1章 風に揺れるレッドペルシアンバターカップ
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「あら、あなたは……?」
そう問われてから、しばらく指の一本も動かせずにいたけれど、はっと我に返って私は、口を開いて挨拶をした。
「あ、あの、こんにちは……」
「ええ、ごきげんよう。今日もいいお天気ですわね」
スカートの裾を長細い指先で持ち上げて、完璧に振る舞う蔵乃下しづ先輩を見ていると、自分がはたして同じ生物なのかを疑ってしまう。
蔵乃下しづ。
彼女が、学校始まって以来の変人とも悪口として囁かれる女生徒。この佇まいや仕草を鑑みるに、とてもそんな風には見えないけれど、少しなんというか、絵に描いたようなお嬢様が過ぎると感じた。
つまり胡散臭かった。
「……随分汚れた格好ですのね。あなた、一年生じゃありませんの?」
今度は私の服を、穴が空くぐらいじっと見つめてから、そう尋ねる彼女。
「こ、これはもともとです」私は咳払いをして、本題を持ち出した。「あの、私、一年の榎園セリカという者なんですけど……蔵乃下しづ先輩ですよね。あなたにお願いがあるんですけど、聞いてもらえますか……?」
そこまで、練習した時の八割くらいの再現度で言えたことを喜んでいたが、蔵乃下先輩は私の言葉を遮るように、指を一本顔の前に立てた。
「ここではなんですから、中へ入りませんこと? 別に取って食べたりはしませんわ」
彼女は私に手を差し出した。掴むのも恐れ多かったので、会釈をして扉をくぐった。
中はプラネタリウム室という名に恥じるくらい、大したことはなかった。適当に並べられた木製のような椅子と長机が数組。そして部屋のど真ん中にプラネタリウムを投影させるであろう円筒形の装置。天井は取ってつけたようにドーム型になっていた。他の教室では、もちろんそんなことはない。窓には分厚い遮光カーテンがへばりついていたが、今は開け放してあって、運動場の光景が鮮やかなくらい目に入った。
「みなさん、お客さんですわ」
蔵乃下先輩は、楽しそうに一人で拍手をした。まるで部の見学にでも来たような扱いを受けているような気分だった。もちろんのことだけれど、そんなつもりで来たわけではなかった。
部員を眺める。最悪、蔵乃下しづ一人だけだろうと考えていたから、想像よりもずっと多かった。
その物好きな部員は三人いた。一人は三年でこちらを見て優しそうに微笑んだ。一人はずっとパソコンを触っていて目を上げもしない。リボンの色から二年だろう。そしてもうひとりは、私が絶対に会いたくなかった人物だった。
「あれ、あんた……」
その人物は、パソコンの女のほうから視線を外して、私を指して言った。
「あ、え、ええ、ごきげんよう、戒能さん……。榎園セリカです」
私はそうたどたどしく、なにか言われる前に先に挨拶をした。
女、戒能希巳江は手を叩いて納得した。
「ああ……そうだそうだ。そんな人いたっけ。入部か?」
なんでこんな奴がここにいるんだろう。私は早くも踵を返して帰りたくなった。
この戒能希巳江という女は、平たく表現するとヤンキーだった。なぜこの学校に入学することができたのか、別に大した成績でもない私にとっても不思議なくらいだった。彼女は、蔵乃下しづとは全く違ったベクトルで悪評が轟いていた。とにかく乱暴で喧嘩っ早い。この学校にいながら、さらさらした長い髪をわざわざ金髪に作り変えて平然としていられる態度には、不気味さすら覚える。きちんと着れば美しい制服も、悲しいくらいに着崩されていた。何故かその格好からはすさまじいエゴイズムを感じた。きっと風紀委員のブラックリストに真っ先に入れられているのだろう。
この女、放課後は姿を見ないと思ったら、こんな部活に所属していたのか。それは私が名探偵だとして、どれだけ情報を集めたところで推理は不可能だった。
「あら、ふたりは知り合いなの?」
蔵乃下先輩が首を傾げてそう尋ねた。
「ああ、いえ、クラスが隣って言うだけです……」
「そうなの。てっきり希巳江さんのお友達かと思いましたわ……残念」
蔵乃下先輩は改めて、私の方に向き直って微笑みながら口を開いた。
「では自己紹介をしますわ、榎園セリカさん。はじめまして、わたくし、蔵乃下しづと申します。この準・文学部の部長を務めさせていただいていますわ」
きっちりとした姿勢でお辞儀をする彼女。博物館にでも備え付けられた、そういう人形みたいだった。頭を下げると、結われた髪の毛が揺れて可愛らしかった。
それでも身長は私とあまり変わらなかった。遠くから見ていると、私よりも発育が良いと錯覚してしまいそうだった。
「ああ、はい。先輩のことは、知っています」
「あら、そうなの。勉強熱心ですのね……」
冗談とも本気ともつかない口調で、蔵乃下しづは笑った。あまりにも品を感じたので、自分の笑顔を見せるのが恥ずかしくなった。
先輩は、奥に座って端末で書籍を読んでいた同じ三年の女生徒を、手招きして呼び寄せた。彼女は呼ばれると、飼い犬みたいにすぐに立ち上がった。
「こちらは鈴本香代美さん。副部長を務めてもらっています」
「よろしく。榎園さんだっけ」
その三年生は、先ほどと同じように優しい笑顔を私に投げかけた。
蔵乃下先輩とは対象的に、短めの髪と恵まれた背丈が印象的だった。それに何より、顔立ちが格好良いというか。運動の方も、もしかすれば相当できるのだろうか。
