第55話
早飛脚から報告を受けた徳川慶恕は、将軍徳川家慶公、世子徳川家祥公を御前にして、幕閣を集めて対応策を話し合っていた。
今の幕閣では、徳川慶恕を抜きに重大な決断は下せなかった。
新しい事が起こるたびに、早馬と早飛脚によって報告が届く。
最初、若年寄や勘定奉行からは、友好的に開国する提案も出されていた。
徳川慶恕は自分の腹案を語らず、黙って聞いていた。
だが、香山栄左衛門から脅迫されたという報告を受けて、幕閣の考えは一つに纏まった。
将軍家慶公を脅迫されて、黙っていては家臣として面目が立たない。
「武士が南蛮人に脅迫されて屈するわけにはいかぬ。
例え戦場の露となろうとも、武士の面目は守らねばならん。
すでに総登城の大太鼓を叩かせて、合戦の準備は始めているが、上様と世子様に江戸を落ちて甲府に居を移す準備をしていただく。
急ぎ甲府に早馬をおくれ」
「お待ちください、大納言様。
江戸城を捨てると申されるのですか。
それは幾ら何でも上様の面目を潰すのではありませんか」
若年寄の一人が愚かな事を言いだした。
将棋では王が取られたら終わりである。
そのような事も分からず、体裁に囚われる愚か者が、大名の中にはまだいるのだ。
旗本御家人の血は入れ替えたが、大名家の入れ替えはまだできていなかった。
「ならば南蛮の艦隊に江戸湾の奥深くにまで入り込まれ。
お城が砲撃されたらどうするのだ。
その時に貴殿は責任がとれるのか。
東照神君も 台徳院殿も、大阪の役では江戸城を家臣に任せて野陣を構えられた。
敵の砲撃が及ばない甲府に居を移すのが、どうして恥になろう。
それほど武士の面目にこだわるのなら、先陣を命じてやるから先駆けをやるか」
徳川慶恕の静かな激怒を受けて、ある若年寄は真っ青になって震えだした。
徳川慶恕はその者を無視しててきぱきと命令を下していった。
「浦賀奉行には今日までの記録を正確に残すように伝えろ。
蘭語と英語に翻訳して出島に送り、蘭国王から米国大統領に渡してもらう。
侵略をしかけるのなら、正々堂々と宣戦布告せよと書いて送れ。
一日遅れで『脅迫を座して見過ごせば武士の恥になるから、その脅迫を宣戦布告と受け取る』と親書を送れ。
それも蘭国王から米国大統領に送ってもらう。
砲台には、敵艦隊が見えたら十分引き付けて、焼玉を放てと命じろ。
尾張艦隊にも敵艦隊が見えたら迎え討てと伝えろ」
徳川慶恕はてきぱきと命令を下していった。
「尾張大納言。
余は城に残るぞ。
甲府には上様に移っていただければよい。
南蛮人の艦隊を江戸で迎え討つには、徳川家の誰かが城に残った方がいい。
尾張大納言には浦賀に向かってもらうから、城は余に任せよ」
「はっ。
御下命御受けさせていただきます」
事前に話し合った芝居だった。
徳川家祥の名声を高めるために、将軍徳川家慶公と徳川慶恕が話し合って決めた、最初からの作戦だった。
将軍徳川家慶公には大老松平慶比と老中の半数を配し、甲府に送り出した。
世子徳川家祥公にはもう一人の大老松平慶孝と老中の半数を配し、江戸城を守ってもらった。
徳川慶恕は、歴戦の番方と尾張派家臣団を率いて浦賀に向かった。
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