6

 様々な疑念を、両手いっぱいに抱えたまま上る階段は、重かった。

 授業が終わったので、私はいつもどおり準・文学部に顔を出した。今日は特に呼ばれているわけではなかったが、挨拶をしないのも失礼だろうと判断したからだった。

 ノックをして入ると、ほとんど誰もいなかった。こんな時もあるのか。私は驚いた。いつもみんな暇人が集まっているのかと勝手に思っていた。

 唯一部室でくつろいでいた鈴本香代美先輩が、私の方を向いて「やあ」なんて歯の浮くような挨拶をした。こういう変な言い草が、異様に似合ってしまうことこそが、彼女の人気を裏付けているのかも知れない。

「お疲れさまです。鈴本先輩だけですか?」

「うん。今日はまだ、誰も来てないよ。そんな日もあるさ」

 確かに、かっこいい人だとは常々感じていた。

 そんな意識をすると、二人きりであることに少し緊張を覚えてしまう。

 離れて座るのもおかしいので、彼女の近くに腰掛けた。

 どうしよう。何を話せば……。

 私の頭は壊れた端末みたいに真っ白になった。もともとそう口を利いたことのある先輩でもない。見る限り、人間的に気が合うというわけでもなかった。

 鈴本先輩は、挨拶をしてから、ずっと窓の外を見ていた。ここからは運動場が見える。それなりの大人数で、何かのスポーツが行われていた。野球だろうか。部活動だと思うけれど。

 私の狼狽えに気づいたのか、鈴本先輩は笑いかけてから口を開いた。

「学校はどう?」

 如何にも新入生に対して、気遣いで掛けそうな質問だった。

 私は少し考えてから答えた。

「はい、まあ……慣れました。孤立もしてませんし……。だれも千鶴のことを真剣に扱ってくれませんけど」

 愚痴みたいになってしまったことを悔やんだが、香代美先輩にはウケた。

「はは。持つべきものは友達と言うけれどね」

「否定はしませんけど……もう少し誰かに聞いてほしかったですね。蔵乃下先輩には感謝してます」

 彼女の名前を出すと、鈴本香代美は無性に嬉しそうな表情を浮かべた。

 少し気になる。蔵乃下しづとなにやら親密な間柄らしいけれど、彼女は一体どういう関係なのだろうか。

 そして蔵乃下先輩の機能を唯一知っている人間。

 今の流れならそう不自然ではないと思って、私は意を決して尋ねた。

「あの……蔵乃下先輩とは、友達なんですか?」

 言ってから、なんか変な質問だなと自分を殴りたくなったけれど、香代美先輩は至って平然と答えた。

「まあ、見ての通り、友人だよ。幼馴染みなんだ」

「幼馴染み、だったんですか」

 その話は聞いたことがなかった。ここまで親密なのも納得できたけれど、それ以上にあの蔵乃下しづの幼少時代が、私には想像すらできなかった。

 鈴本先輩は窓の外を見ながら話す。太陽の光が、彼女の相貌を不躾なまでに際立たせていた。

「まあ、家同士の仲が良かったこともあって、昔から一緒に遊んでいたんだよ。彼女、昔から活発で、私なんかてんで運動は駄目だから、着いていくのに必死だったよ」

「運動、苦手だったんですか?」

「うん。今でも体育だけはもう下の下の下さ。あはは」

「そうは見えないんですけど……」

「偏見さ。しづだって、勉強が出来そうに見えるだろうが、ああいう座学には塵ほども興味ないんだよ。見た目なんて、中身に伴わないと私は思うね」

「蔵乃下先輩って、昔からああなんですか? その……なんかわざとやってるんじゃないかってぐらいお嬢様っぽいところとか」

「ああ。昔からあんまり変わってないかな」思い出を棚卸しするみたいに、彼女は楽しそうに喋る。「子供の頃から私と違って、運動能力がすこぶる高かったし、それでいて、さらに私よりも頭が良かったんだよ。何も敵わなかった。それは、今でも変わらないのかも知れない」

