第265話
一刻でも早く、この洞窟を抜け出したい俺。
(しかし、この部屋の扉を潜れば、外は魔境、それも、森で触れた魔力なんぞ、比べ物にならない程の濃度で、魔力が漂っている。貴様一人なら兎も角、その、人間の娘が居てはな……。置いて行くか?)
奴は、そんな俺を唆す様、語り掛けて来る。
……置いて行ったら、どうなるんだ?
(ここは私の体内。置いて行けば……。そうだな、部屋の扉を崩壊させよう。さすれば、魔力に巻かれ、魔物に食われ、娘は惨たらしい死を迎えるだろうな……)
ッ……!!ふざけるなよ!!そんなの置いて行ける訳が!!
(あるぞ?)
俺の思考を押しのける様にして、語り掛けて来る奴。
(出来ない事など無いだろう。ここから貴様が出て行けば良いだけの話だ。そうすれば娘は死に……。そうだな、この洞窟への入り口を閉じ、貴様が脱出するまで、リミア達を中に入れないと言う、制約を付けてやっても良いぞ……?
弱き者を切り捨てる事も、また、厳しさの一環であるからな……。一度行ってしまえば、貴様も吹っ切れるであろう?)
黙れ。それだけは無い。
(そうか……。しかし、その娘、目覚めた所で、扉を潜った瞬間、魔力に巻かれて死んでしまうぞ?)
それは……。分かっている。
なんせ、森で受けた魔力の濃度ですら、コグモから正気を奪ったのだ。
この空間から外に、それ以上の魔力が待っているとなると、ミルは疎か、濃度と、踏破に掛かる時間次第では、俺ですら、危ういだろう。
(そうだな。確かに、そのままの貴様では踏破は到底不可能だ。
しかし、貴様には、それに立ち向かうだけの心の強さがある。
死なずに、過酷な環境に身を置き続ければ、その努力を、進化と言う形で、お前の体は返してくれる。……そうだろう?)
……その通りだ。それが、この世界のルール。
魔力と言う、物質にまで影響を与える事が出来る、思念的エネルギーが与える可能性。
強い意志と、それに見合う環境に身を置く事によって、心と体の差を埋めて行く。
願いを叶える為に、何が必要か、何が足りないかを、体が、本能が知り、不足している能力を会得しようと、無意識下に魔力が働く。
今までの経験から察するに、この世界で発生する急激な進化とは、そうやって起こっているのだろう。
(リミアの様に、命を奪う事で進化するとでも言い出すやも知れぬと思ったが……。そこまで理解しているのであれば、十分だな)
多分、それは、生まれたばかりの彼女が、自身の経験ではなく、本能から嗅ぎ取った物を無理矢理俺に伝えたからだろう。
実際、思考の弱い生物達は、命の奪い合いや、食糧に有り付く場面で、生き残る為に進化すると言うのが、一般的だろうし、そこに、俺の世界で良くプレイさせるゲームの知識をかけ合わせれば、勘違いしてしまうのも、仕方の無い事だ。
それに、今のリミアは、その辺り、理解しているだろうしな。
(済まない。今の発言は、比喩的表現で……。決して、私はリミアを馬鹿にした訳ではないぞ?)
そう指摘され、いつの間にか熱くなっていた自分に気が付く。
……この件は、絶対にリミアにバレないようにしなければ。
と言うか、皆の命を危険に晒しておいて、そんな事は気にするのかよ……。
俺は、何処まで行っても、俺って事か?
(そうだと良いのだがな……)
俺の呟きに、小さく反応した彼。
その声は、俺にではなく、何処か遠く、或いは、自分自身に向けられている様で……。
(おい。貴様。何を呆けている?)
えっ……?
その何事も無かったかの様な問いかけに、驚き固まる俺。
(貴様がそんな事では、皆、巻き込まれ死んでしまうぞ?)
