7

 また次の日。

 蔵乃下先輩にいつものように呼び出されてはいたが、その約束の時間までもう少しの猶予があったので、教室で友達と話して時間を潰していた。

 私の机の周りに、数人の女生徒が集まっている。彼女らは先週ぐらいに話すようになった連中だった。まだ人格はまだよくわからないが、悪い人間ではない。私の中で『こういう時はこう答える』というセオリーに誤差がないことから、彼女らとは付き合いやすいと思う。

 彼女らの望む榎園セリカは私にとっても演じやすいと言えば、身も蓋もない表現だろうか。

 一人が興味を持ちながら、私に話しかける。

「ねえセリカ、最近蔵乃下先輩のとこによく行ってるらしいわよね?」

「え、うん……」

「なんで? 入部でもしたの?」

「いや、そういうわけじゃないけど、ちょっと用事があって……」

 友人探しを手伝ってもらっているということは、なんとなく伏せた。また変な人間だと思われたくもなかった。

「あ、わかった」別の知人が言う。「蔵乃下しづファンクラブにでも入ったんでしょ」

「ファ、ファンクラブ?」

「あんた、知らない? 蔵乃下しづ先輩にはファンクラブがあるって話。しかも部活動として認められてるって」

 聞いたこともない。いや、知らないほうが良かったのかも知れない。

 一体どんな活動内容なのだろう。なんだか、宇宙が膨張しているという話を聞いたときにも似たタイプの好奇心が芽生えていた。

「あーそれ、私は入りたかったんだよね」また別の知人。「だって、お美しいじゃない、しづお姉さまって」

「お姉さま……」

 頭の中で、あの先輩の顔にそういう呼び名を重ねてみたけれど、変な気分にしかならなかった。

「そりゃ、変人とか変態とか言われてるみたいだけどさ、その美しさは誰もが認めるところじゃない? 美しいものを愛でるのは、人間に与えられた特権なのよ」

「あの先輩が、そんな美を議論される対象だとは思わないけど……」

「ええ、セリカ、美的感覚大丈夫?」

「じゃあ実際話してみなって。噂よりももっと変な人だから」

 それでも見た目があまりにも美しいことに、なにも揺らぎはないのだろうけれど。

 違う友人が口を開いた。

「そういえば、蔵乃下先輩とよく一緒にいる香代美先輩はどう? あの二人お似合いよね」

「お似合いって……」昨日その二人の歪な話を聞いたばかりだから、なんとも言えなくなった。「副部長なのかな。あの人も準・文学部の部員だけど」

「ええ、そうなんだ……」

 一人は驚く。鈴本香代美の在籍は、本人の知名度に比べて、あまり有名ではないようだった。私としても、まさかあんな部活にいるとは、思いもよらなかった。もっとこう、バーチャルボーリング部とか、そのあたりかと。

「鈴本先輩もファンクラブあるよね。部活ではないけど、もっとカジュアルに憧れを持ってる子も多いんだって。正当な人気では、蔵乃下先輩よりも上ね、きっと」

「あー、それはわかるな。格好良いもんね」

 その裏で、相当こじれた愛情を持っているみたいだけれど。

「鈴本先輩とはどう? 話した?」

「昨日、二人きりでしばらく」

「はあー、ずるいよ!」

「別にあの人なら『世間話しましょう』って言えばしてくれると思うけど」

「ちがうの、そんな事務的なやつじゃなくて、もっと自然が良いの……」

「なら準・文学部にでも入る? 他には戒能さんぐらいしかいないよ」

「戒能ってあの?」

「そう」

「へえ……意外……」

 それにしても、あの二人のことを、こうして直接聞くのも珍しかった。彼女らからの評判を、本人たちは知っているのだろうか。鈴本先輩は完璧に把握していそうだけれど、蔵乃下先輩はそういうのに興味なさそうだった。

 少しだけ、これから彼女らに会うのが楽しみになった。



 いつもと違う気分を抱えながら、部室に向かう途中だった。

 いつものように階段を上って、廊下を曲がったところだった。

 肩に強い衝撃を受けた。

 痛みよりもまず先に、しまった、と感じた。この感触は、明らかに誰かに衝突してしまった時のものだったし、この勢いでは、お互いそれなりの不利益があることは明白だったからだった。

 私は壁に手をついて、転ぶのを免れた。危なかった。衝撃を受けた掌の感覚が痺れていた。

「あ。ごめんなさい……」

 そう謝ってから、昨日もこんなやり取りをしたような気がして、ぶつかった相手の顔をしげしげと覗き込んでしまった。

 その相手は、大きな音を立てて倒れていた。すぐにでも助け起こさないと私の倫理観を疑われるというのに、彼女の顔に装着されたものを見つめてしまう。

 ヘッドセットディスプレイ。昨日と、全く同じ生徒ではないのだろうけれど、こんな無気力な生徒にまたぶつかってしまった。いよいよ生徒会か学生課にでも掛け合うべきだろうか。そんな事を考えながら、私は相手の肩を揺すった。

