第35話徳川家慶と徳川家祥の子供
一八四八年、暗闘を繰り返していた尾張派と水戸派の争いに決着がついた。
一番大きかったのは将軍・徳川家慶と、世子・徳川家祥の信頼だった。
その信頼の大きさは、食養を行うようになってから徳川家慶と徳川家祥が健康となり、いや、正室や側室までもが健康となり、子供に恵まれたからだった。
特に徳川慶恕が、香月牛山と平野重誠と岡了允の育児書と、蘭学の育児書を比較検討した、子供を健康に育てる方法が絶大な信頼を得ていた。
全くの偶然ではあるが、徳川慶恕の兄弟は誰一人夭折していないのだ。
だが徳川慶恕の方法は、偏っていなかった。
三人の育児書と蘭国育児書を比較検討して、母親が母乳を与えるべきという説をとりながら、同時に胎毒説を否定し、生れたばかりの子に強い解毒剤を飲ませたり、初乳を与えない今の育児方法を否定していた。
香月牛山と平野重誠の、初乳には胎毒が含まれているという説ではなく、岡了允の初乳には胎毒を下す力があるという説を正しいとした。
いや、胎毒説そのものを、蘭学の育児書を参考に否定した。
その上で貝原益軒の養生訓に従い、子供に与えるべき乳がでないような、不健康な食生活は正すべしと、どんどん魚肉食勧め、ついに徳川家祥と正室・任子の間に待望の男子が誕生させた。
そしてその子は、徳川将軍家世子の幼名、竹千代と名付けられた。
一方、徳川家慶の子供だが、あれほど夭折していた子供達が、徳川慶恕の方法を取り入れてから、まだ誰も死んでいなかった。
この点に関しては、もっと早く徳川慶恕の意見を大奥全体に取り入れるべきだったと、徳川家慶は深く反省していた。
徳川慶恕への信頼と功績は、徳川家祥を廃嫡して水戸徳川家の第九代藩主・徳川斉昭の七男・松平昭致を養嗣子にしようとしていた考えを大逆転させた。
徳川慶恕を敵視して対抗していた徳川斉昭を強制隠居させ、徳川斉昭の長男・徳川慶篤に水戸徳川家を継がせた。
徳川斉昭の妹・厚姫の婿で、陸奥国守山藩五代藩主の松平頼誠に、徳川斉昭を預かるように命じた。
徳川斉昭を完全に水戸家から引き離し、力を振るえなくしたのだ。
守山藩は二万石の小藩で、自然条件の厳しい陸奥にある。
藩財政が悪化していたので、豪農や豪商から併せて四千五百両もの借金をしたため、その返済のために農民から過酷な年貢を取立てることになり、農民から減免を要求されたり、助郷を反対されたりした。
この状態で村役人が不正を行い、解任要求の運動まで発生し、領内の治安悪化は極限まで来ていた。
ここに徳川慶恕の一万両の支援話が来たのだから、乗らない藩主はいない。
徳川斉昭が自分の父親ならともかく、甥で義兄なのだ。
将軍・徳川家慶の君命で、徳川幕府の幕命なのだ。
家臣領民のために、徳川斉昭を少々厳しく幽閉するくらい平気だった。
しかも幕府からも、ちゃんと幽閉すれば大阪城加番の役目を与えるという話まで来ているのだ。
大坂城加番お役目が頂けたら、役料三千俵が幕府から与えられる。
貧乏藩にはこれほど美味しい話はないのだ。
家臣の中には、徳川斉昭毒殺を決意する者までいた。
「徳川家祥妻子」
正室:鷹司政煕の娘・任子
長男:竹千代(一八四八年)
側室:堀利邦の娘・豊倹院
「徳川家慶妻子(ほとんど省略)」
側室:お琴(妙音院)(水野忠啓娘、杉重明養女)
十二女:鐐姫(一八四四年)
十二男:田鶴若(一八四五年)
十三女:鋪姫(一八四八年)
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