獣人アンナ

 王子の側近は三人しかいなかったわ。太陽が真上に登ったころ、馬車と一団が湖畔の野原に止まったの。屋形馬車の周りには鋼の鎧を着たプリンス・ガードと呼ばれる騎士が五十人はいたけど。


 こっちの老騎士と、あっちの魔術師。そして目の前の男。向こうは覚えていないでしょうけど、私は知っているの、その長い黒髪にブラウンの瞳。休養をとり、彼の手当てを受け、かなり元気になった気がしたわ。


 ――魔物捜査官のフレイ。彼は、剣闘士はすべて奴隷だと思って偉そうに命令したけど、従うつもりはなかったの。


「光栄なことなんだぞ。感謝の言葉と微笑み以外は何もいらない。王子を喜ばせることだけを考えてくれればいい……君は知らないだろうが」


「知らないわ、そんなの。交換なら知ってる」


「……ああ、さっき女中がシナモンケーキを作ってたな。分けてもらうよ」


「それだけ?」


「あのなぁ、奴隷には充分なご馳走だ」


 彼は私を小突いたけど、それは奇妙に優しい仕草だったわ。王子と謁見する為だけなのに、わざわざ馬車を止めて湖畔にテーブルや椅子が並べられていたわ。異臭がすると言って、衛兵たちが騎士に怒鳴られていたの。


 ハンス王子との会話はあまり覚えていないわ。その時、印象に残ったのは最後の言葉だけね。『下がっていいとは言ってない!!』



「逃げ出すものは、晒し首にしてやるっ! 誰もさがるな!」


 謁見はまともに行われなかったの。フレイは私を揺さぶり、顔に向かって「アンナ!」と怒鳴り続けたわ。湖畔の水はまだらに、赤くに染まっていたわ。


「逃げろ、駄目だ。ここにいたら死ぬぞ!」


 湖畔に広がる樺林をそこらじゅうに駆けまわるいくつもの鋼の鎧が見えたわ。彼らが何と戦っているのか、すぐには分からなかったわ。私は目を凝らして兵士たちを見た。


 ――あぶと、はえだ。


「ま、街にはポイズン・トードの大群が押し寄せてきているそうだ」


「大丈夫だ、戻ろう。まだ持ちこたえているらしい」


「勇者たち四人が戦っているそうだぞ」


 逃げていく衛兵たちの声が耳に入ったわ。勇者……闘技場で勇者に扮した演者のことだろうか、と思ったわ。


 確かに実力はあったけど、本物には到底及ばない。最後のアタックで気絶していた連中にしては、復帰が早いわ。私は未だに、頭がぼおっとしているのに。


 兵士たちの悲鳴が聞こえた。ただの虫じゃなかったの。吸血性の虻に襲われた人間は全身の血を抜かれて体中が腫れあがり、のたうちまわったの。


 蠅のほうも、固くて大きな体をしていて、人間に噛みついていたわ。肉をそがれた人間は、血まみれになって悲鳴を上げていたわ。


 虻や蠅に剣や矢は通用しない、そう分かると側近の魔術師と幾人かの魔法使いがファイアー・ボールを畳みかけたわ。一面にファイアー・ストームとファイアー・ウォールが造られて、黒煙が舞いあがったの。


