四年前の真実―知りたかったこと、知りたくなかったこと

月波結

四年に一度

 わたしの彼は二十四という若さでこの世を去った。死因は睡眠導入剤を服用してのガス中毒で、アパートの隣の部屋の人が異臭に気が付いた時にはもう手遅れだった。


 仕事中にわざわざLINEではなくかかってきた電話を疎ましく思って人目につかないトイレの個室でかけ直すと、「かけるは亡くなりました」と先日お会いしたばかりの彼のお母さんの悲痛な声が耳の奥でこだました。


 なんで? どうして?

 確かに世渡り上手なタイプではなかった。いつも他人に遠慮して、いいんだよ、と笑った。やさしい人だと思った。それが世間では「弱い人」だと評価され、命を自ら断つほど思い詰めていたなんて。


 わたしはバカだ。彼の痛みに寄り添ってあげられなかった。職場での新人扱いから卒業しようと、彼の顔をよく見ていなかった。話をきちんと聞いてあげただろうか? そんな素振りがどこかに見えていたのかもしれないのに、大切な人の危機に気づかずに隣で笑っていた。


 そう、笑っていた。

 そろそろ結婚の話が出てもいい頃合いだなって。

 周りのみんなも自分たちの結婚に興味を持ち始めている。わたしたちには早くその時が来るに違いない。彼はやさしいし、収入も安定しているし、なによりもわたしを大切に思ってくれている。


幸乃ゆきの、ひどい顔色」

 ああ、車の助手席でうっかり寝てしまったらしい。ハンドルを握る麻里が路肩に停車してくれる。

「よく寝てるなって思ってたんだ。でも唸り声が聞こえて、信号待ちの時に顔を見たんだよ」

 そんなに顔色が悪いかしら、と鏡をのぞく。ああ、冷や汗をかいたみたい。せっかくしてきたメイクが崩れている。


 はぁっ、とヘッドレストに八つ当たり気味に後頭部をぶつける。衝撃は吸収される。

「あのさ、こんなことを言うのはなんだけど、無理していく必要はないと思うんだ。何年経ったから傷は癒えるとか、そういうものじゃないでしょう? 直視することだけが誠実さだとも思わない。それに、命日じゃなくても会いに来ていいんじゃないかな?」


 まったくその通りだ。

 今日を逃しちゃいけないなんて、そんなの……。閏年の二月二十九日を彼がどうしてその日に決めたのか知らないけれど、でもわたしにとっては今日が本当の最初の命日だった。


「教えて。彼がどんなことを言ってたのか」

 わたしたちの乗った車を迂回するように徐行した車たちが追い越していく。麻里はため息をついた。

「もう何度もその話はしたじゃない?」

「でもだって」

「とりあえずお参りを済ませよう」


 少し髪に白いものが増えた翔の母親は毎年二十八日にお線香をあげに来るわたしたちを快く出迎えてくれた。そして「毎年来てくれてありがとうね」と言いながらお茶とお茶菓子を出してくれた。仏壇には黄色と白の大輪の菊が今年も備えてあって、その向こうに笑う翔に「やあ、久しぶりだね」と今年も挨拶される。


「もう少しで幸乃ちゃんと本当の家族になると思ってたのよ。翔が幸乃ちゃんを連れてきたのはその日のほんの少し前、お正月だったものね。でもね、幸乃ちゃんの本当の幸せを、わたしも翔も祈ってるのよ」

 苦笑いする。

 ご両親にご挨拶して、交際を知ってもらって、お母さんだってわたしたちが結婚すると思っただろう。わたしも「お正月に」と言われた時は胸が弾んだ。その時が来たんだ、と思った。


 大塚家の墓所はどこだったか。毎年、同じように整然と並ぶ墓石に迷ってしまう。「こっちだよ」と麻里が手引きをしてくれて、冷たい空気の中を水を抱えて歩く。

 お母さんが掃除したのだろう。いつも通りキレイにそこは保たれていた。


「あのさ、幸乃が聞きたいことについて話したいと思うんだけど」

「うん。翔が本当に悩んでたこと、悔しいけど仲が良かった友だちの麻里になら話したんじゃないかと思うの。知ってたら教えて」

 言いづらそうに突然、話を切り出した麻里に戸惑う。彼の死の真実を知りたいと、ずっと思っていた。断片的な情報ではない真実を。そのことを言っているのだろうか?


