第234話

 記憶を渡り歩き始めて、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。 


 幾つもの記憶を巡り歩いていると、最初の内に見た様な、信念にも似た記憶を持つモノは少数だと知った。 


 その多くは、記憶の殆どが欠如しており、食に対する欲求だけが残っていだけ。

 もう、そこには、何故食べたかったのかも、自分が何者だったのかの記憶すら、薄れ、時には消えてしまっていた。


 俺は、俺を食らおうと襲い来る記憶の欲求を満たし、救済する事によって、彼らの自己を確立している強い想いを消し、ただの記憶として、自身の中へ取り込んでいる。


 その点、純粋に食に対する欲求を解消すれば良いだけの、彼らは簡単に抑え込めた。


 と言うのも、記憶すら失っている彼らには、もう、俺の記憶か、自身の記憶なのかすらも判別が着かなくなる程、自我を失っている。

 そうなれば、俺の満腹の記憶を流し込んでやれば満足し、殆ど、俺の記憶を汚染せずに、処理する事が出来たのだ。


 それでも、数は力。

 『大丈夫……。大丈夫?何が?私は……。俺だよな?違う?僕だっけ?』

 幾数千万の記憶を取り込み、消化し、自己があやふやになり始めた頃。 


 『……ちょうだい』

 この、記憶と記憶を行き来するだけの、何処までも続く白と記憶の世界に現れた、全てを飲み込む様なドロドロとした、巨大な黒い球体。

 俺は、その声を耳にしただけで、吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。


 いや、ただの感覚ではない。

 実際に、辺りを彷徨っていた様々な色の記憶が、意識が、自我が、例外なく、その黒に引き寄せられ、黒の中へ取り込まれていた。


 『な、何なんだよ、お前は……』

 そこから感じ取れるのは、他の欲を、意思を、信念さえも、全てを飲み込もうとする圧倒的な欲。

 満たしても満たしても満たされない、穴の開いたバケツの様な、それでいて、満たされる事だけを望む、純粋無垢な欲の塊。


 『私?私は、貴方を食べに来たの』

 脳内に響く中性的で幼い声の主は、もう、質問には答えたと言わんばかりに、黒い球体をゆっくりと横に開く。


 そこから覗く内部は、混ざらない絵の具を無理矢理混ぜようとした様な、混沌とした色の対流が支配しており、時折、人格のある記憶達が、外に出ようと、顔や手の形をかたどって、藻掻いていた。


 あそこに存在する記憶は、いったいどれ程の量なのだろうか。

 少なくとも、今まで俺が、俺を失いながらも、必死に救済してきた記憶など、数えるにも値しない程、膨大である事は確かだった。


 『クッ……』

 あれを救済するビジョンが見えない。

 自然と、冷や汗が頬を伝った。

 

 『貴方は私を満たせる?』

 感情を、期待も何も感じない無機質な、幼い声が、そう呟く。


 (……この声の感じ、何処かで聞いた事があると思ったが、昔のリミアか?)

 そんな事を考えていると、黒の一部が触手の様に伸びてきて、俺を掴む。


 とても逃げられるような速度では無い。

 それに、そもそも、黒を前に身が竦んだ俺は、一歩たりとも、その場から動けなかった。


 (ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい)

 黒の触手を通して、黒の狂ったような欲望が伝わって来る。


 『満たせるに決まってんだろ?』

 ビビッて、動く事すらできなかった俺は、それでも強がる。

 そうでもしなければ、今掴まれている黒の触手を通して、あの記憶達と同じように、飲み込まれてしまいそうだったからだ。


 しかし、俺の必死の抵抗も意に介さず、『そう……』と、詰まらなそうに呟く声の主。

 やはり、その声色は、生まれたばかりの頃のリミアに良く似ていた。 


 (……いや、そう考えるなら、相手は詰まらなそうにしているんじゃない。考えているんだ。分からないから、俺が何故そんな事をするのか、分からないから……)


 一度、リミアと記憶を共有し過ごした事のある俺なら、あの時のリミアの気持ちが分かる。


 虫としての本能だけが引き継がれた故に、記憶からは読み取れない、人間が持つ複雑な感情に戸惑い、自身がどう感じているのか、どうして良いのか、常に考えていた。

 もし、相手が、リミアと同じと言うなら、きっと……。


 (何も知らないんだ、満たされ方も、満たされたと言う、感覚も……)

 それでも、満たされたいと願っている。

 満たされたことも無いのに、満たされたいと願っている。


 それは、歪にも思えたが、本能を持つ生物としては自然な事なのかもしれない。

 腹が満ちれば、腹の満ちた感覚を覚え、安心して眠れば、疲れが取れ、それを、幸福と感じ、心を満たす。


 しかし、目の前の相手は、多分、それを一度も、生前に感じていなかったのだ。

 だから、満腹と言う幸福も、安心と言う幸福も、他人から読み取っても、理解ができない。

 なんせ、その体では、腹が減る事も、疲れる事もないからだ。


 減らなければ満たされない。満たされないから、満たされた感覚を知らない。

 満たされた感覚を知らないから、満たされた記憶を読み取っても、理解ができない。


 だから、一生、この子は満たされない。

 満たされる事を望んで彷徨い続ける事しかできない。


 他を害し、それを悪と感じる事も、善と感じる事も無く、唯々、他人の記憶と、この無の空間を、消える事も出来ず、ずっと、ずっと……。

 

 (それは……。そんな事って……)

 今まで存在したどんな記憶よりも残酷に思えた。

 そして、なにより、この子を放って置いては、仲間の誰にも顔向けができない。

 リミアに合わせる顔も無くなってしまう。


 『……そうだ!俺は、お前を満たせる!俺の中に入れ!お前を!お前の全てを満たしてやる!』


 もう怖くなかった。

 それどころか、救ってやりたいとすら思った。


 『本当?』

 それを聞いた黒い球体は、開いていた大口を細く閉じ、首を傾げる様にして、ドロドロと溶ける様な、その身を回す。


 『あぁ、本当だ!……んでも、その、体の中に入っている、全ての記憶を俺の体に移すのは無理だ。最小限にしてくれ』

 これは事実でもあり、囚われた者達を、解放してやりたいと言う下心もあった。

 

 『分かった』

 再び大きな口を天に向け、素直に俺の言葉に従う声の主。

 本当なら、疑ってかかる場面だが、この子は本当に何も知らないのだ。

 騙される事も、疑うと言う事すらも、自身がしている事がどういう事なのかも分かっていない。


 『分かっていないのは貴方の方よ?』

 何処からか、女性の声が響いて来る。


 『……え?』

 瞬間、俺は見覚えの無い、薄暗い空間に飛ばされていた。

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