怒りながら音を立てて足踏みをする平松は、不満そうに漏らした。

「見つけたら実花に叱って貰いますわ……絶対……」

 平松は物騒に拳を握りしめていた。

 訝りはしたが、様子を見ると本当に誰もいない。人の物音すら感じられなかった。蛻の殻。私は、千鶴の部屋を思い出していた。

「あ、先輩。また書き置きがありますけど」

 戒能が指を指した。棚と棚の間。その床に落ちていた。雑だな。そう思ったけれど、何処かに貼り付けて置いたものが、剥がれて落ちたのだろう。

「顔を合わせたくないから、ノートの位置だけ書いて逃げたんじゃありませんわよね?」

「あたしに訊かないでくださいよ」

 まあ良いや。ノートさえ手に入れば、いやそもそも千鶴さえ見つかれば、私は何でも良かった。

 この図書館は、鉄製の本棚が無数に陳列されていることが、基本的な構成になっていた。その棚の中には、現代ではめっきり見ることの無くなった、紙製の物理書籍が多数収められていた。

 こんな大量の物理書籍、すこし圧倒される。言い知れない圧迫感と、どこか遺伝子レベルでの懐かしささえ感じられる独特の匂いが、このそう広くはない部屋に満ちていた。

 鉄製の本棚は背が高く、天井の方までびっしり本で埋め尽くされていた。入って一番手前は、歴史書ばかりだった。授業で習うような内容の本ばかりだ。いまいち興味は覚えない。

 そして入り口側の壁は全て机が、壁を向いて立ち並んでいた。その上には共用のパソコン、読書専用端末。そういった物が用意されている。利用者がほとんどいないことから、端末のバージョンも古い。この部屋自体が、学内でもあまり重要視されていないことの証左でもあった。文学部ですら、ここを部室にはせず、図書館は調べ物の際にたまに立ち寄る程度だと平松先輩から聞いた。授業でも利用されることはない。道楽で作ったみたいな、コレクションルームと似たような意味合いでしか無い部屋だと私は判断していた。

 本物の本。その部分は、少しだけれど感動する。本物の本の大群を、大抵の生徒は大型の書店か古本屋、そしてこういった図書室図書館で初めて見ることが一般的だった。家庭にはあまりないか、あっても数える程度だろう。

 宇宙にもそういう図書館を内包した小型のコロニーが浮いていると聞いたことがあるが、本当なのだろうか。

 歩んで、紙を拾った。

 何も書いていない。

 裏を見る。何も書いていない。

 あれ?

 そう思った時――

「危ない!」

 戒能の声。

 何が危ないのか、耐水ペーパーにこぼした水みたいに、全く意味が伝わってこなかった。

 彼女が走ってくる。

 慌てている。

 金髪がはためいていた。

 そして、彼女は私の手を掴んで、奥に駆け抜けた。

 ――何?

 そこでようやく気づいた。

 隣の本棚が、こちらに倒れてきていたことに――

 この重量、押しつぶされればミンチになるだろうな、なんて、

 紙の本の重さって、どれくらいなんだろうなんて、

 腕を引っ張られてから床に倒れ込む間に、それしか考えることが出来なかった。

 音。

 崩れる。

 大量の本が、空気を揺らした。

「榎園さん!? 戒能さん!? 大丈夫ですの!?」

 平松先輩の声がする。

 彼女はすぐに、倒れた本棚を迂回して、私達の近くに駆け寄った。

 痛……。

 床と接触した際に擦りむいた。打撲もした。

「見せなさい」

 平松先輩に、顔と頭と肘を見せた。

「大丈夫みたいね……」

 戒能は起き上がって、周りを睨んだ。

「まったく、一体誰が……」

 そこまで口にして、彼女は息を呑んだ。

 物音が聞こえた。

 崩れた本棚は、もう微動だにしていない。

 飛び出した本が山になっていて、その上に本棚が、隣の本棚に頭を預けるみたいにして、寄りかかっていた。人の肩を借りて、嘔吐をしている人みたいに見えた。

 この音はなに?

 ひたひたと聞こえる。

 耳の奥を、ヤスリでするような。

 まだ、いるのか。

 何か言おうと思った私の口を、平松先輩が手で塞いだ。息すらできなくなった。

 彼女は口だけで私に告げた。

『しずかに』

 私は頷いて、息を止める。カビ臭い匂いもしなくなったけれど、妙に苦しくなった。

 様子をうかがいながら、腰を低くして平松は小声で口にする。

「…………こっちに来たところを、捕まえますわ。戒能さん、手伝って」

「……わかりました」

 戒能もしゃがんだ。

 二人は待ち構えた。私の方は、倒れたまま丸くなっていた。

 聞こえる。

 気配。

 心臓を吐き出してしまいそうになってきた。

 一体誰なんだろう。

 この騒ぎを聞きつけてきた生徒?

