#18:第8日 (2) 裏切る女

 次の電話は12時半に架かってきた。マドモワゼル・シャイフからだった。

「お姉さま、あるいはそれに似た方は、今夜はいらしていないとのことでした」

「そうでしたか」

「ただ、それらしい方が、水曜日の夜に訪ねてこられたそうです。ソフィア・ルスリチェンコという方がお泊まりではないかと質問をしに。ホテル側は、お答えできないと回答したそうです」

 ソフィア・ルスリチェンコの名前が出たとき、予想していたにもかかわらず、私の胸の鼓動は速まってしまった。

「ありがとうございました、マドモワゼル。どうぞエクセルシオールにお戻りになってください」

「あなたはどうなさるのですか?」

 言うかどうか、私は迷ったが、言うことにした。

「実はそのソフィア・ルスリチェンコという方から、先ほどお電話をいただいたのです。姉の行方に心当たりがある方を知っているので、ヒルトンへ来て欲しいと」

「まあ、では、私の電話をお待ちになっていて、こちらへいらっしゃるのが遅れたのですね。メッセージを残して、すぐにお出になってもよろしかったのに」

「いいえ、同じウクライナの方からのお知らせとはいえ、たやすく信じていいものか、迷っていたのです。けれど、あなたの口から彼女の名前が出たので……つまり、姉がその女性を訪ねたのが判ったので、信用してみる気になったのですわ」

「そういうことでしたか。では彼女を呼び出して、お話を聞いておきましょうか? 彼女はお部屋にいらっしゃるとのことでしたから」

「いいえ、あなたにこれ以上お手数をおかけするわけには……」

「ですが、私もあなたのお姉さまのことが心配なのです。彼女の歌に興味を持ち、その上、別の素晴らしい興味まで提案してくださった方ですから」

 迷ったが、彼女がぜひ力になりたいと重ねて申し出てくださったので、私は承諾した。ただ、ソフィア・ルスリチェンコからは私が直接話を聞くことにして、マドモワゼル・シャイフはそれに立ち会っていただくという形で。

 出掛ける準備を進めていたので、電話を切ると、私はすぐに部屋を出た。タクシーにも待ってもらっている。

 フロントレセプションに寄って、先ほどの大風で町や交通に混乱がありそうか、尋ねてみた。車は止まったりしただろうが、住民は気にしていないだろう、とのことだった。

「ただ、あなた様と同じようなお問い合わせがたくさんありますので、宿泊施設はどこも忙しくしているかと」

 スタッフは笑顔で言ったが、私のように自然災害の少ない国からの旅行者は、やはり心配なのだろう。

「では旅行会社も同じように?」

「いえ、この時間ですから、そちらは……ああ、そうそう。飛行機の件で、確認中です」

「飛行機?」

「明日の朝一番のザグレブ行きが欠航か遅延する可能性があるとのことで……」

 機材と施設の安全確認があるから。大風のために最終便の到着が遅れたのだそうだ。6時の便に私が乗るのを知っていたので、教えてくれたのだろう。私はそれも気にしなければならなくなった。

 礼を言い、ホテルを出て、私はタクシーに乗り込んだ。



「地下室……そうです、私はここへ連れて来られて……ああ、もしかして、あなた方は……?」

 タリアは、ようやく何かに気付いた目になった。薄暗がりで、こちらの顔がよく見えていなかったのだろう。我が妻メグは、タリアの次の言葉を待っている。

「あなた方は……ミス・ルジチカの家の近くでお会いした?」

「ええ、そうです。その後、あなたと一緒にカシオペアを捜して……はここに……」

「ああ! ごめんなさい、あなた方にお詫びしなければなりません」

 俺たちを陥れたことを認めるのか。違う?

「私は、他にも犬を探している人を知っていたのです。それで、あなた方があそこへ来た時、その人にあなた方のことを知らせました。その人のことは、あなた方に言いませんでたが、あの後で、あんなことになるなんて……」

 指示代名詞ばっかりだな。その人ってのがコート男? 君は奴が悪人と知らずに利用されてたって言いたい? まあここに監禁されてたんなら、そうかもしれないんだけどね。

「それでは、あなたはこの地下室のことを何も知らないのですね?」

「ええ、何も……あら、こんなところにカシオペアが」

 タリアはすぐ横にいたカシオペアに、今さら気付いたようだ。さっき我が妻メグが、そこにいるって言ったのに。

 しかし我が妻メグはそんなことを気にせず、地下室から出られる道があること、ただし出ても本土へ戻る船がないことなどを、丁寧に説明した。

 が、突然、外が騒がしくなった。廊下に声と足音が響き渡る。銃声まで? 急いで鉄扉を閉め、錠を掛ける。足音が、部屋の前までやって来た。

「!!!」

 扉を乱暴に叩く音、それに同時通訳されない声。ヘイ、メグ、何て言ってるんだい? 解らない? ドアノブを捻る音がするが、もちろん開かない。

 また銃声! 足音が扉の前から遠ざかるが、もう一つの足音が近付いてきて……で、またドアノブを捻る。

「中に誰かいるか? 扉の近くからどいておけ」

 男の声。英語だが、少し癖がある。聞いたことのない声だ。

 どいておけって、何をするつもり? 銃で錠を撃ち抜く……そんなことできるわけない。しかしどいておくか。部屋の隅に女二人と犬を集め、俺がその前に立って壁になっておく。数秒後に、強烈な爆発音! 爆薬を使ったのか? なら、そう言えって。せめてカウントダウンくらいしろ!