「うわあっ! たすけてくれ」


「きゃああっ!!」


「に、逃げろぉ!」


 火は屋形馬車に移り、衛兵や女中が散り散りになって逃げて行ったわ。無差別に炎が巻き起こり、喉が焼けるほど空気が熱かったの。


 虫に刺され転げまわる者や、炎に包まれて暴れまわる者の悲痛の叫びが轟いていたわ。


 負傷者と瀕死の者たちの苦痛の声だったわ。私はどちらに逃げていいか分からず、立ち往生した。そこらじゅうに死が溢れていたわ。


 フレイは馬車のホロをもぎ取って私の頭に被せたわ。私たちは身を低く、身体を小さくすることしか出来なかったわ。彼の体が、密着してとても安心したの。


 燃えさかる馬車の正面に、ひとり。背の高い痩せた男。人間にみえたけど、顔は違ったわ。


 目は膨張し二つの眼球は顔面の半分以上の大きさだった。ハエやトンボのような複眼を持つ昆虫のそれだったわ。


 その口元は蟻や蜂のような口器構造で、バックリと切り開いた口まわりには触手のような髭が生えていたわ。


 そいつが片方の手を……手も棘だらけの昆虫っぽかったけど、とにかく手なのか足なのかを挙げると、その指示に従うように蠅や虻が真上に飛んで行ったの。


『ギ……ギギギ……ギギ』


 王子を庇うように老騎士と魔術師が、蠅の化け物の前に立ったわ。他のプリンス・ガードは皆、混乱の中で鋼の鎧を脱ぎ捨て身体を掻きむしっていたの。


 ほとんどの衛兵はさっさとロザロの街に逃げて行ったわ。老騎士はロングソードをくるっと回して構えたわ。


『ギ……ギギギ……ギギ』


「我は王家の守護騎士、ターネル。尋常に勝負しろ!」


 魔術師は王子を守る一枚の炎の幕を作っていたわ。振りかぶった老騎士と蠅の化け物は一対一で対峙したまま動かなかった。


「……駄目よ、勝てないわ」


「待つんだ。君が動いたってどうにもならない」


 フレイの腕の中から、後ろを振り返ったの。横たわって息絶えた白馬の影にパピィがいるのが分かった。


 彼女の手がオレンジ色の光を放っていた。初級魔法のファイアを詠唱しているようにも見えたけど、私には分かった。


 魔術師の唱えている炎が反射しているだけだわ。魔力がわずかにしかないパピィのオリジナル魔法だった。起爆性のガスを入れた風船のようなものを作っているの。


 それは……私にしか出来ないことだ思ったわ。私に向けて用意した魔法だった。


『ギギギギ…ッギギギ』


「……ぐおおおっ!!」


 老騎士の剣は、持っていた腕ごと宙に舞ったわ。そのまま、大きな体が斜めに傾いたかと思うと、炎の壁の先にいる魔術師に向かって放り投げられたわ。


 私は老騎士の身体が炎の壁を破った瞬間、シルバーソードを掴んで駆けだしていたわ。


 死んでいた馬や、人間の兵士たちが〝可哀想〟だと感じたから……いえ、私やフレイも殺されると思ったから。


 それだけじゃない、私が攻撃するのに合わせてパピィは必ず風船を撃ち込む。二つ、三つ、四つ。


「骸骨剣っ!!」


 このタイミングでファイア・ボーンを打ち込む必要はない。起爆だけで充分な威力があるはず。火と反対の力、移動を加速するほうの能力を使う。


「うわあああああっ!」


 自分が何にむかって叫んだのか分からなかった。泥だらけの顔をあげ、奥歯を噛み締めた私は野獣のように咆哮をあげていたわ。


へルター用心スカルター!!」


 想像どおり、蠅の化け物にあてた剣に手ごたえは薄かったわ。そいつは……そいつらは四散して姿を変え、無傷で逃げ出そうとしていたわ。


 でも、追撃の風船はそれを許さなかったの。耳をつんざくような爆音と熱風はずっと遅れてやってきたわ。


 ドッドッドッ、ドッ―――……


 地鳴りのようにビリビリと全身が揺れて、一面に爆発が広がったわ。私は蠅と虻から距離を取った場所でバランスを崩したわ。


 最後の爆風は、マントに遮られていたわ。


「ハア……ハア……ハア……う、上手くいった? パピィ」


 膝をつきそうになった私を支えてくれたのは、パピィじゃなかった。


「アンナ」彼は、フレイは、言ったわ。「本当にすごい攻撃力だ」


 彼は追撃の爆風のなか、私のそばまで駆けてきていたわ。それが、ハンス王子の命令だとしても、出来る事じゃないと思ったの。そして最後の爆風から私を守ってくれたわ。 


「キミは一流の剣闘士だな」


 パピィはどこ……違うわ。本来は私の剣なんて、これっぽっちも凄くないの。闘技場で戦ったのはガイだし、今の爆発だってパピィがやったのよ。


「………」


「来ないで。貴方がいたら、貴方がいたら逃げられないじゃない」


 魔物を見分ける能力者、フレイ。あたりにはまだハンス王子と五、六人のプリンスガードが残っていたわ。彼がいる限り、パピィは近づくことが出来ない。


「ご、ごめん。ボクがちゃんと逃がしてやる」

 彼はそっと頷いて私を見たわ。あの時と同じだったわ。彼は知っているのかと思ってドキッとしたの。


「さあ、一緒に逃げよう。勿論、後ろに身を隠しているキミの従者も一緒だ」


「……知っていたの? パピィを」


「いや、ボクは魔物は見抜けるが、全ては見抜けない。キミの嘘が下手なだけだ。キミは従者を一番に気にしていて、ボクはその従者に嫌われてる」


 彼の目は真剣だった。彼の能力は……いいえ…彼に能力なんてないの。強いて言えば彼はまっすぐに見るだけ。真っ直ぐ、どこまでも真っ直ぐ。


「嫌ってるんじゃないわ。あの……私もパピィも」


「まるで保護者じゃないか。キミは、無理をして大人ぶる必要なんてない」


「なっ……私は大人よ」

 

 私の姿が子供だったことまで知っているのかと思ったわ。彼のペースに乗ったら駄目。心の中まで見透かされる気がしたわ。立ち上がる私たちの目の前には、小さな足があったわ。


 ハンス王子は言ったの。


「逃げるだと? 下がっていいとは言ってないぞ!」


「………」


 虻や蝿より、この王子に消えて欲しかったわ。逃げるタイミングを失った私は、大きなため息をついたの。



 

 


 

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