「でも、鈴本先輩って、テストの順位じゃ学年トップクラスですよね?」

 人から聞いた話を本人にした。

 それでも彼女は、少し悲しそうな口元を見せた。

「……それも、偽りの成績さ」

「え、カンニングでもしてるんですか?」

 冗談で言ったのに、彼女は無視した。

「しづのほうが、今ではあんな感じだけど、ずっと勉強だって出来るんだよ。私が学年一位でいられるのは、彼女に譲ってもらっているからにすぎないんだ」

「……そうなんですか」

「うん。彼女のテストを見直しで採点してみたこともあるけど、勉強不足とかそんなんじゃないんだ。白紙ばっかり。心底興味がないんだって思うよ。わざと間違えている部分だってあった。何かの抗議だったんだろう」

「へえ……」

「私はね、彼女に愛想を尽かされないように、いい成績を取って価値を上げてるだけなんだ。彼女がテストに於いて異様に低い点数に甘んじているのは、私のためにトップを譲っている、私には勉強という生き方がある、と言われているとしか思えないんだよ」

「本人から、直接言われたんですか?」

「いや、私の勝手な憶測だよ」

 香代美先輩は自嘲気味に口にする。少し怖い。

「彼女は、勉強に興味なんてなかった代わりに、身体を動かすことが好きだった。私も彼女に追従しようとしてみたけれど、こんなだからね。いつか私は、これが原因でしづに捨てられるんじゃないかっていう妄想に取り憑かれた。怖かったんだ。だから彼女の分までというか、まだ彼女にとって価値のある人間でいたくて、ずっと頑張ってきた。アロベインにだって入った。認められて監督生にもなった。そこまでして、ようやく彼女に釣り合っていると感じるよ。テストの回答を見たとき、そう思った」

 なんなんだこの女。

 正直な感想を述べると、そうなった。

「でもやっぱり、楽しそうに身体を動かしてるしづを見ると、ああ、私はなんでこんな人間なんだろう、なんて痛感するよ。ほら、見てごらん」

 彼女は窓の外を指差す。先ほどから、鈴本香代美が一心に眺めていた方向。

 そこには蔵乃下しづの姿があった。

 いないと思ったら、運動場でスポーツに明け暮れていたらしい。

「彼女、運動能力が高いから、助っ人でよくいろんな部活に呼ばれるんだよ。だから、準・文学部にだって来ない日もたまにある。今は九回だから、試合が終わったらもうすぐ上がってくるだろうね」

 蔵乃下しづが楽しそうにボールを投げている。ピッチャーというポジションらしいことは、香代美先輩が教えてくれた。なんというか、決まった綺麗なフォームから、とんでもなく速い球を次々に繰り出していた。

 チームプレイに徹する彼女を見ていると、とても風聞で言われているみたいな変人には見えない。ルールを理解して相手と対峙する、普通の生徒と変わらない。

 ただただ美しい女が、ボールを振りかぶっている。

 それでも専用のユニフォームを持っていないのか、単にめんどくさいからなのか、彼女だけが唯一人、制服のままだった。汚れるようなことはしなさそうだけれど、大丈夫なのだろうか。ちなみに他の生徒は野球のユニフォームや体操着を着用していた。本格的な試合ではなく、仲間内で行われる遊びみたいなものらしい。

「あのボールを取るのが、なんで私じゃないんだろうって、よく考えるよ」

 また、香代美先輩が漏らした。

 勉強という居場所があっても、なにか腑に落ちないらしい。

「結局、実際のところ彼女にとって、私の価値ってそんなに大したものじゃないんだろうね。さっきも言ったように、彼女は勉強なんかどうでもいいと思ってる。それを、私が彼女の代わりに頑張ってる。彼女の期待にただ応えている。それだけなんだよ。それだけの関係でしか無いんだ、私達って。この部に入ったのも、彼女にとって、私が声をかけやすかったから。私に期待するのも、私が監督生になったのも、彼女にとって私が都合の良い働きをする存在だからだよ。釣り合っているなんて感じるのは、実は私だけなのかも知れない。テストの回答だって、私の考えすぎかも知れない」

