第3話 冬を越えたら
最近、クラシックなんてものを聴きはじめた。
先週からだ。
たまたま夜寝る前にスマートフォンをごちゃごちゃやっていたら、ラジオのアプリが起動して。静かなピアノの音に続いて聴こえてきた男声は、物語を聞かせるようにゆっくりと歌い始めた。
たっぷりと墨汁を吸い込んだ太筆で、すーっと漢字の「一」を書くようにまっすぐにくっきりと伸びてゆくテノール。その声は、折れない芯の強さがありながら軽やかで、目を閉じて聴いていると冬の夜にそこら中の屋根にしんしんと雪が降り積もっていく情景を想起させた。
「それがシューベルト?」
「そう」
「ピアノ?」
「や。ボーカル……って言わないか。あのー、なんとかディースカウって人が歌ってるやつだった。調べたら。聴くか?」
くっくっと鷹藤は笑い、右耳用のイヤホンを左の耳に突っ込みながら、「歌曲な。フィッシャー・ディースカウだろ」とこともなげに言った。
「そう! そんな名前だった。お前詳しいな」
「前に母親がうちでピアノ教室をやってたから、クラシックは山ほどある。ていうか、それしかない」
このところ、鷹藤とつるむことが多くなった。
もう十二月。推薦組や私大、難関大、他にも医学部や海外の大学を目指しているヤツとか、進路によって受験対策も違ってくる。もともとつるんでいたヤツらは私大と推薦。鷹藤の周りもそんな感じでバラけて、鷹藤とおれは国公立専願でセンター試験組。学部は違うけど、県内の同じ国立志望だった。
「最近は予備校行ってないんだな」
「今は週二だけ。おれさ、どうしても家だとダメだったんだよな。高いお金遣わせて親には悪いんだけど、勉強するには予備校の自習室が最適で。自分の生活空間とはまったく違う場所で、適度に人の気配があって、でも静かで誰にも話しかけられることなく自分のペースが保てる」
なるほどねと言い、イヤホンの片方をはずして手のひらに乗せてくる。
「なんだけど、予備校もこの時期になると二年が一気に増えるんだよな。まぁ去年のおれらもそうだったけど。今は、妹が彼氏と一緒に勉強するとかで図書館通いしててさ。おかげで家で勉強する感覚がつかめてきた」
「うらやましい?」
含み笑いしながらの問いに、「んなわけねぇ」と返す。
あの、夏の夜の感じだ。
二学期に入ってしばらくはおれも鷹藤も特に言葉を交わすこともなく、あの日のこともなかったことのような、でもまぁ誰かに言いたいわけでもないし。みたいな、自分でも何がしたいのかモヤッとする日々があって。そんな時でも鷹藤はいつもだいたいピンと背筋が伸びていて、たまに視線がぶつかるとこっちを見る目がやんわりと笑っているような気がして、やっぱりあの夜のことは事実だったんだなって。
「まぁけど、鷹藤の話を聞くと、要するにおれなんてグダグダいいわけしてるだけって気がする」
そうなのだ。この男はどこでだって、それこそ学校の行き帰りの電車でもバイト先の短い休憩時間も学習時間にできるぐらい集中力があるらしく、おれも本だったら読めるんだけどなー。やっぱ勉強は机がないとなー。
「俺は加藤ほど勉強してないから。それよりさ、」
立ち上がって制服のズボンをパンパンと払いながら、「うち、寄っていかないか? 俺も今日はバイトないし。なんとかディースカウのレコードもあるし」そう言ってニッと笑った。
本人曰く、鷹藤の部屋には「まともな音楽再生装置がない」ということでリビングに通された。コンパクトな中庭に面した広いリビングの中央から半分、陽の当たるほうのスペースには二人掛けのソファとローテーブルがあって、壁には身長と同じぐらいの高さのスピーカーが二つ。
レコードがぎっしり詰め込まれた棚から二、三枚を取り出し、黒い大きな盤の中央に書かれた収録曲を確認しながら、鷹藤が手際よくターンテーブルに乗せていく。「そんな手荒に扱っていいのかよ」とひやひやするおれに、「へーき。それよりボリューム、デカかったら調節して」と言い残してヤツはリビングを出て行った。ぱたぱたと階段を上がる音がしたから部屋にでも行ったんだろう。