 錠が見事に吹っ飛んだらしく、鉄の扉がゆっくりと開いた。人が入ってきて、強力な懐中電灯フラッシュライトで部屋の中をあちこち照らす。隅に俺たちがいることに気付いたようだ。こちらからもランタンで照らし返してやる。声は聞いたことなかったけど、姿は憶えてるよ。夜中にザグレブ駅で一緒に降りたアラビア人だろ。シャイフ氏だっけ?

「その犬をこちらによこせ」

 ライフル銃で俺を狙いながら言う。お前が競争者コンテスタントなら、その脅しは効かないんだけど、解ってる? それとも、急所をきっちり外すほどの腕前を持ってるのかね。

「犬に直接言ってくれ。俺の言うことは聞いてくれないんでね」

「そうかね」

 シャイフ氏は俺から狙いを外すことなく、左手でポケットから何かを取り出し、口に咥えた。笛か? しかし音は鳴らない……

 いや、突然犬が激しく吠え始めた。犬の耳にしか聞こえない音を出す笛か! そして1匹がシャイフ氏の方へ走っていく。どっちだ、ペネロパか、カシオペアか。シャイフ氏の足元をぐるぐると駆け回り、時々伸び上がっているが、襲っているのではないようだ。笛で操られているのか。

「こっちの方か。まあいい。そこからしばらく動くなよ」

 言い残すと、シャイフ氏は犬を連れて、部屋を出て行った。俺が動かなかったのは、弾が万が一にも我が妻メグに当たらないようにするためだ。俺が盾になってりゃあ、奴だって下手に撃つわけにはいかなかったろうからな。

 足音が遠ざかるのを聞きながら振り返る。1匹残った犬は、メグに寄り添っている。ということは。

「行ったのはカシオペア?」

「そうよ」と我が妻メグが心配そうな表情で答える。

「犬笛で訓練なんかしてたのかね」

 これはタリアへの質問。

「いいえ、そんなことは全く……」

 なぜそんなに俺の目を見ながら答える。催眠術にかかるぞ。

「とにかく、ここを出よう。さっきの男が乱入してきたことで、元々いた連中は混乱しているに違いない。ただ、城塞の方へ誰か行ったかもしれないので、慎重に行動した方がいいだろう」

「そうしましょう」

 我が妻メグは意外に落ち着いている。パリのホテルで、テロが乱入したときの訓練でもしたことがあるのか。まさかね。

 まず、廊下を覗く。声や足音が響き渡っているが、緊急に撤収作業を進めているのだろうか。それなら、下りてきた階段は使えないな。

 となると、シャイフ氏も城塞の方へ向かったに違いないという結論になるのだが、どうすべきか。

「一つ、思い出したことがあるのですが」

 部屋からまさに出ようとした時に、タリアが唐突に言った。

「何を?」

「ここに私の従兄いとこも捕らえられているかもしれないのです。オムリというのですが」

 犬を探すために、ザグレブから一緒に来た? そんなことを今思い出されても。

「そいつを探そうにも、俺は顔を知らない」

「そうですね。無理な相談でした……」

 そもそも捕まってるかどうかも判らないんじゃあねえ。我が妻メグは探した方がいいと思うかい? 何も言わないので、俺に同意ってことで。

 廊下に出る。右手、下りてきた方から声と音がするようだ。やはり左へ行くべきか。曲がり角まで行って、廊下の先を見る。薄ぼんやりと光っているのはさっきと同じ。進んで、合流に近付くに連れ、声と音が大きくなってきた。やっぱり何かの作業中だ。

 こんな状態で、分かれ道から階段を登れるわけがない、と思うのだが、様子を見るために角から右側を覗く。

 ……最悪だった。待ち伏せされていた。コート男に。

 頭に拳銃を突き付けられた。すぐに引っ込めたら撃たれはしないだろうが、この分じゃあ逃げ道はないな。後ろも……

「動かないでくれるかしら?」

 タリアの声。やっぱり裏切られたか。そちらを見ることはできないが、我が妻メグにナイフでも突き付けているだろうか。ヘイ、ペネロパ、お前、何とかできないか? ダメか。

「あまり驚いてはいないようだな」

 逆光で顔が見えない中、コート男が甲高い声で言う。凄みが利いていないが、何かあれば躊躇なく引き鉄を引きそうだ。

「一応、予想はしてたんでな」

「そうかね」

 タリアを助けに戻った時に、不自然だと思ったんだよ。撤収作業が再開されていたのに、彼女とカシオペアが元のままだったってのがね。誰かが見に来てるはずで、そのままになっているわけがない。

 うまく誘い込んで、たぶんあの部屋で俺たちを捕らえようとしていたんだろう。そこにシャイフ氏が乱入してきた。彼の前に誰かがドアを叩いたのは、タリアに“作戦中止”を伝えに来たのに違いない。危険だから。

 シャイフ氏は逃げ去ったが、追っ手を出すかして手が足りなくなったので、タリアに俺たちをここまで来させて挟み撃ちにしたってわけだ。

「犬を返してもらおうか」

「犬に直接言ってくれ。俺の言うことは聞いてくれない」

「言う必要はない。こっちへ来い。タリア、犬も連れてくるんだ」

 コート男は銃を俺の頭に突き付けながら、背後へ回り込んだ。灯りの点いた部屋へ連れて行こうとしているようだ。その部屋から、音はすれども誰も姿を見せず。いったい何をやっているのやら。

 とはいえ、この部屋にターゲットがあることも考えられるから、見ておきたかったところではある。

 ところが、もうあと数ヤードでその部屋の戸口へ、というところで、数十ヤード前方がぱっと明るくなり、真っ赤なローブにヴェイルという派手な衣装の人物が――たぶん女だ――現れた。と思ったらいきなり銃声が!

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