「…………それでも、幼馴染みじゃないですか。それで良いんですか」

「幼馴染みだからこそ、それを思い知らされることがずっとある」

「…………嫌いですか、彼女のこと」

「とんでもない」彼女は笑う。「好きで付き合ってるんだよ」

 可哀想な人だなんて、私は人の気も知らないでそう思った。

 完璧超人みたいに思われていた鈴本香代美の人格を知ってしまったとき、その神話が何の価値もないことに気づいてしまった。

 それが人を理解していくということなのか。だとすれば、少し悲しい。

 窓の外の蔵乃下先輩が、ボールを投げた直後に、自分の顔の前に手を伸ばす。その手のミットにボールが吸い込まれていく。

 完璧な読みだった。

 ゲームセット。

 しづ先輩はチームメイトと抱き合って喜んでいた。勝ちなのだろう。

「さ、しづもそろそろ上がってくるかな」

 香代美先輩がそう漏らすと、私の方に向き直った。試合中はほとんど彼女は、私の方を見ようともしなかった。

「なにか、柚木脇さんについて、目星はついてる?」

 急に現実に引き戻されるようなことを訊かれた。私はしばらく考え込んでから、口を開いた。

「人為的なもの、のような気がするんです」

「……それは、なにか確証が?」

「いえ……ほとんど勘です」

「勘か……」鼻を鳴らす香代美先輩。「ま、大事かもしれないね、そういう感覚は」

「実は気になっている人物がいるんです。一年の、津島さんはご存知ですか」

「誰だったかな。ちょっと思い出せない。少なくとも、コズレック寮ではないね」

「私もどの寮なのかわかりませんけど、彼女は柚木脇千鶴をいじめていました。そこが怪しいと思う点です」

「ま、何事も取っ掛かりは、いつもそういうものだったりもするよ」

「でも、津島だけじゃないんです。新聞部の二人、それと、上中先生も怪しいんです」

「ふん。それは、考えすぎじゃないかい?」

 鈴本先輩は困ったような顔をする。

「いえ、新聞部のことは蔵乃下先輩から聞いてもらったと思うんですけど、でも、なんだって私まで事件から隔離したがるんでしょう。そんなの絶対おかしいです。上中先生もそうです。なんだって、千鶴がいなくなったことを、思い込みで処理しようとするんですか。こんなの、詮索するなって言われてるみたいじゃないですか」

「……まあ、いろいろあるんだよ。何事も暴走してはいけないんじゃないかな。一度冷静になろう。不安なのはわかるよ」

「……はい。すみません」

 私は深呼吸をする。

 本当に今口にした人物が怪しいと思っているのか?

 これらを隠れ蓑にして、もっと以外な人間が、千鶴を拐かしたのかもしれないじゃないか。

 香代美先輩は立ち上がって、私をまっすぐ見据えた。こうして並ぶと、かなり身長もあった。蔵乃下先輩ですら、私とそう変わらないくらいだから、こんな大きい人はあまり目にする機会がなかった。

「君がそう思うなら、私は信じるよ」

「……ありがとうございます」

「そうしづに言われているんだ。榎園さんを信じてあげてって」

「なんですかその嘘つき呼ばわりは……」

「はは、友人から相手にされなかったことを、彼女なりに気にしているんだよ、きっと」

 そうして笑いながら、彼女は唇に人差し指を当てた。

「ここだけの話をすると、君がそう思ったことや、感じたこと、知ったことは全部しづに報告したほうが良いよ。彼女の機能は、なるべく情報を集めないと発揮されないんだ。これは秘密だよ」

「は、はい……」

「それと、さっき私が言ったことは、彼女には内緒だ。さ、しづが上がってくるよ」

「…………わかりました」

 そんな屈折した思いを抱えていながら、蔵乃下しづ本人とは向き合う勇気がないんですね、と口から漏れそうになったが、唇を噛んで私は黙った。

 扉を開けて、蔵乃下しづが入ってくる。

「あら……ごきげんよう。珍しいお二人ですね」

 息を切らせながら、彼女はそんな挨拶をする。額には汗が浮かんでいた。あの運動量にしては、異常なほど少ないが。

「見てたよ、しづ。相変わらず元気だなあ」

「失礼。少し遊んでいましたの」

 彼女は微笑む。

「あ、先輩、聞いてほしいことがあるんですけど」

「どうしました?」

 私は、怪しそうな人物と、自分の考えを蔵乃下しづに告げた。津島という生徒の過去についてももちろん教えた。

 なにか面白い意見が聞けるのかと期待して、蔵乃下しづの返答を待ったが、彼女の答えは予想外だった。

「…………榎園さん、ごめんなさいね」

「え、あ、はい」

「わたくし、今日はちょっと疲れましたの。今の話は覚えましたけれど、調査はまた明日ということでよろしいかしら?」

「あ、そうですよね、すみません……」

 本当に気まぐれな女だな、と私は思った。

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