 だとしたら、もっと騒いでいるか、先生を呼ぶか、私達に声をかけるかしているはずだ。

 忍ぶような、見つかりたくないような、そんな意志を感じた。

 なんで?

 答えは一つ。

 ――本棚を倒した犯人だから。

 途端に寒気がする。

 大丈夫なのだろうか。

 この二人で、捕まえられるのか。

 蔵乃下先輩を呼べば良いんじゃないか。

 いや、そんな暇はない事はわかっていた。

 じゃあ逃げ出せば良い。

 出来たらとっくにやっているだろ。

 待つしかなかった。何かが起きるのを。

 この二人が勝つか負けるのかを。

 そこまで身構えた。

 しばらく経った。

 耳を澄ませていた平松先輩が、戒能を向いた。

「…………行った?」

 何も聞こえない。

 いや、もう何も聞こえないのかすらわからなくなっていた。

「…………行った、みたいです。首出して覗いてみますか」

 平松は頷く。

 戒能が立ち上がって本棚の間から見回す。

 そして私達を招いた。

 それでも平松先輩は、注意深くあたりを確認してから、私に告げる。

「犯人が何処かに隠れているかも知れませんから、静かにここを出ましょう。静かにね……」

「わ、わかりました……」

 彼女は私の肩を支えながら戒能の方に行く。たどり着くと、戒能はまだ先行して人影を確認した。

 それを何度か繰り返して、入り口へとかなりの大回りをしてたどり着いたのが、図書室へ到着してからおよそ三十分が過ぎた頃だった。

 外の空気が、もはや久しぶりだった。

 私は廊下の壁に構えてある窓を開けて息をした。気分が落ち着くと、なんだかわからない内に身体が震えていたことに気がついた。恐怖かどうかを分析することにすら私は疲れていた。

「一体……誰がやったんですかね……」

 私の隣で戒能が呟いた。もうそんなことを考えられるなんて、少し関心を覚えた。

 図書室の入り口横で、廊下に座っていた平松先輩が口を開いた。

「榎園さん……あなた、なにかやったんですの?」

「な、なにかって…………?」

 その問いが何を意味しているのか、私の頭に浸透するまでに時間がかかった。要するに、彼女は「誰かに恨まれていないか」が知りたかったようだ。

 そうか……私、殺されかけたんだ。

 全ての実感が遅れていた。身体が追いついていない。

「そんな覚えは、ありません……」

「まあ、みんなそう言いますわ……そうでしょうね……。いえ、疑っているわけではありませんの」

 平松先輩は立ち上がって、ため息を吐きながら端末を開く。

「……私が校長先生に報告をしておきますから、あなた達二人はもう寮に戻りなさい。戒能さん、榎園さんを送ってあげて」

 戒能は黙って頷いた。

 それじゃあ、と電話を掛ける平松を見送りながら、私達はその場をあとにした。あとから事情を尋ねるかも知れないから、いつでも電話には出られるようにだけしておいてくれと平松先輩は言い残した。

 まだ、うまく歩けないような、人の視線を感じるような、いつでも背中から刺されるような感覚があった。

「なあ、大丈夫か?」

 戒能が私を覗き込んで尋ねた。

「あ、うん…………平気だと思う」

「……しかし、こんなんじゃ一人には出来ないよな……どうするか……」

 そこで戒能は手を叩いた。

「そうだ、あたしの部屋に泊まれよ。そうすればまあ、一人よりは安全だろう」

「え、良いの……?」

 歓喜よりも困惑を顕わにしてしまったけれど、私は訊く。それも彼女なりの心配だということを、私もわかってはいたけれど。

 頷いた戒能は「じゃあしづ先輩に連絡するか」と言って端末を起動させた。

 先ほどの事件を軽く説明すると、彼女は驚いていた。泊まらせることになったとも伝えると、しづ先輩は了承した。別に彼女の許可を得る必要はなかったけれど、それで少し罪悪感が消えた。

 そして、先輩は言った。

『あのノートのことですけれど……』

「ああ、あの生徒、いなかったんですよね。見つけたら教育しておきましょうか」

『いいえ、それは結構。でもね、あのノート……』

 蔵乃下先輩は、悔しそうに口にする。

『池田さんが受け取ったらしいんですの。澄子さんの名前を出して、勝手に……』

「なんですって……」

 戒能は拳を握った。先輩だろうがなんだろうが、怒れば手が出そうだっただけに、腕を掴んで止めたくなった。

 あの池田が? 新聞部の副部長で、二年生。本下の腹心とされる、あの性格の悪い女。

 気持ちはわかった。あの女、何処までも私の邪魔をするつもりらしい。ノートを横取りして、私に手がかりを徹底的に与えない腹づもりだろう。

 ということは、私を殺そうとしたのも池田……?

 人の明確な殺意に触れると、途端に気持ちが萎縮していく。

 池田には絶対近寄るな。

 そう自分に言い聞かせた。

 蔵乃下先輩の話を聞いても、結局書き置きが誰のものだったのか、わからないままだった。

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