巌窟王
「出来るよ、スルト。頑張れぇ」
テーブルには錆び付いた錠前とピックが置いてあり、母は幼い私を笑顔で見つめていた。
「ええっ……無理だよ。何度もやったけど駄目だったもん。これ魔法がかかってるんでしょ?」
何処かで拾ってきた錆び付いた錠前を開けることが、何かのきっかけになる気がしたと母は言った。
「無理かぁ。開けたら、さすが船大工の息子だぁなんて誉めてもらえるのに」
単に玩具を買えない貧しさから、そんな戯れをしたのかもしれない。
「フレッ、フレッ、スルト! フレッ、フレッ、スルト! がんばれー」
結局、私にはあの錠前は早すぎた。開きもしない錠前を弟に渡すと、ずっと玩具にして遊んでいた。
父親は言った……弟はお前が勝手に育てろと。
母さんは死んだ。運悪く裏の河原に降ってきた魔物に当たったせいだ。間抜けにあっさり、そう言って笑われても仕方ないと思う。
爺さんは私の体に腕をまわして、しばらく抱きしめていた。私は周りの人間が私がすべきだと思って、して欲しい態度をとらなければならない責任にうんざりしていた。
泣いたり、喚いたり、悲しんだり。そんなことは出来ないと思っていた。何も変わらないと知っていた。
港町で大工をしていた親父は、ふさぎ混んで酒ばかり飲むようになった。
二歳下の弟は生まれつき両目が見えなかった。まだバアとかブウブウとしか言わないのは、発達も遅れているせいだ。
赤ん坊の頃は良かった。乳母車に乗せて何処にでも行けたし、オブるのも軽いから。
私は弟を背中にくくりつけ、炊事や洗濯をしていた。あの頃は、それが当たり前だったので弟を身体の一部だと思っていたほどだ。
「おーい、スルト。スルトはいるか」
茅葺きの屋根裏には隠し部屋があった。弟と二人だけの秘密基地だ。
親父は母さんの服や荷物をほとんど売ってしまったが、この秘密基地には母さんの薬草や包帯、傷薬や回服薬が隠してあった。母さんの匂いと、錆びた錠前も。
「どこにおるんじゃ?」
私は口に人差し指をあてて、彼を黙らせた。あの頃、二人だけの秘密基地には客がいた。それは……怪我だらけの魔物だった。
いつものように、彼に食事をとらせて、身体を拭いてやった。初めて口をきくまで五日か六日はかかった記憶がある。母さんの葬儀や何やらが落ち着いてからのことだ。
一階の戸口で爺さんが騒いでいた。
「おやおや、また屋根裏にいたのか。一週間分の食糧を持ってきてやった。また親父さんは外をほっつき歩いてるのか?」
「うん。ありがと、じいちゃん」
「スルト……大変なら、坊やを預かってもいいんじゃぞ。もうすぐ学校も始まるじゃろ」
坊やというのは、弟には名前が無かったからだ。本当はあったのだろうが、私は知らなかった。医者は長生きは出来ないと言ったし、私にとっては坊やで充分だった。
「大変じゃないよ。こいつ結構役に立つんだ。店に行けば何でも安くしてくれるし、こいつといると“くじ運”が上がるんだ」
「ぷっ、幸運の女神でも付いとるのかの。まあ、お前の弟じゃから、儂ゃ構わないが。重くないのか」
坊やがいると背中が暖かいし、実際に万引きや物売りが上手くいった。惨めな障害児に対する憐れみの目が、そうさせるのかと思った。
はじめから、弟には見えない代わりに何か変わった力があると知っていたのかもしれない。弟を連れていたのは、自分の生存本能に従っていただけだった。
『キミの母親を殺したのはワタシだね?』
紫色の肌に金髪の魔物だった。背は低く、種族はよく分からなかったが、醜くはなかった。擬人化していたので、翼も見当たらなかった。
『……どうしてワタシを手当てしてくれるんだい。それに、目の見えない子の世話までしているは何故だい?』
普通の魔物は、自分の子だろうが家族だろうが障害のある子供は育てないそうだ。その魔物にとって、私は不思議な存在に見えたようだ。
母親が死んでいる横で、倒れていた魔物を介抱するなんて、確かに変わっていた。何の信念も計画も無かったのは確かだ。
『キミのような人間は見たことがない。人間は自分の事しか考えない怪物ばかりだと思っていた』
私は彼の思うような人間では無かった。私に聖人のような清い心は微塵もない。ただ周りにあるものを利用していただけだ。
生きるために。
あるいは自分のような人間が慈悲深く、死した母より、息のある魔物を助けようすることに僅かな価値を見いだしたのも事実だ。
神聖な存在、意味の分からない存在。そんなものと最下層の自分を重ねて何の意味があろう。寧ろ私は真逆の思想を抱えていた。
『キミは素晴らしい少年だ。キミの望みは何だい? ワタシはもう助からない。せめて、せめてキミの為に何かさせて欲しい』
彼は私との契約を望んだ。私は弟を差して彼に言った。
「弟が……生きていけるように手伝ってほしい。普通に生きていけるように」