なんとかディースカウのパキッとしたテノールを聴きながら、恐ろしく趣味のいい本棚を眺めていた。イタリア語、英語、ドイツ語の背表紙もあって、色や大きさはバラバラで不揃いなのに、雑然とした感じがない。その中におれも知っている写真家の名前を見つけて、一冊引き抜いてみた。モノクロ、カラー、ニューヨークの街角。黒いドレスを着た女性と彼女を囲む男たち。
不意に気配を感じて振り返ると、両手に紅茶のカップを持った鷹藤がいて、「親父の本棚、わけわかんねーだろ」と広げた写真集を覗き込むように背後から顔を寄せる。
「紅茶のティーバッグがどこにあるかわかんないから、こんなカップだけど緑茶でいいか」とテーブルに置いた器にはなるほど紅茶じゃなく緑茶が注がれていて、しとやかに湯気が立ち上っている。まったく問題ない。
さっきリビングを出た鷹藤はベランダへ洗濯物を取り込みに行っていたようで、カップのお茶をカラにすると、胡坐をかいた姿勢でタオルやら靴下やらを手際よく畳んでいく。
「おれ、家でそんなのしたことないかも」
「じゃあ加藤のパンツは妹さんが畳むのか?」
「違う! と思う。たぶん、母親」
「加藤のお母さんだったら『手伝え』って言いそうだけど」
「言う言う。すんごい形相で言ってくるけど、やらない。で、だいたい『あー、そんなんだからいつまで経ってもモテないんだわ』とか言ってくる」
鷹藤はアハハと笑い、「俺は『やれ』ってうるさく言われるのがヤだから、言われる前にやってるだけ」と最後のハンカチを畳み終えた。「終了―!」と言いながら、おれがさっきまで座っていたソファに背中をもたれさせ、日の差すリビングの床に足を投げ出す。クラシックのレコードって長いんだな。ディースカウはまだ、歌い続けている。おれもなんとなく、鷹藤と同じような座り方をした。
「なぁ。初詣、行かないか」と鷹藤が口にした。
初詣? あぁ、正月の。
毎年、一年のはじまりに特になんの感慨もないせいか、今まで一度も行ったことがない。
「大みそかの深夜なんて、おれ絶対に寝てるわ。十時頃まで起きない自信ある。正月だろうと盆だろうと、普段となんら変わらない生活してるから」
「そんな時間、俺だって寝てるよ。別に元旦になった瞬間に行く必要ないし、そんなのは勢いのある若者達がやることだろ」
「そっかそっか。鷹藤は十八にして勢いのないジジィか」
「お前もな」
だな。
だろ。
まぁ受験前だし合格祈願しとくか。
そんな感じでゆるりと約束した。
「おれん家の近くの公園さ、あそこからちょっとだけ歩くと神社がある。たしか」
「ああ、あそこな」
あの、夏の終わりの夜にスケボーをした公園だ。
「あそこでよかったら駅で待ち合わせすっか。あ、お前スケボーで来る?」
「さすがにこの時期は寒いな」
それもそうだ。受験生が風邪ひいちゃまずいしな。
「おれさ、初詣もいいけど大学を見に行きたくて。オープンキャンパス的なものには軒並み行かなかったから」
「俺も行ってない」
「じゃ行こうぜ」
おう。と返ってくるのかと思いきや鷹藤は、んー、と腕組みをしたまま何事か考えている。
「どうせならもっとイイとこ行こうぜ。大学なんて春から毎日通うんだし」
そう当たり前のように言った鷹藤を、おれは穴が空くほどガン見した。
「おまっ、その自信はどこからくるわけ? 合格するって決まってんのかよ!」
「ったりまえ。てか、落ちないよ。加藤も俺も」
放課後、中庭で『フィッシャー・ディースカウだろ』と言った時みたいな、こともなげな言い方しやがる。
「ほぅ~。その根拠は?」
「別にない……けど、なんとなく」
「じゃあその自信はどこから生えてんの?」
「生えて……って、いや、幼稚園くらいからこういう性格だけど」
幼稚園て! おれはソファをバシバシ叩きながら大声で笑った。あっと、こんな革張りの高級なソファを傷つけてはいけない。けど鷹藤のヤツ、何を真面目に答えてんだよ!
