獣人アンナ

 まだ眠いの。どうせ暇なんだから、あと少し寝かせて欲しいの。寝ぼけ眼は部屋中の石壁に書きなぐられた数式と魔方陣を見たわ。


「……!!」


「おはよう御座います。アンナ様」


「お、おはよう。パピィ」


 テーブルにはパンとサラダ、ミルクと干し肉が用意されていた。私は新しくて柔らかい生地のブラウスとパンツを着てる。あのキツいビキニアーマーを着ないで済むだけでも、ありがたかったの。


 私は泣きそうになって、しばらく食事が喉を通らなかったの。当たり前の物なんてないと知っていたから。


「服はフレイが用意してくれましてよ」


「うん……有り難う」


 パピィは私の後ろに立つと、いつかのように櫛を取り出して撫で下ろしたわ。小さな手鏡をそっと渡してくれた。


「餓鬼界に行くのね」


「ええ、私と捜査騎士シーカーフレイ。魔術師マスタークラインで行きますわ」


「どうして?」


 優しい笑顔の裏側にパピィの決心が見えるわ。手鏡で見るパピィは、裸足で染みだらけのボロを着ていたわ。


 多分、自分は眠っても食べてもいないのだろう。もう知らないで済む時代は終わったんだと気付いたの。


「フレイは役に立ちますわ、彼はいい目を持ってるから。魔術師は封印術に必要ですのよ」


「私も行くわ」


「だ、駄目です……アンナ様は、決して部屋から出ないようにお願いします」


「パピィ。貴女が私を大切に思っているより、私は貴方を大事に思ってるのよ」


「……知っていますわ」


 ノックがしたわ。私は起き上がり、暖炉に掛けてあった鉄の灰かき棒を掴んで扉に向かったの。何かを守りたかったのだろう。いいえ、怖かっただけかもしれない。


「どなた?」


「ハンスだ。開けろ」


 眼をぐっと瞑ったわ。一気に脈拍があがって思わず、灰かき棒を握りしめていたの。魔物たちを騙して、闘技場で殺していた張本人は王家だったことを忘れてはいけない。怒りで乱れた呼吸を整えながら、震える声を抑えた。


「貴方の命令なんか聞かないわ。貴方は命をもてあそんでる」


「一番に命を弄んでいる神に言え。俺の命令が聞けないなら、直接天国で言えるだろうな」


「………」 


 大きな扉がギイと鳴って開いた。ハンス王子は二人の騎士を連れてずかずかと入ってきたわ。面長で髪を一つに束ねているのは魔術師クライン。そして騎士の称号を与えられたばかりのフレイ。