そして、その名前には何処かで聞いた覚えがあった。
確か……そうだ。思い出した。探ってから、二秒とかからなかった。
「鈴本先輩って、コズレック寮の監督生、でしたっけ?」
「そうそう、よく覚えているね。君たちはまだ、入学して二週間程度しか経ってないはずだけど……」
あなた程の有名人なら常識ですよ、と口にしそうになったけれど、私はそのまま唾と一緒に飲み込んだ。監督生なんて、なんだか雲の上の存在という気がしてならなかった。それなのに、こんな変わった部活に所属している生徒もいるなんて、少し摘まれた気分になる。
とくにこの鈴本香代美は、生徒の間での人気も相当高く、校長からの評判もすこぶる良かった。彼女が監督生に任命されること自体が、自明の理とすら言われていた。
そんな上から数えたほうが大幅に早いほどの優秀な生徒が、こんな学校一番の変人と関わっていても、監督生をクビにならないのだろうか少しだけ心配になったけれど、この二人の付き合いは私が思うよりも長そうだった。それは、二人の間に流れる雰囲気がそう感じさせていた。
「そして彼女が」蔵乃下先輩が、机の方を指した。「釘崎妃麻さんです。二年生ですわ」
紹介されると、さっきのパソコン女がこちらをちらりと向いて、一瞬不思議そうな顔をしながら、腑に落ちなさそうな顔で会釈をした。
嫌なのだろうか。
「…………よろしく」
「よ、よろしくおねがいします……」
そう返したが、彼女の視線はまたパソコンに向かった。
彼女の容姿は、意外なほど日本人離れをしていた。なんというか、四肢が適度な肉を残したまますらりとしている。顔も当然整っており、それを隠すような不格好な眼鏡もよく似合っていた。いろいろな洋服を着てぐるぐる歩く仕事に向いているんじゃないか、と勝手に思ったけれど、本人にそのつもりがないことは態度からわかった。
それをもったいないとするのは、私の余計なお世話だろう。
「で、榎園さんは、入部かな? 見学者は初めてだよ」
鈴本先輩が、私に椅子を差し出してくれながらそう尋ねた。お礼を言ってから腰掛けた。
「いえ、実は……蔵乃下先輩にお願いがあって」
ちらりと蔵乃下先輩の方を見た。ちょうど椅子に人形みたいに収まっていた。私も見習って、なるべく綺麗に足を揃えて座った。
「さっきも言っていましたわね。わたくしに出来ることであれば、力になりますわ」
こんな先輩方(と同窓のヤンキー)に囲まれていると、少し用件を言い出し辛くなってしまったけれど、自分に負けないように意を決して口を開いた。
「私の友人を探してほしいんです」
いつもこの話題を口にすると返ってくる反応は大体ふたつ。バカにするか頭を心配されるかだ。今回はどっちだろうと目を細めながら蔵乃下先輩を見ると、今にも興味を抑えきれないような表情を隠しきれていなかった。
「……どうしてわたくしに?」
冷静を装っている蔵乃下しづは、私に訊いた。
その理由は考えるまでもなく、飽きるくらい反芻した言葉を彼女に聞かせた。
「もう、私には先輩しか頼れないんです。他に聞いてくれそうな人がいないんです。友人にも相談したんですけど、まともに取り合ってくれません。それに、先輩は探しものが得意だって聞きました。以前先生が無くしてしまったものを、見事に探し当てたとか」
不思議そうな顔をしていた鈴本先輩までもが口を挟んだ。
「その友人のこと、詳しく聞かせてくれる?」
「はい……」
そして私は、パソコンで綺麗に推敲までして頭に覚え込ませた説明を、彼女たちにした。
「柚木脇千鶴、っていう娘なんですけど、知っていますか?」
その名前を口にしたが、先輩ふたりは考える間もなく首を振った。予想された返答だった。
「誰に訊いてもそう答えるんです。千鶴のことなんて、まるで初めからいなかったみたいに……。確かに、いたんです。彼女も私と一緒に、頑張って勉強してこの学校に入学して……。それなのに何処に行っちゃったんだろう……」
「みなさん覚えていないってことですの?」
蔵乃下先輩は、確かめるようにそう尋ねた。
「はい……。これはおかしいと思って、一人でも彼女を探してたんですけど、いよいよ煮詰まってしまって」
「わたくしも香代美さんも、お名前にも聞き覚えはありませんものね……妃麻さんと希巳江さんはどう?」
大きく首を振った。後ろのふたりも千鶴のことを少しも知らないみたいだった。戒能ぐらいは知っていてもおかしくないと思ったのだけれど、私の期待はずれだった。
「そうですの……」蔵乃下先輩は顎に指を当てて唸った。「その、柚木脇千鶴さんの写真か何かはおありですか?」
「はい」
私は端末を起動させて、準備してあった写真を表示させて、彼女らに見せた。なんだか、友達を自慢しているみたいな気持ちになった。
何の変哲もない、ただ笑顔で写っているだけの写真だ。可愛らしく撮れていると思っているが、千鶴はあまり写真に写ることが好きではなかった。
「……この娘が、柚木脇千鶴さん?」
蔵乃下先輩と鈴本先輩は、顔を見合わせて私に問うた。奥の釘崎先輩もついにパソコンから顔を上げて、私を見ていた。
「はい……」
そう私は、友人に誓うように短く返事をした。
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