「いいんだよ! 俺はこれで。で、お前も合格する。そんだけ優秀で、毎日アホみたいに勉強しててなんで不合格なんだよ!」
アホって! アホって言いやがった! まぁそんなのも含め、鷹藤がこんなにムキになったのを見たのは初めてで、それがおれにはおもしろくてしょうがなかった。
帰り際、駅まで送ってもらいながら初詣の話を蒸し返した。待ち合わせの時間を決めようぜと言うおれに、
「さっき十時ぐらいって言ったじゃん。うちから一駅だし、九時半とか十時とか、そのぐらいにいるよ。あの、前に……、あの、駅の階段降りたところでいいよな?」
駅。階段を降りたところ。あの夜、鷹藤がいた場所だ。
「うん。あ、いやいや。正月とはいえ、受験生の貴重な時間を無駄にしちゃだめだ。えーと、おれが十時に起きたとして、家を出るのが……」
その言葉を遮るように鷹藤は、「遅れたっていいし、約束があったってなくたっていい。待つのは全然苦痛じゃないから」と、やんわりと言った。「あ。けど、もしもどこかで事故にでも遭ってヤバいことになったとか、そんなんだったら連絡くれよ」
「バカヤロ、縁起でもないこと言うなっつーの」
ポケットに手を突っ込んだまま、「アハハ」と「悪い、悪い」が混ざった鷹藤の返事を聞いていた。
一つだけ、引っかかった。
「なぁ。はっきりした約束もないのに、誰かを待ったりできるもの? 時間がもったいなくねぇ?」
「相手によるけど、俺は平気かな」
「おまえ、そんなヒマじゃないだろ?」
「うーん。ヒマだからとかそうじゃないからとか、そういうのでもないんだよな。来るかもしれないし、来ないかもしれない。もしかしたら今日はこの道を通らないかもしれない。けど、そいつのことを考えながら待っているのは、楽しい……と、思う……」
なぜかだんだん小さくなる声にマフラーから顔を上げると、隣を歩く男は顔をそむけた。何か、さっきとは違う引っかかりを感じる……けど。
「あのさ、」
「加藤、」
思いっきりシンクロして、いつもどおりの身振り手振りでゆずると、ヤツはフッとひとつ息を吐いて笑い、
「お前にも好きなヤツができたらわかるよ」
……それは衝撃の一言だった。
好きなヤツ。っておまえ、好きなヤツいるのかよ! 誰? おれの知ってる人? って、おれの知ってるヤツなんて学校のヤツら──ってそんなの男しかいないじゃん! 超高速で頭の中が回転しはじめたおれが「あっ」とか「お、おまっ」とか言ってるのを、「あ、電車もうすぐ来るみたい。改札すぐそこだから急げよ」と、さっきまでとはまったく違った涼しい顔をした男が手を振って見送っていた。
鷹藤の好きなヤツ。
そんな相手にいつ、どこで出会うわけよ。
いやいやいや。そもそも、おれの知らないアイツの世界というものがあるわけで、おれだって、アイツの知らないところでこうして、家で勉強してたり、予備校行ってたり、音楽聴いてたり……、ってそんなの別になんでもない日常で、見知らぬ誰かとの出会いなんてまったくない。
あいつは、どこで誰と知り合うっていうんだよ。学校には男しかいない。じゃあ学校の外か。バイト先か。そんなの、おれがどうこうできる領域じゃないし、ハナからどうこういうことでもないのはわかってんのに、何か気持ち悪いような、ちょっとイラつくような感じが腹の中からなくならない。なんだろ、これ。
ものすごく正直な気持ちを言えば、少しだけ妹がうらやましいと思った。
妹だけじゃなく、あのガリ勉とアイドル顔もそう。
人を好きになるってどんな感じ?