「か、勝手に入ってこないで」


「黙れっ! 俺に黙って何を企んでる」


 ハンス王子は腕組みしたまま眉を吊り上げてピシャリと言ったわ。クラインから事情は聞かされているみたい。フレイが間に入って言ったわ。


「王子。落ち着いてください」


「落ち着いて聞いてやる。俺は自分だけ助かろうなんて思ってないぞ。何をやってるか言ったらどうだ」


 子供に振り回されるのはまっぴらだった。挑発的な態度に翻弄されるより、王子がどういう人間なのか、何を考えているのか、今までとは違った見方をしようと思ったわ。


 私はパピィに顔を向けて両肩を持ち上げた。


「聞いて分かるかしら?」


「磁界の表面張力を計算してます。共鳴空洞の変異魔力を利用した呪術的魔方陣を書いてますのよ」


「お、思った通りだな。手伝いをしてやろう。困ってることは?」


 私はパピィの前に立って王子を見下ろしたわ。自分が非難されることを知らず、人の気持ちなんて考えもしない王子に言ったの。


「なら……余計な口出しをするお子様を近づけないで欲しいわね」


「そんなやつが居たら俺に言え」


「今、してる」


「そうか、俺は人の気持ちを気にしすぎるな。最大の欠点だ」


「………」


 少し意外だったのは王子には兄弟がいたことよ。そして、餓鬼界へ行くことに協力的な態度だったの。ハンス王子は自ら餓鬼界に向かうと言ったのよ。


 愚痴ばかりで忍耐力の無い子供、卑劣で無神経で馬鹿だと決めつけていたの。王冠を取ると呪文を唱えながら出窓のヘリに置いたの。


「いいか、これから国王と直接話す。やることは分かってるな。クライン」


「ええ、イナゴの化け物が現われて国を滅ぼす前に、手を打たねば」


 王冠からは光が洩れ、ここに居るはずのない太っ腹な髭だらけの男が現れたの。赤いガウンを着て、雅で煌めく装飾品があちこちに散りばめられた服を着ていたわ。


「父上」


「あ、ああ。ハンスか」


 驚いたことに彼は国王、本人だったわ。王冠はフォログラムを映し出し、姿を見せるためのアイテムだった。


「父上は、この女が剣闘士の中でも一番の使い手だとは信じないでしょうな」


「いや、儂は信じる。随分と怒った顔をしているが」


 見る眼だけは持っているのだろうかと息をついて王を見たわ。怒りの感情や能力を見透かされているような気がしたの。


「報告を聞いたからの」


「………」


 王は威厳のある白い髭をはやし、柔和な白い顔をしていたわ。その中でガラス細工を埋め込んだような青い眼が、表情を感じさせない冷たさを醸し出していたわ。


 映像じゃないなら首を締めて、殺された仲間の気分を思い知らせてやりたいと思ったわ。


「ふん……なら、話しは早い。餓鬼界から十の災いが降ってくる」王子は言った。


「アーサーが死んだら……お前が第一王子になるのぉ。期待してるなら残念だが、死ぬのは山羊だけだ」


「バカにしないでくれ。山羊の血が絶対に効くとは言われていない。少ない事例を信じるのは危険だろうな。俺は兄者を助けたいと思っている。父上はいつも……いつも俺を誇りには思わないと言ってた。だが……俺が餓鬼界に行って災いを止めて見せると言ったらどうだ?」


 ハンス王子の兄。病弱だけど、とても優秀で国民に愛された王子だそうよ。そして十番目の災いで死ぬのはハンスではなく、アーサーという王子。目の前の幼い王子は、王国の正当な後継者ではなかったのよ。


「勇者は魔王と戦っている。アーサーも病気と戦っている。儂は国中に湧いてきた魔物を制圧するのに忙しい。お前は餓鬼界とかいう場所へ旅行か……そっちの娘の提案だな」


 国王はしゃがんだまま計算を続けるパピィを指差したわ。王はパピィが人面鳥だと気付いたのかも知れないと感じたわ。


 フレイが話すことは無いだろうけど、パピィも私も魔物だと分かれば、王家は容赦しない。クラインもターネルも、私達を捕まえて躊躇なく殺すことでしょう。


「ああ、そうだ。実験魔法学者のパピィだ」


「報告は聞いておる。進言を聞いたことは誇りに思う。世界中の山羊の命はお前らにかかっとる」


 国王と顔をあわせた私達は、頭を垂れて挨拶を済ませたわ。王子を見ると、今にも泣きそうにな顔をしたわ。


 優秀な第一王子の陰で、この身勝手な王子は軽く見られてきたのだろう。たったの一言、誇りに思うと言われて感極まったように、身を振るわせていたの。自分の手柄でも何でもないのに。


「泣いたら誇りに思わんぞい」


「なっ……泣くわけがあるかっ!!」


 ハンス王子は王冠を戻したわ。王都も父上もあてにはならないと言ってたわ。


 勇者にはいくらでも支援するけど、第二王子と、その部下の物語には興味がないといった風だった。ハンス王子は喚くように私に言ったわ。


「どうせ俺が父上に全く相手にされてないと思ってるんだろ」


「そんな、そんな、そんな。まさか、まさか、まさか」


 私は腕組みしながら、ニヤケ顔でわざとらしく何度もうなずいてやったわ。思ってるに決まってるから。


 王子は明朝までに、兵の準備を済ませると言ったわ。餓鬼界に転移し、自ら災いを止めに進軍する決意を伝えたの。


 彼は転移を甘く見ているの。つくづく能天気な子供だわ。自分がどれだけ恵まれているか知りもしない。


「帰ってこれる保証はないのよ」


「アンナ……と言ったな。嫌なら来なくてもいいんだそ。この場で処刑してやる」


 彼には犯した罪の裁きを受けてもらう。でも目的が同じなら利用してやろうと思ったわ。私はパピィだけを餓鬼界に送りたくなかったの。


 翌朝、城代から武器や防具を取り揃えた私は他のプリンスガードたちと城の中庭に集まったわ。四十人近い騎士たちは騒然としていた。


 残留魔力を追い、十の災いを起こす現況の地点へ一足飛びに転移する。そこに何があるのか、どんな悪魔が待っているのか……誰にも想像が付かなかったの。


 私はまだ知らなかった。自分がどれだけ能天気で、恵まれた立場にいたのかを。


 


 


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