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保健室は一号館。最も古く、寮に近く、主要な機関が含まれていることが多いので、生徒側としても訪れる機会は頻繁にあった。そもそも、一年の教室はこの一号館にある。
保健室へは、二日前にも来た。理由は同じ。
ノックをし、扉を開けて中を見回すと、保険の先生とされる上中房江が、事務的に私を招いた。
薬の匂いが鼻を突く。そんな当たり前過ぎる印象をまず覚える。ベッドがふたつある。誰も寝ていない。奥には薬の入った棚。その右側に机と椅子、それに腰掛けている上中。
この上中房江という教員は、別にただ白衣を羽織っているだけの、特筆する点のない教員だった。いつもどんな生徒に対しても、過剰でも雑でもない対応を取る。神への信仰に最も厚いのは、教職員の中ではこの人だと聞いたことがあるが、仕事の態度を見る限りでは、そんなふうには見えなかった。
彼女の目の前に置かれた安っぽい椅子に遠慮がちに腰を下ろすと、彼女はいつもどおりに質問をする。
「どうしたの」
いつ訪れても、こんな調子だ。心配するでも人の体調不良を蜜の味にするでもなく、淡々と処理しようという態度が、気味の悪さと信頼感を同時に生んでいた。
腹痛です、と私が伝えると、彼女は「ああ、はいはい」と最適化されたプログラムを走らせるみたいに、薬棚から錠剤を取り出した。いつもの薬だった。
「これ、飲んだことあったっけ?」
「はい……二日前にも貰いました」
「そう。いつもこんなに痛い?」
「はい、まあ……」
薬を手渡される。六錠ある。一日分だった。鎮痛作用があることは、十分に聞かされていた。上中先生の注いでくれた水で二錠飲み下すと、プラシーボ効果なのか少し落ち着いてきた気がした。
前回も、これを飲んだ時は効いた。副作用で少しフワフワするだろうと言われたが、もともとキビキビした人間でもない。
そんな人間だから、柚木脇千鶴を探し出すことも、私一人では出来なかったのか。そんな、病院に行ったときのような自責の念みたいなものを、保健室でも感じてしまった。
こんな身体の調子を悪くしている暇なんてないのに。
「なにか悩み事でもあるの?」
上中先生が、私の顔を覗き込んで尋ねた。暗い顔をしているところを見られたようだった。
こういうカウンセリングめいたことも、彼女の仕事の一部らしい。
「いえ…………実は」
正直なところ、彼女に千鶴の件を伝えるかどうかは迷った。まあそれでも今更言わないという選択肢もおかしなものだったので、意を決して告げると、彼女は「なんだそんなこと」なんてそっけない返事をした。
なんだとはなんだ。こっちは真剣なのに、そのあしらい方はカウンセリングとしては失敗だろう。仕事としてやっているのはわかるけれど、カウンセリングならある程度同情するのも仕事じゃないのか。
ひとしきり不満を述べたくなった口を結んで、私は空気を吸ってゆっくりと相手にナイフを突き刺すみたいに、一言だけ返した。
「……人が、いなくなってるんですよ」
それすらも意に介さず、彼女は更に続けた。
「よくあることだよ」
「よくって……」
上中は言い聞かせるように、私の方にまっすぐ向き直って、足を組んだ。
急に彼女が、尊大な先生のようにも見える。
「人がひとり消えるなんて訴えてくる患者っていうのは、現代じゃよくあること。その中で本当に誰かがいなくなった事件の数は、実はそんなに多くない。幻覚、妄想。仮想現実との明確な区別さえ失っている場合が多い。いわば現代の精神病のひとつだよ」
「でも……」
「深く考えるもんじゃないよ。だいたい、人が消えたらもっと騒ぎになってるでしょ?」
「それがおかしいんであって……」
「いなくなったって証明できるの?」
「…………」
何も言えなかった。
証明するすべすら、私にはなかったのか。
彼女のことは誰も覚えていなかった。柚木脇千鶴のいた部屋には、何年も使われていないみたいに、蛻の殻だった。その説明はどうすれば良いんだ。私物を運び出したなら、可能な現象かもしれない。だけれど、人から記憶を根こそぎ奪うことは、それこそ可能なのか。
わからない。わからなくなってきた。
思考を自傷行為みたいに巡らせていると、上中は「ま、心配は要らないって」とわざとらしく明るい口調で言った。
「単なる精神の疲れだよ。よくあることだって。私もね、心配事がずっと募っててさ。眠れないんだよ、夜に。だから、毎日睡眠薬を飲んでるんだよ、ほら」
引き出しに入っていたものを、彼女は見せてくれる。貰ったものとはまた違うタイプの錠剤。いくつか飲んだ形跡があった。少しだけ見覚えもある。友人が、眠れないと言って飲んでいた記憶。
「だから、まあ、追い詰められてても、大丈夫だよ。私が相談に乗ってあげるから」
「はい……」
生返事をして、私は保健室をあとにする。
なんだか、上手く言いくるめられたような気がした。上中の都合のいいように……。
何か、怪しいような……それ相応の腑に落ちなさを強く感じた。
上中……。
私は彼女のことが少しだけ、ほんの少しだけ気になってしまった。
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