猟犬ガル
ここがどの辺なのかは分からなかった。川辺は砂利と森に囲まれて、生き物の気配はなかった。朝焼けを映した川が真っ赤に染まっているように見えた。
緩やかな流れに身を任せていた。ぷかぷかと川に浮いた魚たちが身体に当たる感触。よく見るとその死骸はあちこち無数にあった。気づいたコボルトとオークは慌てて岸に上がった。
川辺にあがると紐がとけ、骸骨兵士の骨が砂利にばら撒かれた。ガイの蘇生には随分と時間が掛かっている。黒く深い不安が立ち込める。
「ひっ……ひいっ。魚が死んでる」
「ひゃあああっ! か、川が血に染まってやがる!!」
コボルトたちは真っ赤に染まった川を見て慌てふためいていた。俺は自分の血の気が引いていくのに気付いた。この異変に対してでなく。
ワン……ワン?
ワン…ワン!
『アンナ様は? アンナ様が居ないじゃないかっ。誰か知らないか、アンナ様を』
十匹の魔物は各々が騒ぎ立てていた。何かが起きているのは違いなかったが、アンナ様が見当たらないことと、魔法使いのオークドルイドが死んでいいることだけは確かだった。身体が冷えきって声が震えた。
ワ……ワン…ワウン!
『みんな、集まれよ。どうなってるのか分かる奴はいるか?』
「ひやーっひゃひゃひゃ!」
『……何か知ってるのか、シルフ』
真っ赤な川に浮かんだ魚の死骸は延々と続いていた。こんなのは見たことが無かった。こんな水は飲めないし、川の生き物は大量に死んじまっているみたいだった。
でも、今はそれどころじゃない。
ワンワン!
ワンワン!
『一緒に家に帰るはずのアンナ様が居ない! 一緒に家に帰るのに。どうしよう……どうしよう……どうしよう!』
「お、落ち着いてガル、わたしを見て。三秒でいいから」
クゥーン……
『あ、ああ』
「そう、落ち着いて。まだ間に合う」
俺はベスの眼をじっと見て冷静さを取り戻した。ちょっとだけエロい妄想をしたのでリラックスできた。緑色の肌をしたシルフが耳障りな声で笑っていた。
「ひゃあああっははははは!! 災いだ、十の災いが始まったっ!!」
『何いってやがるんだ? あいつ』
目の見えないオーガと羽根の無いアークデーモンは二匹で、一匹だった。片腕どうしのオークとオーガ、足の効かないコボルトは三匹で助け合っている。
亡命した魔物に帰る場所なんて無い。王家の率いる勇者軍も、魔王軍も、街の人間や何にも属さない野獣すら信じられなかった。
老いたフォックスピッドは身を震わせて水を滴らせて言った。
「シルフ! 何をした。オークドルイドに何をしたんだ」
「ぷっくく…っく。ああ、あいつは喜んで協力してくれたよ。生け贄になって死んだ」
「なんだって!?」
俺は目前の川を見渡し、この光景は何だと自問した。腐った匂いが広がって、ガアガアという鳴き声がそこかしこから聞こえた。
「くっくっく……人間に復讐するんだよ!」
川から爬虫類のバケモノが、上がってくる。体高は大きいもので二メートル、全身は黄緑色、巨大で突きだした頭部は蛙そのものだった。五匹……いや、二十匹、三十匹。
「ポイズン・トードだ。す、すまないが、俺たちは先に逃げるぞ」
「ああぁ。あぁ、さっさと逃げた方がよさそうだ。人間を殺してくれるなら有難い」
俺と犬類を残したままオーガやゴブリンは丘に向かって走った。爬虫類のバケモノは岸部を埋め尽くしていた。
捕まれば腐った胃液と、舌から飛び出す毒液に犯され、あっという間に身動きが取れなくなる。
ガアアアアア――…
ガアアアア――…
『何だよ。こいつら、臭せえったらありゃねえ』
「ああっはっはっは!! 第二の災い、すっげえよ!! もうかよ」
『お、おい。逃げろ!!』
「はやく、こっちへ来て」
俺はそう言って息を止めた。シルフは様々な大きさの蛙の魔獣に囲まれていた。茶色い泥と赤い水に緑色の身体が薄気味悪く混ざり合っていた。
見るからに毒を持っていそうな色合いだった。シルフは、その真ん中で砂利を蹴飛ばして踊っていた。
「ひゃあっはっは、人間を殺せっ。このまま街になだれ込んで、人間をみんな喰っちまえ!」
『……狂ってやがる』
俺はシルフに近づこうとしたが、留まった。水掻きのある指先には小さいながらも爪があった。既に、緑色の液体がシルフの緑色の肌に張り付いていた。
そして赤い水なのか、血なのかわからない液体が彼の口と目から、流れていた。
「ぎゃあはっ……はっ…はは…は……はっ……おげえっふぉ…うっげ」
『馬鹿野郎っ、本当に狂っちまったのか』
逃げ遅れたのはフォックスピッドと
「はっ……はは……っ……」
シルフはあっけなく息絶え、ポイズントードにかぶりつかれた。俺たちは絶句したまま、呆然と見ていた。間抜けのように。
「マズいわ。私たちまで囲まれる」
「私を置いて逃げてくれ。キミたちなら抜けられる」
俺は躊躇しなかった。次の瞬間には小犬から本来の
グルルアアアァ!!
