第238話

 「うん~……。そうですね……。でも、そうなると、もう、あの世界は用済みですよね」

 脱力していた俺の耳に、彼女は囁く。


 「……ッ!!」

 俺は思わず顔を上げると、彼女を見た。

 彼女も、楽しそうに、しっかりと、俺を見ていた。


 「私、研究を進める為に、駆け引きだけは多くこなしてきましたから……。これで、貴方は逆らえないでしょう?」

 

 楽しそうに微笑む彼女。そこに悪意はない。

 あるのは、自身の要求を通した先にある、幸せを考える笑みだけ。

 俺は、それに素直に頷くしかない。


 「……やはり、交渉を上手く行えると言う事は、人間の心理を、それなりに理解できている証明では……?

 しかし、私の中で事態が行き詰ってしまっている事も事実。新しい可能性を試す事は、最適解とは成らずとも、新しい視点を得られるチャンスにも……」


 口元に手を当て、何かを考える様にブツブツと呟き始める彼女。

 どうやら、何かを悩んでいるらしい。


 「……まぁ、いいです。そもそも、私が手を出さなくとも、時間さえ動かせば消えてしまう世界ですからね。使える物は使っていきましょう」


 そんな冷酷な彼女は何を要求してくるのだろうか?

 俺は、静かに唾を飲む。


 「私に、貴方の言う心と言う物を教えてください。そして、妹と仲直りさせてください」

 

 「……え?それだけで良いのか?」

 俺は思わず拍子抜けする。


 「それだけとは何ですか?私にとって、妹と、研究が全てなのですよ?あなたこそ、人の心が分かっていないのではないですか?」


 そんなこと言われても、お前の心は、普通の人間の心ではない。

 俺に理解しろと言う方が、無茶な話だ。


 「……分かった。俺は、お前に、普通の人間の心を教える。……妹と仲直りできるかは分からないが、少なくとも、何故、妹がお前を殺したのかぐらいは、分かる様にしよう。そうすれば、解決の糸口は見えてくるはずだ。

 ……その代わり、お前は、俺の世界を救う。それで良いな?」


 「はい。問題ないですよ。私の場合も、世界を救う手助けをするだけで、実際に、世界を救うのは、貴方自身ですからね。これで条件は対等なはずです」


 そう言うと彼女は、手元に浮遊する、半透明なタブレットの様な物を出現させ、何かを打ち込み始めた。


 「…………」

 薄暗い部屋の中。彼女の指が、静かに淡く光るタブレットの上を滑っていく。


 「このデータをコピーして……」

 俺の世界が映された画面を見つめていると、急に、俺の存在が分裂した。


 「後は、画面を切り替えれば……」

 画面を、精神世界から、現実世界に戻すと、大量の糸を森の上に出現させる。

 それはもう、山の上に、もう一つ山が出来たかの様な量だ。


 「これだけの大きさがあれば、あの子が吐き出す魔力は、吸い込み切れるはずです。後は、時間をかけて、もう一人の貴方が魔力を分解して行けば良いだけです」


 「ま、魔力?と言うか、あの大量の糸を維持するためのエネルギーはどうするんだ?」

 俺は訳が分からず、彼女の質問する。


 「魔力と言うのは……。私にも分かりません。この世界の基礎プログラムを作り出した彼がそう言っていたので……。

 ……しかし、今にして思えば不思議な力ですよね。彼曰く、物質より精神が優先される世界を作るためのエッセンスとは言っていましたが……。あぁ!考え始めると、急に興味が湧いてきました!」


 彼女は、本当に俺のいた世界に興味が無かったのだろう。

 或いは、妹さんの件に意識が向きすぎていただけかもしれないが。 


 「妹の件も、とりあえずは経過を見守るしかできませんし……。

 研究を続けて、妹に嫌われるのも怖いですが、今なら貴方が、私を制御してくれますしね!気兼ねなく、研究が再開できます!」


 心底嬉しそうな彼女に、俺は付いて行けない。


 「それと、あの糸は記憶を閉じ込める為だけの入れ物なので、エネルギーは使わないのでは?」


 俺を見つけて首を傾げる彼女。

 ……もしかして、俺に聞いているのだろうか?


 「い、いや、俺も意識した事は無いし、良く分からないぞ?」


 俺が困った風に答えると、彼女は「はぁ……」呆れた様に、首を横に振った。 


 「そうですね。私も詳しく分析した訳では無いので分からないですが、ただの入れ物と言う機能上、エネルギーは使わないはずです。

 まぁ、思考と制御を行うコア部分にだけは、エネルギーの補給が必要でしょうが、あそこから動かないのであれば、私の経験上、それも殆ど必要ないはずです。

 それも、今あの糸の下敷きになった生物を栄養源とすれば、一年はもつ計算で……。まぁ、ただの経験則なので何とも言えませんが」

 呆れ疲れたかの様に語る彼女。

 

 「しかし、まぁ、魔力を封じ込められる物質なんて、今まで存在しなかったですからね。一体どうなっているのか……。貴方の体は、研究のし甲斐がありそうです」


 一転、彼女は明るくなると、「ついでに、魔力の研究も再開して……」と、俺を置いて、一人、自分の世界に潜り込んで行ってしまう。


 (えっと……。詰りは、精神体の俺が二人作り出されて、一人は、あの糸の中で、狂気を孕んだ記憶を浄化するって事で良いのか?)


 「後は、この糸を利用して、私用のアバターを用意して……。あ、そうです。貴方に制御されるには、私が力を持ちすぎていますよね。あの世界の管理者権限を……。あ、あれとか良さそうですね」


 そう言って、彼女は別画面に映ったゴキブリに向かって、何かを始める。


 「はい。これで、貴方の世界の管理者権限の殆どを、あの虫に押し付けました。権利者権限があると、不死にはなりますが……。別世界の存在も知らない、何の知能も無い生物なら、それ以外に害は無いはずです」


 (え?あのゴキブリってまさか……)


 「さて、と、それでは、向こうのアバターと、意識を結合しますよ?」


 暗転。


 「ヴハッ……!!ウォェェ……!!」

 気が付いた時には、俺は本来の現実世界で、途轍もない吐き気と共に、目を覚ましていた。

 

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