猟犬ガル

 涼しい風に揺れる花壇。真っ白で洋風の犬小屋。あったかい飯と、可愛い息子、そしてベスが俺を出迎える。ミルクスープの匂いと新品のマット。


「パパッ! いつも有難う。大好きっ」


「あなたっ、愛してるわっ」


 そんなに毎日言わなくても分かってるぜ。まあ、俺みたいな英雄は忙しいけど、帰宅時間は速いんだ。足が速いから。ベスは頬を赤らめて、もじもじして俺の足を掴んだ。どうした? 何か言えよ。


「ねえ、ご飯にする、お風呂にする、それとも、ア・タ・シ?」


「うひゃひゃひゃ!」




 俺は妄想を振り払って辺りを見まわした。ちやほやされたのは、五分と二十秒だけだった。ちゃんと舞台の時計台を見ていたから正確だ。何匹かのグリフィンは事態を把握しているようだ。闘技場には、魔物がひしめいていた。


 グリフィンにコカトリス、ゴブリン、オーク、シルフ、オーガにドワーフまで四十匹はいる。人間の姿はすっかりなくなっていた。まあ、居心地が悪かったんだろう。


 ――たった一人を除いて。


 グリモールとかいうガタイのいい魔物が地下牢を破ったそうだ。そこには、手負いの魔物が何匹もいて、闘技場で死刑にされるのを待っていたらしい。老いた魔物たちは聞いたこともないような歌を歌っていた。


 そんな連中に混じって、人間がいるのは…逆に気味が悪かった。誰もが冷ややかな厳しい顔をして彼を見ていた。


 俺には分からなかったが、この人間には魔物たちの苦しみを理解し、受け入れる能力があるそうだ。


 その男の名はスルト。みすぼらしいボロを纏って肌は色あせ、水ぶくれが出来ていた。髪も眉毛もべったりと張り付き、いかにも囚人といった風貌をしている。


「スルト様、ご無事で……」


「ベスか。精霊シルフがはやまったようだな」


「申し訳ありません」


「いいや、もう餓鬼界からの攻撃は私が止めたよ。時期が少し早まっただけだ」

 

 驚かされっぱなしだった。その人間は魔物たちの恨みと憎しみを溜め込んだ器みたいだった。人間と言うのもおかしな程、歪だった。


「ガル、ちょっと話せるかしら。言いづらいんだけど」


「言わなくてもわかる。君は魅力的な猟犬に出会い、悩んでいて相談したいんだろ」


 ベスはもじもじとして俺の足を掴んだ。涼しい風に揺れる花壇。真っ白で洋風の犬小屋。あったかい飯と、可愛い息子、そしてベスが俺を出迎える。ミルクスープの匂いと新品のマット。


「パパッ! いつも有難う。大好きっ」


「あなたっ、愛してるわっ」


 そんなに毎日言わなくても分かってるぜ。まあ、俺みたいな英雄は忙しいけど、帰宅時間は速いんだ。足が速いから。ベスは頬を赤らめて、もじもじして俺の足を掴んだ。どうした? 何か言えよ。


「ねえ、ご飯にする、お風呂にする、それとも、ア・タ・シ?」


「うひゃひゃひゃ!」


 俺は妄想を振り払ってベスの顔を見た。


「……そんな話じゃないわ」


 スルトはベスの肩に手をかけて、俺を見下ろした。彼女は擬人化なんかやめて、俺のそばにいればいいと思った。


「あなたの主人がアンナなら、私の主人は彼だわ。言ってる意味は分かるわね」


「あははは、そうは見えない。俺はアンナ様の所有物でも奴隷でもない」


 男は膝をついて俺を見た。吸い込まれそうな青い眼の奥に冷たい物を感じる。


「猟犬とは珍しいな。ガルって言うのかい。君には仲間になってほしいな。そうすれば、ベスと家族を作ることも出来る」


「……それはベスが決めることだろ?」


 男の痩せた首に喉仏が浮きだった。俺の頭を撫でようと手を出した。

 

「人間は悪いやつばかりだ。ろくなもんじゃない。滅びるのはあいつらだけでいい」


「良い奴もいるぞ。 マイロとマリッサは 弁当を別けてくれるんだ。 森に一緒に行った時はな」


「どうせ人間の醜さに絶望し、何ひとつ変われない現実に苦しむことになる」


 そいつの手が俺に乗ると、とても冷たくて息が苦しくなった。足元から、死んだ魔物たちが俺を引きずり込もうと手を伸ばしてくるのが見えた。飛び上がりそうになったが、こいつは現実じゃないと思った。


