第237話
「あの子は……。蛍はね、本当に天使なの」
うっとりとした表情で呟く、白衣の女性。
どうやら、画面の中の女性は、蛍と言うらしかった。
「あの子が生まれるまで、私の世界は、灰色一色でした。
人の声や、風景も、全ての情報は、右から左へ流れて行って……。唯一、文字は私を通り過ぎなかったので、勉強ばかりしていた記憶は有りますが、それも、何の目的も無い、ただの暇つぶし」
一人、静かに、それでいて饒舌に話し始める彼女。
俺は、その変わりように驚き、圧倒され、ただただ聞いている事しかできない。
「でも、あの子が生まれて、その小さな手で、私の指を掴んだ瞬間、世界は変わったの!相変わらず、殆どの情報は、私を通り過ぎて行ったけど、それでも、妹だけは、私の世界で色付いていたんです!」
その、うっとりとした瞳からは、溺愛していると言うよりも、信仰に近い物を感じた。
「そして、何故、妹がこんなに可愛いのか、何故、私と言う存在が、生物が、これ程までに、彼女に惹き付けられるのか、生物学的に考えていたら、自然と生き物が見える様になって……。
それからは、蛍と、生物の不思議に引き込まれて行ったんです……」
話の次元が高度過ぎて付いて行けないが、つまり、彼女の興味が向くモノは、生物の不思議と、妹だけだと言う事だろうか?
それなら、俺にも、興味が向いても良いはずなのだが……。
いや、生物として興味が湧いたからこそ、彼女の視界に映る事が出来たのか?
「だから、私は、妹の面倒を見て、生物の研究をして……。それだけの為に生きていました。……幸せでしたね……」
本当に、彼女にとって、それが、唯一無二の幸せだったのだろう。
そう感じさせられる程に、彼女の瞳は酔っていた。
「貴方の世界だって、妹が、魔法使いになりたい!って言うから、組織から借りた、私の電子シミュレーション実験スペースの一角を使って、作ったんですよ?
私の力で、妹が笑ってくれて、私も好きな実験が続けられる。そんな日々がずっと続けば良かったのだけど……」
そこまでを語り、急に雰囲気が落ち込む彼女。
しかし、成程。聞きたい事は山ほどあるが、あの世界ができた経緯は理解できた。
彼女が話すたびに、俺の知りたい真実が
俺は、先が知りたいと焦る気持ちを抑え、静かに、彼女の話の続きを待つ。
「……でも、最後には、妹に殺されてしまったの」
(……。ッ……?!)
悲しそうは悲しそうだが、余りにも、事も無さげに語るものだから、こちらまで。スルーしそうになった。
「まぁ、殺されたのはオリジナルで、この世界に居た私はそれをこうやって、リモートカメラで見ていただけなんですけど……。私としては、やっぱり、実験を辞めて欲しいと言われていたのに、隠れて続けていた事がいけなかったと思うんですよね……」
落ち込みつつも、反省するように呟く彼女。
きっと、彼女にとっては、自分が殺されたと言う事も、妹が自分を殺したと言う事も、"その程度"の事なのだろう。
根本的に価値観が違う。
彼女が表情を見せたからと言って、同じ人間であると感じてしまった事が、恐ろしく思えた。
「私はどうすれば妹と仲直りできるのでしょうか?」
ずっと一人で話していたと思ったら、突然こちらへ話題を振って来る彼女。
「そ、そうだな……。その喧嘩の原因になった、実験って、何なんだ?」
俺は慌てながらも、頭をフル回転させて、無難な質問で返す。
喧嘩と言うには度が過ぎているようにも思うが、彼女の発言から察する価値観に合わせれば、その程度の表現が、一番適切な気がした。
「そうですね……。3Dプリンターで脊椎動物を作ってみたり、マウスの脳の容量を拡張して見たり、後は人間で「もういい!もう良いから!」……そうですか?」
俺は必死になって、その続きを止める。
これ以上、彼女を"同じ人間ではない"と、理解したくなかった。
きっと、彼女の妹はその先を知って、目の当たりにして、理解してしまったのだろう。
この怪物を誰かが止めないといけないと言う事に。
「…………」
頭を抱え、黙る俺を、不思議そうに見つめる化物。
