5(事件編)

 トイレから出て最初に思った感想は、間が悪い、の一言に尽きた。

 特別校舎は中が吹き抜けになっているため、廊下の様子は同じ階ならほぼ全面が、上下の階なら対面は見通すことができるようになっている。そんなわけで、対面に位置しながら、二人の様子――柳沼と碧さん――は良く見えた。

 二人の様子は決して友好的なものではなく、しつこく言い寄る柳沼を、碧さんが拒絶しているのがここからでも見てとれる。

 ここに柳沼が多くの生徒から嫌われている所以がある。柳沼は若い女性教師――たとえば碧さんのような人にことあるごとに声をかけて、交際を求めるのである。噂では、美術部の生徒にも声をかけているとかいないとか。これで柳沼が皆の目を引く好青年なら話は別だったのだろうが、残念ながら、柳沼は地味で冴えない容貌をしていた。結果として柳沼に対する評価は、キモいの一言に集約されてしまうわけである。

 見なかったことにしてしまいたいが、二人は部屋の前で話をしている。おそらく碧さんが文化祭の準備を一通り見終えて部屋を出たところに、運悪く、巡回を開始した柳沼と遭遇してしまったのだろう。無視して通ることは出来ない。

 それに他ならぬ碧さんをこのまま放っておくわけにもいかないだろう。僕は深いため息を一つつくと、二人の下へと向かう。

「しつこいですよ! 柳沼先生! 先ほどからご遠慮しますと申し上げているじゃないですか!」

「だからねー、山崎先生、そんなに気負う必要はないんですよ、俺はただ……」

「あのー、どうかしましたか?」

 さも二人の間に流れる険悪な雰囲気に気付いていないかのように、あくまで平然と声をかける。そこで初めて二人とも、僕のことに気がついたようだった。

 会話を遮られ、気勢を削がれてしまった柳沼は、忌々しげにこちらを睨みつけると、あからさまに舌打ちをして見せてから三階へと上がっていった。

 僕は無言でそれを見送り、碧さんはそれを……あかんべーで見送った。

「碧さん、いくらなんでもそれはないんじゃないですか?」

「あらぁ、いいのよ、あんなやつにはこれくらいしたって。それはさておき、ノンちゃん、学校では碧さんじゃなくて、山崎先生でしょう?」

「それを言ったらみど……山崎先生だって、今、ノンちゃんって言ったじゃないですか」

 途中で睨みつけられてしまったので、山崎先生と言いなおす。

 碧さん――この場では山崎先生――は確かに教師であるが、それ以上に僕にとっては一番上の姉の悪友である。姉たちほど性格がねじれているわけではない分、マシではあるけれど、それでも学校の関係者に僕のトラウマについて深く知る人がいるのはあまりいい気分ではない。

「あらほんと、うっかり口を滑らせることがないように気をつけないとね」

 そう言ってから軽く顔の角度を変えて、眼鏡をキラリと反射させる。まさしくさっき、泉から連想した悪の参謀の仕草である。それゆえに全てを語らずとも、彼女の言いたいことは伝わってくる。

 昔のことをバラされたくなかったら、大人しく言うことを聞くのね、と。

「……了解しました、山崎先生」

「うむ、分かればよろしいのだよ、分かれば」

 言って、満足げに何度も頷く。

 ……うん、根は悪い人じゃないってのは分かってるよ。この人は面白ければなんでもいい、という点において姉と強烈なシンパシーを感じて、友達をやっているような人だってことも、それ以外の点においては、普通の人以上の優しさを備えていることも。だからこそ嫌いになれないんだよね……

「でも柳沼のやつもいい加減諦めたらいいのに。ここまで来ると執念ですよね」

 話を逸らしたくて、話題を柳沼に移す。

「本当に、いつになったら脈がないことに気付いてくれるのかしら。これだからモテない男は……」

 返ってきた返事は、予想以上に辛辣なものだった。これだからこの人は油断ならない。そのせいもあって、僕もついつい調子に乗ってしまう。

「馬鹿は死ななきゃ治らないっていいますしね、もうここまで来ると、一回死なないとあの人の馬鹿も……」

「ノンちゃん! 冗談でも言っていいことと、そうでないことがあります!」

 一転、碧さん……いや、山崎先生の厳しい声が飛ぶ。そこにあるのは紛れもない教師の顔だった。

「……はい、すみません……」

 その剣幕に押され、呼称を訂正させることも忘れて謝ってしまう。これだからこの人は嫌いになれない。

「いいわよ、分かってくれれば。まあ柳沼先生には、諦めてくれるまでこちらも粘り強く頑張っていくわよ」

 気楽にそう言ってのけるけれど、あの先生のしつこさは、誰が見たって折り紙つきだ。おそらくそう簡単なことではあるまい。そう考えていることが顔に出たのだろうか。碧さんは笑って言った。

「大丈夫よ、私はあなたのお姉さんと友達やってたのよ。それに比べればこの程度のこと、造作も無いわよ」

 それは僕にとって、何よりも説得力を持つ言葉だった。

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