「ねえ……大丈夫、ですか?」

 返事はない。ないのに、口だけが動いている。

 何か、音声を発している。ヘッドセットからダウンロードしたデータを壊れたスピーカーが再生しているみたいな感覚になる。

「も……もしもし!? ねえ! 大丈夫!?」

 必死になって揺らしてから、思い出す。頭を打っている場合、身体を強く揺することは厳禁だった。慌てて、私は両手を離した。

 どうしよう。見る限り、外傷は無いみたいだけれど、明らかに様子がおかしかった。ヘッドセットディスプレイをしたまま歩き回っている時点で、かなり理解からは程遠いのだが、それ以上の問題だった。

 とにかく、誰かを呼ぼう。私では判断がつかない。

 端末を起動して、誰かに電話をかけた。誰なのかは、意識していなかった。

 電話がつながった。

『ごきげんよう、榎園さん』

 蔵乃下先輩だった。彼女の呑気な声が、今では少し腹立たしかった。何故彼女に電話をするという条件反射が働いたのだろう。

「あ、あの、先輩! 大変なんです! 変な生徒とぶつかったんですけど、倒れたまま起き上がらないんです! 私、どうしたら……」

『起き上がらないって……生きてますの?』

「はい……なにかうわ言みたいなのを、ずっと呟いてるんです」

 蔵乃下先輩は、僅かの沈黙の後、声色を調整して話した。

『…………今何処です?』

「えっと……部室の近くです。階段を上ったところに……」

『わかりました。妃麻さんと向かいますから、そこにいてくださる?』

 返事をして、電話を切った。

 ものの数十秒後くらいに、蔵乃下しづと釘崎妃麻が到着する。ふたりとも、走るのは早いはずだった。

「どうして先生を呼ばなかったのですか?」

 しづ先輩が、咎めるように私に言った。少し怒っているような、真剣な面持ちだった。

「すみません……気が動転していて……何故か真っ先に先輩に電話しちゃって……」

「もう……」しづ先輩は呆れるようにため息を吐いた。表情も崩れた。「わたくしなんか呼んだところで、どうしようもありませんわ。妃麻さんがいてくれたから良いものの……」

 当の釘崎先輩は、床に屈んで倒れた生徒を調べていた。医療の心得でもあるのだろうか。

「ぶつかったって、どういう状況なの?」

 彼女はこちらも見ないで、私に尋ねた。

「はい、えっと、廊下を曲がったところで肩同士が強くぶつかったんですけど……私は転ばなかったんですが、そちらの方は、ほとんど無抵抗に……倒れてから声をかけても返事がないし、ずっと何かブツブツ言ってるんです」

「ふうん……なんだろう、おかしいな」妃麻先輩が呟く。「こういう症状の生徒は、昨今じゃ結構多いらしいけど。だからヘッドセット嫌いなのよ……」

「わたくしのクラスでも、授業に出なくなったとお聞きした生徒も何人かいますわ。彼女らはみんな、ヘッドセットディスプレイを着けたまま、部屋から出てこないか、もしくは出てもふらふら放浪しているだけだとか」

「アロベインで今問題になっているみたいですね。都会でも、似た症例はほとんど報告されていないって聞きます」

 妃麻先輩が立ち上がる。

「上中先生に連絡しますから、この人を運びましょう。外傷は大したことありませんから、動かしても問題ないと思います」

「わかりましたわ」

 電話で上中に用件を伝えたあと、三人で彼女をそっと運んだ。思った以上に保健室までの距離があって、たどり着いた頃には息が上がっていた。三人とは言え、人間一人を持ち上げて運ぶのは、相当な気を使った。

 上中に生徒を引き渡すと、彼女は急いで倒れた生徒を急いでベッドに寝かせて、ヘッドセットを外して、身体を調べた。

「疲労か……貧血。そんなところかな……」

 上中は薬を用意しながら、口にする。一転していつもみたいに冷静になった。

 倒れた生徒はまだ目を覚まさないが、時間の問題だという。

「無理もないよ。こんなヘッドセットディスプレイを一日中装着して生活をしていたら、頭が休まる暇なんてないもの。y7に情報漬けにされてるんだよ。それで仮想現実だろうと自分の行きたいところに、趣くままに行こうとして、現実世界はそのまま出歩いてしまうんじゃない?」

 上中の判断は、さすがプロと言ったところだった。素人が口を出すまでもない。

 そう思っていたのに、妃麻先輩は何か気に入らない様子を隠さなかった。生煮えの麺を食べた時みたいな顔をしていた。

「……本当に疲労なんでしょうか? 私にはもっと、別の深刻なものだと思いますけど」

「なによ。それ以外に考えられないでしょ」

「これは…………麻薬中毒じゃないんですか?」

 その言葉に、場が凍りついた。

 麻薬の意味すら、すぐには引き出せなかった。

 あの蔵乃下しづですら、驚くことがあるのか。

 上中は、呆れたように反論をする。

「そんなのありえないわよ……このアロベインにいながら、何処から麻薬を調達するっていうのよ。馬鹿なこと言わないでよ」

「でもこの症状……幻覚を見てるんだと思います。そして著しく無気力です。先生は……麻薬中毒の症状についてご存知ですか」

「……知ってるわよそんなの。教育学科で一度は習うもの」

「……そうですか」

 話しながら上中は、点滴と錠剤の鎮痛剤を用意した。点滴からまず生徒に施すと、生徒の様子は少し落ち着いた。

「じきに目も覚ますと思う。意思疎通が出来るかわからないけど……」上中はそう言って、錠剤を指差した。「彼女が目を覚ましたら、これを飲むように伝えてくれる? 水は注いでおくから。私は、ちょっと校長先生に報告に行くわ」

