プロローグ

 生まれて初めて、自分から神様に跪いてお祈りをしようとしたけれど、そのやり方を習ったことがないと片膝をついてから思い出した。

 礼拝堂は少し寒い。いつも光の量が少ないと思っていたが、建物の構造を見るにどうすることもできなさそうだった。昼下がりのこの時間といえども、あまり長居をしたいとは思えなかった。

 毎朝腰掛けさせられる長椅子と長椅子の間で、自分の両手をつなぎ合わせて私は、祭壇からいるはずのない神様の視線を感じながら、ゆっくりと願い事とも懺悔ともつかない自分の思いを口にした。

「どうか、あの子が見つかりますように」

 これが礼拝堂の正しい使い方なのかすらわからなかった。ただ、私にはもう、神に祈ることしか手段がなかった。自分が困ったときだけ上位存在に頼るだなんて、私はなんて人間らしい人間なのだろう。自分で自分に唾を吐きたくなった。

 行こう。祈りは終わった。後は私の頑張りの範疇でしかない。

 必ず、あんたを見つけてあげる。

 もはやその決意は、自分の実家の住所よりも鮮明に唱えることができる。

 冷たさを感じていた片膝を床から離して、私はため息を吐きながら立ち上がった。床の材質は、木材だろうか。今どき天然の木材だなんて、なかなかお目にかからないけれど。

 礼拝堂を後にした。ここは鍵こそ付いているが部活動の時間は常に施錠はされていない。盗んでも、さほど高価な物や面白い物なんて無いからだろう。変わった代物といえば、聖書がインストールされたタブレット端末が、台に埋め込まれているのと、賛美歌を歌う際に用いられるデジタルシンセサイザーぐらいが関の山だろう。それらもたいした値段ではない。二階があると聞いたことがあったが、確かキャンプファイアに使う道具や運動会の旗、用済みになった教材、古いパソコンなんかがあるらしい。

 真緑の人工芝を踏みしめながら校舎の方へ行く。生徒とすれ違う。私と同じ一年生たちが、パンフレットを端末に表示させながら歩いていた。所属する部活を決めようとしているのか、そういう宣伝のパフォーマンスなのかはわからなかった。

 ああ、緊張する。

 せめてアポイントくらいは取ったほうが良かっただろうか。

 これから会う人のことを考えると、少し憂鬱な気持ちになった。入学当初に聞いたその悪評だけでも、私に条件反射を植え付けるほど強力なものだった。この一年、彼女が卒業するまでは大人しくしていようとすら考えたこともある。

 なのに、私はなぜ、自分からその先輩に会いに行こうというのか。

 神様にすらすがりたい私の気持ちからすれば、それは仕方がないことだった。神様と同時に、悪魔にも魂を売ることも辞さなかった。どこかで、私の心は壊れてしまったのかもしれない。

 あの娘がいなくなったのが悪い。

 見つけ出したら、一回だけ殴って、力いっぱい抱きしめよう。そうして、変人の先輩とは、金輪際縁を切ろう。始まる前から、私はそういう算段を頭の中で立てていた。

 どこかお城のような荘厳さを感じさせる校舎に入る。レンガ造りのようにも見えるが、新素材だと教員には説明を受けた。中は古い美術館みたいに、いつまででも眺めていたくなるくらい整っていた。我が校ながら、一種の執念のようなものを覚えた。

 目指す教室は四号館。主に選択授業やいつ使うのかわからない教室が立ち並んでいる。この学校は増築を繰り返していて、謎の教室が増えていると聞いた。全容を理解している生徒は、ほんの僅かだろう。

 階段が、まるで首吊り台にでもつながっているみたいに重かった。歩きながら深呼吸をするが、余計に疲れてきた。

 廊下を進むと、いくつかの部活動の様子が見えた。私の目には何をやっているのか全くわからない集まりや、もくもくと絵を描いている生徒たちまで目に入ってきた。

 結局、私はまだ何処の部活に所属するのかさえ決めあぐねていた。それどころではなかった。彼女がいなくなってしまったから、そんなチーズケーキを食べるみたいな心の余裕は存在しなかった。

 そうして私はたどり着いた。

 学校いちの変人がいると言われる部活。その集まりが根城にしているという教室を。分厚くて丈夫そうなドアには小さくプラネタリウム室、と書いてあった。以前に天文部が廃部になったとは、なんとなく聞いたことがあったが、まさかこんな部活が占拠していたなんて知る由もなかった。

『準・文学部』という接着剤で貼り付けられたようなプレートが目立つ。プラネタリウム室である前に準・文学部の部室としか思えなかった。始めその名前を耳にした時は『純文学』部なのだと思い込んでいたが、文学部の頭に余計なものがついていただけだったなんて、この目で見るまで想像すらできなかった。

 ここにいるのか。あの『蔵乃下しづ』先輩が。そう思うと、手に汗が滲んで、取っ手を上手く掴む自信すら、炎天下の飴みたいに溶けてなくなった。

 何を今更迷っている。お前が決めたことだ。他に頼るものがないお前が、最後にすがろうという、その女がここにいるんだ。

 自分をナイフで刺すように急かした。背中が痛い。幻覚だろう。

 十回ほど深呼吸をして、ノックをするために拳を握りしめたところ、扉のほうが先に開かれた。

 びっくりして声を上げそうになったけれど、直後に私は何も言えなくなった。

 それは、顔をのぞかせた人物が、件の蔵乃下しづであったことと、彼女が私の知っている人類の中でも一番の美人だったからだ。

 そう。ひと目見ただけで、私はこの女が悪名高い蔵乃下先輩であることを理解した。その圧倒的な存在感は、現世にはふたつとしてないだろう。

 彼女は私の顔を眺めて、もともとインストールされていたかのような完璧な角度で首を傾げて、口を開いた。

「あら、あなたは?」

 後頭部に束ねられた、揺れる髪が美しかった。私を頬張るように凝視する瞳が美しかった。私の鼓膜にスキンケアクリームを塗るみたいな、声色が美しかった。

 ずっと、見ていられる。そんな月並みな感想を吐き出すことが精一杯だった。

 これが、私と蔵乃下しづ先輩との、初めての顔合わせだった。

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