それでも、画面の中の女性にとっては、歴とした姉だったのだろう。
(はははっ……。そりゃ、そうだよな。怪物とはいえ、慕ってくれている実の姉を殺せば、笑わなくもなるよな……)
それを、この化物は分からない。理解ができない。
知らないから、知らない事すら、知らないから。
「……お前は、生物の体の仕組みより先に、人の心について勉強すべきだったんだよ」
俺は、彼女の妹の事を思うと、無意識のうちに、そう呟いていた。
「え……?でも、心と言うのは、生存本能と、記憶から生まれる、副次的な危機管理能力の一環で、それを理解するにはまず、生物の構造と成り立ちを……」
あぁ、分かってる。馬鹿と、天才は紙一重。
つまり、こいつは馬鹿なんだ。
馬鹿は死んでも治らないと言うが、ここまで、ことわざ通りだと笑えて来る。
今も苦しんでいるであろう、画面の向こうの妹さんが救われない。
「じゃあ、お前。俺のいた世界は、妹が魔法使いになりたいから作ったって言ってたよな?」
未だにピーチクパーチクとさえずる彼女の声を押しのけ、問いかける。
「えぇ……」
彼女は自身の発言が遮られたことに、若干、眉をひそめるも、返事を返してくれた。
「それは、本当に、妹がなりたがっていた、魔法使いだったのか?妹がなりたがっていた魔法使いは、こういう物じゃなかったのか?」
俺は、妹さんと、白衣の彼女が一緒に写り込む、一枚の写真を剥がし、そのテレビの向こうに映った、幼児向けの魔法少女作品を指差した。
「いえ、そんなはずは……。私が調べた時には、確かに、魔法使いはこういう物だと……」
無垢だ。
疑う事も知らない、無垢な怪物だ。
彼女にとって、不思議な事はあっても、他人が騙そうとして来る事があっても、自分が騙されるなんて事は無い。自分が騙されている事なんて、自分が自分に騙されている事だって気が付かない。
だから、一度、そう言う物だと自身で納得してしまえば、もう、深く考えない。
……まさに俺だ。
彼女には他に考えるべき事が沢山あって、俺は考える事を放棄して。
失敗を失敗だったと認識するまで、失敗を失敗だと認識せざるを得なくなるまで、考え直す事すらしない。
彼女は、取り返しが付かなくなった後に、取り返せると。
実験と同じで、条件を整え直して、やり直せば良いだけだと。
やり直せる物だと本気で思っている。
それが。
その姿が、とても痛々しかった。
邪悪であるはずの彼女が。
無邪気でしかない彼女が可哀想で仕方なかった。
「いいや、残念ながら、これも魔法使いだ。それに、ほら、この写真にも、この写真にも、このテレビに出ている道具が置いてあるだろ?」
そう言って、リビングや、妹の部屋だと思われる場所で撮られた写真を指差す。
確かに、そこには、幼児向け魔法少女作品のグッズが写り込んでいた。
「これは、お前の妹を全く知らない、俺でも気づく事だぞ?お前は本当に妹を見ていたのか?実験を止めてと懇願する、本気な妹の姿も、見えていなかったんじゃないのか?」
語る度、語る度、自身の中に苛立ちが募って行くのが分かる。
これは、ただのエゴだ。彼女の妹が、どう想っているかなんて俺には分からない。
ただ、俺の気持ちを理解してくれない彼女に苛立っているだけだ。
「そうですね……。そうだったのかもしれないです」
そんな俺の心を逆なでするように、冷静に頷く彼女。
「お前!本当に分かってるのか?!」
俺は思わず、その胸倉を掴み上げる。
過去の俺の胸倉を掴み上げる。
「……はい、分かっています。つまり、妹と仲直りするには、周りをもっとよく見て、人の心を知らないといけないと言う事ですよね?」
やっと答えが分かったとでも言うように、嬉しそうに微笑む彼女。
彼女には、この怒りの感情すら、届かない。
同情の、悲しみの感情すら、届かない。
俺に、心配してくれていた皆の声は……。
「そう……だ」
もう終わった事だ。
全身から力が抜けて行くのを感じる。
俺は静かに彼女の胸倉から手を放した。
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