魔物は涙で頬を濡らし、私の手を握った。彼は何も分かっていなかった。弱っていたのだろう。
私は自分の生存率をあげるために、弟の目を望んだだけだった。弟を自分の一部だと信じていたからだった。
実はかわいそうだと思ったこともある。だがその一方で別のことを感じた。誰かをかわいそうだと思えば、いつも最後にはそう思わないほうが良かったと感じた。
つまり、かわいそうだからといって何も出来ない自分を悔やむことになる。助けを求めている人間はどこにでもいる。
死んだ母も、父親も、爺さんも、向かいにも、隣にも、そこらじゅうにいる。港町だけでも五万といる。
私は一人しか居ないのに助けて欲しいと願う人間が多すぎるのだ。
魔物が死んだ翌朝、私と坊やは朝食を済まし学校へ行った。周りの人間は誰一人、疑問にも思わなかった。
坊やの目が見えていたことに。
父親と祖父は、母の残した薬草や回服薬が効いたのだろうと信じていた。そもそも、貧しい子供や障害のある子供に誰も興味など無かった時代だ。
坊やが歩き、私と共に何処へでも行くのを世間は疑問に思わなかった。私は魔物との契約を思い返した。
弟の両目の代償は、単純だった。対価や契約などとは程遠い、単なるギフトだった。日常が変化することは無いと思った。
私は生涯、魔物と人間を差別出来ない目を植え付けられた。魔物の感情を読み取る能力を与えられたのだ。
死にゆく魔物が感謝の気持ちを伝える為だけに結んだ契約、たったそれだけだった。魔物の心を覗くだけの力だ。
だが、その誓約の鎖はジリジリと私の首を絞めていくことになる。
私は坊やと共に魔物の死体を家畜小屋に運び、豚に食わせた。私はそういう、魔物とは縁のない普通の人間だった。魔物の事など無に返し、忘れたいとすら思っていた。
夜の酒場に差し掛かると、痩せた男が殴られていた。酒場の亭主は男の腕を掴み、皿洗いをしろと怒鳴った。
「どうかしたの? オジさん」
「なんだ、ガキが彷徨いていい時間じゃないぞ。こいつら奴隷の癖に、摘まみ食いしやがったんだ」
今では考えられないが、当時の港町には奴隷魔物がいた。擬人化したまま密告を恐れ、主人に実情を告白する魔物がいたのだ。
「そいつ、魔物? 人間に見えるね」
「ハハハ、ゴブリンだよ。金がありゃ人並みに飯にありつけると思ってたみたいだが、こっちは騙されない。捜査員が見抜くからな」
「ふうん。親父にあんまり飲ませないよう頼むよ。ボクらは、それを言いに来ただけさ」
頭の片隅に声が響いていた。まるで脈打つみたいに繰り返し、繰り返し。
『タスケテ……タスケテ……タスケテ』
その夜から私は恐怖に取りつかれた心を知った。恐れや苦しみは人間にだけある感情だと思っていた。
可哀相な人間は私だと思った。助けて欲しいと繰り返していたのは、私自身でもあった。魔物の叫びは私自身が失っていた感情だった。
『タスケテ……タスケテ……タスケテ』
何も見ない、何も知らない。涙が溢れだし吐き気がして、私はひっそりと屋根裏に隠れて耳を塞いだ。この感情に支配されれば、自分はおしまいだと言い聞かせた。
もうおしまいだと思った。もう耐えられないと思った。その時、坊やは私の手を握って言った。
「……フレッ、フレッ、スルッ。フレッ、フレッ、スルッ、ガンガレェ」
「や、やめろよ」
坊やは私に話しかけた。小さく、弱々しい声だった。いつも私を応援してくれた母を思い出した。耳を塞いでも無駄だった。
「ガンガェ、スルッ、フレッ、フレェ」
「やめ……やめろ…ってば」
坊やは屋根裏部屋の端で、黙った。母さんのくれた錆びた錠前を掴み、ひとりでじっとしていた。
ガチャン。
「……!」
弟は錠前を開けて微笑んだ。その瞬間、私の中の何がが変わった気がした。
その時初めて私は母の死を受け入れた。この世に母さんは居ない。その事実が目の前にあった。私は、弟を抱きしめ泣きわめいた。
「うおおっ……うぅおおおっ……うおおっ……うっ……うぅおおおおおっ……うおおおおっ……」
何日かたち、いつの間にか坊やはフレイと呼ばれるようになった。何を聞かれてもフレェ、としか言わなかったからだ。
「フレイ……フレェ。スルト、アニ」
「そうだ、フレイ。お前は俺の手足になれっ」
あの晩、フレイは錠前を開けて見せた。私は弟の腕を利用することにした。牢を破り魔物を助けて、逃がしてやる。
私は弟を連れて、賭場や酒場、闘技場に忍び込んだ。そこで魔物を解放し、ついでに金品を盗むことを覚えた。
私たちは最強だった。魔物の考えが読める私は、人間の考えも少なからず読めた。そしてフレイには強化した目があった。
淀みなく実社会の現実と精神世界を見て、私たちは生きていた。私たちには怖いものなど何も無かった。
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