「わかりましたわ」

 蔵乃下しづが返事をすると、上中房江は保健室をあとにする。

 誰もいなくなった。私達以外は。

「さて、と」蔵乃下しづは急に立ち上がって、ベッドの周りのカーテンを引いた。何をするのかと思って、じっと見つめてしまった。妃麻先輩も同様だったらしい。完全にこのベッド周辺が、外界から切り離された。

 蔵乃下しづが椅子に腰掛けて、生徒を眺めた。目をさますのを待っているらしい。私と妃麻先輩も、椅子を用意して座った。この先輩と隣同士になるなんて、すこし居心地が悪かったが、妃麻先輩は何も気にしていないらしい。

 しばらく待っていると、本当に生徒が目を覚ました。瞬きを五回ほど繰り返して、ここが何処なのかを確認しようとしているようだが、目の焦点が定まっていない。意思疎通は難しそうだった。

 蔵乃下先輩は、精一杯の優しい声で、彼女に話しかける。なんというか、ちょうど叱られたあとに聞きたいような声だった。

「ごきげんよう。わたくしがわかります?」

 そう問いかけると生徒は頷いたが、顔は何処も見ていない。何かに怯えているような、何かやましいことをしたような、そんな表情を崩さなかった。

「……なにか、ありましたの? 学校生活で」

「……………………わからない」

 生徒は呟いた。

「わからないとは?」

「…………わからないよ…………あいつが何処に行ったのか……」

 あいつ、と口にした彼女を見ると、閃光が走ったような感覚に陥った。

 誰かが、いなくなったんだ。

「あいつとは、どなたですの?」

「…………わからない…………あいつって……誰なの…………ねえ……」

「……思い出せないんですの?」

「うん…………わからないんだよ……誰がいなくなったのか…………でも、ずっと誰かが私の側にはいたような…………気がしたんだけど…………それで探してたんだ…………y7の中を…………そういう噂があったから…………」

 辛くなったのか、生徒は布団を頭まで被ってしまった。

 蔵乃下先輩は、顎に手を当てて頷く。

「なるほど。誰かの存在が消されてるってことですのね」

「そんなこと……可能なんですか?」

 私が思わず尋ねると、蔵乃下先輩は一つの答えを、確信を持って示した。

「これはきっと、わたくしのお父様のパーツを用いて行われた、犯罪ですわ」

「お父様……?」

 私は首を傾げた。妃麻先輩も、同じような表情をしていた。

「ええ。お父様のパーツは、とにかく規格外でしたから、こういう飛び抜けた機能も搭載可能だと聞いた覚えがあります。つまりですね、犯人は、機械化能力者で間違いはなのでしょう」

 蔵乃下しづは、思いついたようにさらに生徒に尋ねた。

「ねえあなた。麻薬に手を出した覚えはあります?」

「…………ありません」

「……まあ、当然そうですわよね」頭をかく先輩。「麻薬の力を持ってすれば、こういうタイプの機能の精度は更に上がりますわ。例えば、思い込みに対して強く作用する薬があれば、もう存在を消された生徒のことなんて、通常であれば思い出しもしないでしょう。彼女が覚えていたのは、その消えてしまった誰かと、それだけ結びつきが強かったから、何かの拍子にでも思い出したのでしょう」

「……本当なんですか、薬と機能の関係って」

 そう尋ねると、妃麻先輩が口を挟んだ。

「本当みたい。海外の軍用機能なんかではベーシックな手段みたい。うまくやれば、人を遠隔操作する次元にまで持っていけるって、書いてあったと思う」

「へえ……」

 納得はしたが、急に話が大きくなってきた。

 軍用技術に麻薬? 平和だったアロベイン女学院の面影は、もはや何処にもなかった。

 この学校で、何が起きているのだろう。そんなこと、今までは疑問にすら思わなかったというのだから、それこそがなによりも恐ろしい話だった。

「……しづ先輩。ちょっと良いですか」

 妃麻先輩が立ち上がる。

「血液検査をして、薬物反応と種類の分析をしたいんですけど」

「ええ……構いませんわ。今なら上中先生もご不在ですし」

 そう言いながら、しづ先輩はウィンクを飛ばした。

 妃麻先輩は早速注射器の用意をした。慣れている。やっぱり、何らかの心得があるとしか思えなかった。

「一応、健常な人のサンプルも欲しいので、先輩と榎園さんも採取しても良いですか」

「あら、いくらでもどうぞ」

 するりと袖を捲って、真っ白い肌を露出させる蔵乃下しづが、妙に艶めかしく写った。

 彼女の吸われていく血液を眺めながら、私は千鶴のことを忘れてしまわないようにずっと考え続けていた。



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