第230話

 (良い匂いがする……)

 気が付けば、俺はコグモの背中の上だった。


 (とっても良い匂いだ。……このまま食べてしまいたい)

 ちょっとだけ、ちょっとだけなら……。


 「くっ……。ノイズが……」

 朦朧とする意識の中。苦しそうなコグモの声が耳に入った。


 (大丈夫なのかコグモ?!うっ……。何だ、コレ……)

 その声で覚醒した俺の頭に、沢山の声が響く『クイタイ』と。


 (や、め、ろ……)

 頭が痛い。

 無理やり、沢山の感情を、記憶を流し込まれているみたいだ。

 自分が沢山のその他で希薄にされ、自分が自分でなくなるような、あの感覚。


 『クイタイ。食いたい。食べたい。食べなきゃ。お腹が減った。何処?食べ物は何処?』

 皆、死ぬ程お腹を空かせている。 


 (違う!俺は、お前らじゃない!入って来るな!)

 コグモの声が遠い。

 侵入してくる情報の量と密度が濃すぎて、何が現実感なのか分からなくなる。

 

 「うっ……」

 瞬間、体に衝撃が走り、遠のいた意識が戻って来る。

 いや、戻ってきてしまった、と言うべきか。


 コグモの匂いを、存在を感じる事で、無意識に喉が鳴った。

 もう、誰が俺の体を動かしているのか、なんて分からなかった。


 (や、やめろ!やめてくれ!動くな!動かないでくれ!俺の体!)


 「あ……。あ、あ、あ……」

 コグモに逃げろと言いたかった。

 でも、もう、声すらまともに出ない。

 丸くなって、体を抑え付けるので精一杯だった。


 (そ、そうだ、保存食!糸の中の保存食を食らえば!!)

 俺は一心不乱に、保存食である血液を吸い上げる。

 吸い上げに吸い上げ、腹も一杯だと言うのに、それでも足りない。まだ足りない。タリナイ……。


 「ガハッ……!!」

 消化器官に収まりきらなかった血液が逆流して、口から出てしまう。

 勿体ない。大切な食料が。食べなきゃ死んでしまうのに。少しでも食べなきゃ。


 (違う!腹なんて空いてない!もう一杯なんだよ!やめてくれ!もうやめてくれ!)


 あぁ、もう無くなっちゃった。

 食べるもの無くなっちゃった。

 無くなったら死んじゃうね?

 あんなに一杯食べたのに、食べられなきゃ死んじゃう人の分も、食べられなくて死んじゃった人も、食べなくてもまだ少し生きられた人も、仲間も、家族も、皆、食べたのに……。


 見たくも無い物が。

 幾千万人の、幾億万匹の、見るにも耐えない無い食事風景が、その感情が、頭の中へ流れ込んでくる。


 食事の後に残るのは、 生きていると言う実感。

 我を忘れている間に感じてしまった、美味しいと言う感覚。


 そして、それを感じ、生き延びてしまったと言う、多大なる罪悪感。


 だから生きないといけない。

 食べないといけない。

 食べたかった人の分まで、生きたかった人の分まで。


 『ねぇ、目の前の"アレ"はどんな味がするの?』

 いや、違う。核にあるこの感じは……。


 (やめろ……)

 

 『あれも、きっと……』

 本当に無邪気な、味わいたい、腹を満たしたいと言うだけの、無垢なる食欲。


 (お願いだ。止めてくれ……)


 「あっ……。おはようございます。ルリ様」

 もう、前を見る事すらできないが、俺の意思とは関係なく立ち上がった、俺の体を見て、コグモが優しく声を掛けて来る。


 『美味しいんだろうなぁ……』

 

 そんな顔で、コグモに笑いかけるな。


 俺の目でコグモを見るな。

 俺の鼻でコグモの匂いを嗅ぐな。

 俺の腕でコグモに触るな。

 俺の舌でコグモを……。


 また奪われるのか?

 俺はまた、大切な人を、今度は俺の手で?

 そんなの、そんなのって……。


 「ふ、ざ、ける、なよ……。俺のコグモを、俺から、俺の物を、俺の全てを……奪うなぁぁぁぁぁぁ!!!」

 俺は全力で、体全体に無茶苦茶な電気信号を送る。

 神経は焼き切れ、体も滅茶苦茶な状態になっているだろうが、言う事を利かない体なんて、もう、俺の体じゃない。


 『俺から奪おうって言うなら、俺も奪ってやる!お前を、お前らの罪も記憶も感情も!奪って、食らって、飲み込んで!全て俺の物にしてやる!!』


 そこからは、ただの泥仕合。

 心の口を開けた俺の中に、無数の、様々な世界の、年代の、年齢の、生物の記憶と感情が流れ込み、内側から、俺を飲み込もうとして来る。


 勝ち筋はほぼゼロ。そもそも、終わりがあるのかさえ怪しい。

 負けられない戦いなんて、プレッシャーで押し潰されるばかりだと考えていたが……。


 『上等じゃボケェ!!こちとら、散々、現実と向かい合って来てんだ!!現実から逃げてばっかのお前らなんかに負けるかよ!!かかってこいや!!』


 生まれてこの方、これ程、熱くなった事があっただろうか。

 今までの事、皆の存在を考えると、変な自信ばかりが湧いてきて……。

 微塵も負ける気がしなかった。

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