 幻覚なら、自粛待機マテでやり過ごせる。俺は見るのも嫌になって眼を閉じた。水の中にいて深く沈んでいくような感覚だった。マイロと溺れかけたセレーヌ川より冷たかった。胸が痛み、これ以上息を止めていられないと思った。


 眼を開けて掴むように空気を吸った。ベスが隣に座り、俺を抱きしめようとしていた。俺は現実に戻ってこれた気がしてほっとした。


「俺に触るな、ベス」


「……が、ガル」


 俺は、スルトから距離をとった。この男の中には魔物の魂が蠢いてる。どういうつもりか知らないが、魔物の無念をひとりでしょい込んでるつもりらしい。


 ガルルル

 ウー……。


「落ち着いて! ガル」


「黙って、向こうに行ってろ」

 

 ベスを突き飛ばしちまった。触れれば俺と同じように幻覚に取り憑かれるから、仕方なかった。信じられないだろうが、俺は良いボーイフレンドには向いていないかもしれない。スルトは立ち上がり両肩を持ち上げた。


「……そりゃ意外だ」


「!!」


 俺の考えてることが分かるのか……何者だ、こいつ。


「恋愛のアドバイスが欲しいかな。私はスペシャリストじゃないが」


「だろうな。ベトついた髪はセクシーだが、モテそうには見えない」


 ウーー……

 グルルル。


「信用してもらえないようだな」


「貴様も人間だろうが」


「ああ、君が正しい。だから私は命を与える。私は何度も間違ってきた。死んでいく魔物たちに人生で一番楽しかった時代を見せることも出来たのに、厳しい現実を突きつけることになってしまった」


「あ、あんたは魔物を利用しているのか」


 これは、こいつの魔力は……魔物との契約による効果だ。その魔物が苦しんで死ねば、餓鬼界に落ちて悪魔となって蘇る。そこから魔力を吸いだせるとしたら?


「そのどす黒い魔力で何をしようってんだ」

「やり直すだけだ。私が間違えたから、いけないんだ」


「………だから、人間に罰をあたえるのか?」


 自分を責めることには慣れている。まあ、自己嫌悪についてはスペシャリストだな、俺は。だが、逆切れして攻撃に転じるなんてのは重症だ。そんな奴は最初から自己嫌悪なんてするもんじゃない。そりゃ、ただの嫌悪だ。ただの暴力だ。


「全てを失う前に考えた方がいい」


「ガル。私たちの仲間になると言って。ずっと一緒にいたいの」


「べ、別に仲間になるのは、構わねえけど…」

 

 涼しい風に揺れる花壇。真っ白で洋風の犬小屋。あったかい飯と、可愛い息子、そしてベスが俺を出迎える。ミルクスープの匂いと新品のマット。


「パパッ! いつも有難う。大好きっ」


「あなたっ、愛してるわっ」


 そんなに毎日言わなくても分かってるぜ。まあ、俺みたいな英雄は忙しいけど、帰宅時間は速いんだ。足が速いから。ベスは頬を赤らめて、もじもじして俺の足を掴んだ。どうした? 何か言えよ。


「ねえ、ご飯にする、お風呂にする、それとも、ア・タ・シ?」 

 

 ワウワオオオーーーーン


「おい! いい加減にしろっ」スルトが睨んでいやがる。「その妄想は、もういい。何度も何度も見せるんじゃない。絞め殺すぞ」


「けっ、それがお前の本性か? お前の妄想のほうがみっともないぜ」


 こいつは魔物の無念をかき集めてるだけの亡霊だ。本気で餓鬼界から膨大な魔力を得たら、十の災いどころか、五つか六つで人間界は滅亡しちまう。そんな世界で何をやり直そうっていうんだ。


 闘技場の奥から、ジムの声が聞こえた。怪我をしているらしく、顔色は悪く汗をかいていた。俺はいるかって探している。どうやら、うちの骸骨兵士が餓鬼界にスルトのスポンサーを倒しに向かったって話だ。


「仕方ねえなあ」


「どこに行くの?」


「お、お土産を買いに」


「売ってないわよ。行かないで、ガル。仲間になるって言ったでしょ」


「ああ、仲間はやめた。あばよ」


「ば、バカ! それじゃ、まるで負け犬じゃない」


 俺は振り向かなかった。俺が負け犬というなら、その通りだと思った。もう一度だけ、あの素敵な妄想をしたかったが、スルトに見られるのも癪なので辞めた。

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