全然知らないわけじゃない。これまで十七年生きてきて、人を好きになったことがないわけじゃない。けど、誰かのことを考えて胸がいっぱいになるとか、妹がよく言ってる『彼がこの世に生まれてきてくれてことが、今のところ一番の幸せ』……なんてこと、これまでの人生でたぶん一度も、誰に対しても感じたことがない。
幼稚園の頃と、中学三年の二学期に、引っ越しをした。
今住んでいる街は、幼稚園の頃まで住んでいたところに近くて、戻ってきたような格好になる。ただ、その頃の記憶はほとんどなくて、懐かしいかといえばそういう感慨めいたものはない。街並みもたぶん変わっている。小中学時代を過ごした土地のほうが記憶は鮮明だけれど、ただでさえ高校受験前の中三の引っ越しで、しかも遠く離れてしまうとなれば、それまで部活でつながってきていた友達ともあっけなく途切れてしまった。もともと男女問わず誰とでも話せるタイプだけれど、だからといって『おれたち、離れてもいつまでも友達だぜ』みたいなのはなんかピンとこなかったし、そういうのはあんまり望んでなかったな。
ずっと部活だけやってた中学の頃とは違う高校生活を送りたくて、好きな教科を集中してやれるこの学校を選んで。一年の頃はバイトもしたし、バイト先に可愛い子がいた時期もそういえばあった。予備校のヤツらともに会えば話すし、クラスにも仲の良いヤツはいるけど、親友と呼べるほどでもない。母親は『なんだかんだで高校と大学の友達がいちばん長く続いてる』って言うけど、おれはどうかな。
参考書を開いてはいるけど、目で追っているだけでまったく頭に入ってこない。ページを開いたまま顔に乗せ、目を閉じた。そうかといって眠れるわけでもない。
まだ覚えている。
昼休みの教室でふたりきりだったアイツらの、ガリ勉たちの会話。
たった数分の、ぽつりぽつりとこぼれるような短い言葉のやり取り。
あれもこれも詰め込まなくたって、たくさんの言葉を継がなくたって、アイツらはそれだけでことたりるぐらいの仲なんだってこと。
そのほんの短いひとことを言った時の声とか、二人の雰囲気が、とりあえず普段その他大勢と一緒に教室にいる時のアイツらからは絶対に出てこない種類のものだった。二人だけの世界とか言うと古い小説のタイトルみたいだけど、あぁコイツらの間には、コイツらだけで成立している世界があるんだと思った。
恋をするってそういうことなんだろうか。
おれもいつか、誰かとそういう世界を作ることができるんだろうか……。
不意にスマートフォンが振動し、驚いたはずみに跳び上がる勢いで上半身を起こした。枕のすぐ近くに置いていたことを忘れていて、あっぶねぇとか意味不明なことを口走りながら画面を見ると、鷹藤からのメッセージだった。
『今日見てた写真集、途中までだったよな。
明日持って行こうか。
たまには今日みたいに息抜きしろよ。 』
たった三行だけの文字を眺めながら、唇の両端がゆっくりと持ち上がっていくのがわかった。
『おう! ありがと。
愛してるぜー』
と返信しようとして、『愛してる』という字面にフッと我に返り、急いで消した。
冗談だって通じる相手だし、一年前ならいざ知らず今の鷹藤とおれだったらこんなくだらないやりとりもたぶん普通にできる。きっと。
でも、やめた。
最後の一言を「もう寝るわ。」と書き換えて送り、明かりを消してベッドに潜り込んだ。心臓の音だけがドッドッドッと鳴っていた。
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