「わたし、会ったの、二十八日の夜」

 動揺が走る。

 二十八日は日曜だった。わたしはそれこそ友だちの婚約記念パーティーで浮かれて飲んでいた。


「わたし、大学の頃からいつからか翔の悩み事を聞くようになっていたのね。そこにはもちろん、幸乃のことも含まれてたよ。大学時代には就活で幸乃に先を越されそうだ、とか、卒業してからは仕事が忙しくてなかなか会えないんだ、とかね。わたし言ったの、いつだって『翔が悪いわけじゃないよ』って。幸乃は願ってた仕事に就いて一生懸命なんだろうし、それに追いつきたいと思って翔まで必要以上に働く必要ないんじゃないの、って。だってそうでしょう? いずれ結婚を考えていたって、他人は他人。相手の都合ばかりに振り回されることはないし、相手の希望に自分だけ合わせようとする必要ないもの」


 麻里は、今ではすっかり少数派になった喫煙者だったようでiQOSなしで細い煙草にライターで火をつけた。線香とは違った匂いの煙が空気に散る。

「翔、そうしてるうちに仕事の残業、押し付けられるようになったのね。都合のいい奴ってわけよ。あなたの前では仕事に一生懸命がんばってるんだって笑ってただろうけど、毎日、仕事に行くのが辛いってこぼしてた。人がよかったんじゃないのよ、弱い人だったの。それでそれまでも頬に触るとか手を握るとか、相談して慰めているうちにちょっとしたボディタッチはあったんだけど……抱かれたよ、二十八日に」


 なにも言えない。

 胸の中に言葉が浮かばない。

 空っぽになってしまった。


「ねぇ、長い時間、相談に乗ってるわけじゃない? わたしだってその気になっても不思議はないじゃない? いつまでも大学時代の気の合う友人ってわけにもいかない。慰めるために彼の頬を撫でていたはずが、その日は反対だったの。彼、泣きそうな顔でわたしの頬を撫でて、キスしたの。わたしは、ああ、これが運命なんだって受け入れたの。この物語の続きはヒロインが交代するんだ、少し揉めるかもしれないけどって」


「ひどい! 例え翔から誘ってきたからって突っぱねることもできたでしょう? 麻里は翔と仲が良かったけど、わたしの友人でもあったじゃない!」


「ひどいのは誰よ」

 麻里は翔の墓石に吸っていた煙草を押し当てて揉み消した。吸殻が指先から落ちる。

「わたしと寝たことが自殺の直接的な原因ってわけ? 失礼じゃない? わたしだってあの日から何度も死んでやろう、死んでやろうって」

 彼女の瞳はこれ以上なく大きく見開かれていたが、そこに涙は見えなかった。


「ずっと話を聞いてきた。頷いて、翔を肯定してきた。時にはアンタのことも非難した。もちろん翔はそれを否定したけれど……。でもね、翔を肯定し続けて励ましてきたわたしを否定するわけ? ……たぶん、愛してたのに」


 言ってあげられる言葉を探した。なにかを言うのが適切だと、脳のどこかが判断したからだ。


 でもわたしは彼女を慰めることはできない。彼から誘ったんだとしても、彼のそばに居続けた彼女を好ましく思えない。どうしてその話をわたしに教えてくれなかったんだろう? 彼女を経由して話を知っていれば、わたしだってもっと彼に目を向けられたかもしれないのに。


 じゃあ彼女を罵倒するのかといえば。

 不思議とそれはできなかった。


「そういうこと。後悔したのね、きっと。結局、相談してきた通り、幸乃だけが大切だったってわけよ。――どう? すっきりした?」


 なにか小さいものが手の甲に当たった気配がして、見るとじわっとすぐに姿を消した。

 顔を上げると立ち込める灰色の雲の合間から、絶え間なく白い欠片が舞うように落ちてくる。わたしたちの立っている空間をすべて切り取ったように、不自然に。

 落ちては滲み、落ちては滲む。

 砂時計のように淡々と雪は降り続いた。


 四年前の今日、彼が死んだのはわたしのせいだ。すべてわたしの撒いた種だ。

 そんなわたしを真っ白い灰が包むように濡らした。


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