それは、お前のせいだろう。そう思う自分もいたが、先程の呟きを思い出すと、何故か、怒りが抑えられてしまった。
(……そうか。熱意が削げてしまったか……。お前の言う、クロノとやらの精神も、人に成り下がり、使い物に成らなくなっていたしな……)
…………。
流石に、その言葉は、聞き捨てならないが。
しかし、彼が、直接誰かを手に掛ける事は無い気がした。
(……そうだな。クロノは"まだ"生きているぞ。……まぁ、時間の問題だとは思うが)
彼は"まだ"の部分を強調して話すが、やはり、クロノは生きている様だった。
それに、俺も、ミルも、その他の皆も、誰一人、まだ死んでいない。
(……仮に、私が皆を殺せなかったからと言って、何か違いはあるのか?結果的に、誰かが死ぬのかもしれないのだぞ?)
それはそうなのだが……。
いまいち釈然としない。
もっと上手く、この、"俺"とも付き合って行く道がある様な……。
(日和るなよ。"俺")
今までに無い、ドスの効いた声だった。
(食欲、性欲、睡眠欲。生きると言う事は、欲すると言う事だ)
呆気に取られている俺を横目に、一人、語り始める彼。
(それぞれの欲が交わり、道を共にする事が有ろうとも、欲する物がある以上、本当の意味で、その道が交わる事は無い。
そして、もし、それらがぶつかり合った時に、物を言うのは、力だ。武力、知力、精神力、何でも良い。欲しい物をもぎ取れる。守りたい者を守り通せる力が必要なのだ)
言葉と共に流れ込んで来る、強い信念の様な想い。
その中には断片的だが、"奪われた"記憶も含まれていて……。
記憶の断片に触れただけの俺ですら、気分が悪くなった。
それらに身を沈めて、正気を保っている彼は……。
(……いや、当の昔に正気など捨て去っているぞ。今もこうやって、全てを俯瞰する事で、当事者にならない事で、なけなしの自我を保っているだけだ……。
まぁ、その自我ですら、もう原型が、どうあったのかすら、分からなくなってきてはいるがな)
元通りの、冷淡な口調に戻った彼だが、やはり、感情が抑えきれてはいないのか、息遣いや、言葉に端々に、何処か冷めきらない熱を感じた。
彼は、壊れない様、壊されない様、必死に抵抗しているのだろう。
そして、それがいつまで持つか……。
(……そうだ。だからこそ、そんな甘い考えは捨てろ。次会った時は、敵だと思え。それから、これから出会う人々も、まずは疑ってかかるのだ。仲間を真に守りたいと欲するならば、厳しくなれ。強くなれ。奪わせるな。奪い取れ)
淡々とした口調にもかかわらず、そこからは、噛み締める様な決意が感じられた。
(……あまり、皆を……。私を心配させるな)
…………彼の気配が消えた。
絡まっていた糸は俺から離れ、地面へと戻って行く。
「…………」
試しに体に力を入れてみれば、すんなりと体は言う事を聞いた。
「心配させるな……か」
立ち上がった俺は、手のひらを握ったり開いたり、鈍くなっていた指先の感覚を確かめながら、考える。
俺が強くなり、それを証明した結果、リミアや、コグモは時折、俺に子どもっぽい一面を見せてくれるようになった。
多分、それは、俺が守るべき対象から、対等な関係へと昇格したからなのだろう。
俺がもっと、皆に心配を掛けない程、強くなれば、コグモ達は、もっと、子どもらしく、安心して、素の自分を出せる様になるのだろか。
もう一人の俺の役目を終わらせ、皆で笑い合える日が来るのだろうか……。
「その為にも、まずは……」
感覚の整った俺は、未だに眠っているミルへと目を向ける。
あまり気乗りはしないが、もう一人の俺が抱えている苦悩に比べたら……。
それに、リミア達を安心させる為なら、やってやれない事は無い。
なにより、これは元々、俺が引き受けるつもりの役だったのだ。
ただ、俺がグズって、先延ばしにしていただけ。
良い機会じゃないか。良い理由付けをして貰ったじゃないか。
ここまでお膳を立てて貰って、やらない訳には行かないだろう?
「……悪いな」
これは、決して彼女の為では無い。
俺が強くなる為の、皆を安心させたいと言う欲を叶える為だけの行為だ。
俺は、それを忘れぬ様、頭に叩き込みながら、意識を失っている彼女に手を伸ばす。
森で見知らぬ人形を手にしてしまったばかりに始まった、村娘の受難は、まだ、始まったばかりだった。
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