――第一形態。三メートルの体の下にフォックスピッドとベスを庇い、左右に思い切り爪を振った。
『俺の本来の姿……俺はハンターだ。二人とも俺の足元に隠れてな』
「きゃっ」
「おおっ」
ポイズントードの体は八つ裂きになってあたりに散った。ブヨブヨの手足があたり一面に転がり、むせ変えるような異臭が立ち込めた。
ウガアァ!
ウガアアァ!
俺は毒液を一身に受けていた。血の川から次々と現れるポイズントードは、まるで同一の意思を持っているようだった。死を恐れず、集団で動くのだ。
ウガ……ガガアアァ!
目が霞んできやがった。いくら殺しても、次から次にポイズントードは現れた。毒気に犯された俺は目を開けていられなかった。
「ガルっ、か、体を上げてっ! 私も戦える」
『やめとけ。せっかく助かった命だ。俺が……俺が…死んでもそこにいるんだ』
「
『よせよ、フォックスピッド。あんたの御得意の呪文はキャンセルだ』
息が苦しかった。目が見えなかろうが酸欠寸前だろうが、手を緩めることは出来ない。
『くそっ! まだ…まだだ』
「……!!」
「貴方、死んじゃうよ。アンナさんを助けなきゃいけないんでしょ……こんな……こんなところで……死んでもいいの?」
ベスの悲痛な叫びとフォックスピッドの低い唸りが腹に響いた。同時に封印した第二形態が頭に過った。究極硬化体系っていうやつだ。
あれは帰ってこれない。石のようになって生き続けるのは死ぬより恐ろしいことだ。カチカチの体で身動き出来ず何もない深淵でひとり、永遠に生き続けるなんて、二度と御免だった。
『ふん、死にゃしないっ!』
ポイズントードは川岸で消しとんでいた。上下左右に蛙の肉片が散り、死骸が積み重なっていった。真上に飛んだ巨体まであった。あいつには毒なんて効かない。薬も効かないが。
………骸骨剣。
『待たせやがって』
まるで死神だった。いつもの錆び付いたショートソードではなく、大きな半月刀を振っていた。しばし、俺は霞んだ目を疑った。ガイの攻撃は凄まじく、まるで別人だと思ったからだ。
「………」
『毒消しをどうぞ』
ワンワン!?
カタカタ!
『手前です、はい。害はない、ナイスガイ、名前はガイ~♪』
ワオォーーンッ!
カタカタ!
『ダサいから二度とやるなですと………失礼な。次元の狭間で父に会いまして、ちと強くなりました』
ワンワン!
カタカタ!
『この武器ですか。ガマが沢山湧いていたので鎌を出してみました。
ガイは蛙の隙を見て毒消しをばら蒔き、フォックスピッドにエリクサーを飲ませた。その間も攻撃の手は緩めない。
ガイには疲労も、死の匂いも及ばず、毒消しや回復薬は幾らでも用意することが出来た。
ワンワゥーン!
カタカタ!
『幾らでも使いなさい。用心用心、なにごとも用心が大切に御座います』
老いたフォックスピッドはガイに答えた。
「あのシルフだ。彼は神々に生け贄を送り、十の災いを呼び寄せた」
『そんな魔力が彼に?』
「精神崩壊していたが、禁忌なる精霊呪文は成立したようだ」
『十の災い……ですか』
「ああ、あと八つ。人間も魔物も甚大な被害をこうむることになるぞ」
ガルル……ワンワン!
カタカタ!
俺はそんなことはさせないと叫んで、ふと躊躇した。人間に復讐すると言って死んだシルフ、喜んで生け贄になったオークドルイド。
人間を殺すなら有難いと言って逃げていったオーガやコボルトを思った。
寒気がしたんだ。人間も魔獣も何も信じられない。それじゃあ、深淵でひとりでいるのと変わらないじゃないか。それは最も恐ろしいことだ。死よりも深い闇の世界だ。
アンナ様……アンナ様……アンナ様……あんたが俺を転移してくれなきゃ、俺はまだ深淵に居たんだ。生きているとは云えない世界にいた。浅はかな力だけを求めたせいで。
俺は、いつまでも戦い続けるガイを見た。
クゥーン
カタカタ
「誰も死んで欲しくない。俺は……皆を信じたい」
『ええ、ええ、まったく同感です。
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