#18:第8日 (3) 投げ飛ばす女

 誰を狙ったか知らないが、俺に当たるわけがない。とは思っても、少しは怯む。何しろコート男は俺の身体を盾にしようとしたから。

 しかし、これはチャンス。コート男の意識は前方の女に行っている。目の前の俺に対しては、隙ができているはずだ。たとえ銃を突き付けて、腕を掴んでいたとしても。

 素早くしゃがみ込み、振り向きざまに足にタックル!

「!!!」

 コート男が何か叫んで、後ろに転倒する。銃が手を離れて廊下を転がっていく。ペネロパがそれを追いかける。遊びじゃねえぞ、持って帰ってくるなよ!

 次に我が妻メグを助けなければ、と思って立ち上がろうとすると「動くなフリーズ!」とタリアの声。それを言われる前に助けたかったんだが……っと!?

「!!!」

 いきなりタリアの身体が宙に浮いたと思ったら、俺の目の前に降ってきた。まさか、我が妻メグが投げ飛ばした? 信じられねえアンビリーヴァブル

階段ステアーズ!」

 我が妻メグが叫んで後ろへ走り出す。俺にじゃなくて、犬に言ったのかも。でも犬は英語が解るのか? しかし階段の方へ走っていく。そっちしか逃げ場がないことが判っているからか。俺も追いかける。

 階段を駆け登るときに我が妻メグに追い付き、ランタンを手渡す。彼女を先に行かせ、俺は後ろから護衛しながら走る。

 分かれ道から城塞の方へ。途中、我が妻メグは疲れてへばってしまったので、俺が後ろから背中を押してやる。走る足音が反響して判りにくいのだが、追っ手はいないと思われる。ペネロパはずっと先の方へ行っていたのに、わざわざ戻って来た。尻尾を振り、「早く来てよ」という感じ。

 最後、城塞へ上がる階段のところでは、我が妻メグはすっかり息が上がってしまい、歩いて登った。朝のランニングを数日やっただけでは、体力を培うには不足だったってわけだ。

 鉄の扉から外に出る。走った後なので、肌を刺す冷気が心地いいくらいだった。風はすっかり止んでいる。

「ここに……いてはダメよね? すぐに、山を下りないと……」

「そうだろうな」

 鉄扉が開かないように、重しでもあればいいのだが、残念ながら見当たらない。城塞の壁から石を抜いてくるわけにもいかないし。

 我が妻メグの息が少しマシになるのを待ってから、城塞を出て、山道を下る。頭の中で、ビッティーに見せてもらった地図を思い浮かべながら、南へ。修道院跡に隠れることはできるだろうか。錠が掛かっていても開けられるだろうし。

「それにしても君、タリアを投げ飛ばすとは」

「あれは……護身術を習ったことが、あって。ホテルで、お客様が酔って、暴れたりしたときの、ために。ただ……役に立ったのは、今回が初めてよ」

 タリアは俺の動きにも注意しないといけなかったし、片手でナイフを持っていると、押さえ込む力が弱くなる。隙を見てバランスを崩せば投げることもできるだろう。ニュー・カレドニアやクレタでは、相手の目的は我が妻メグを眠らせることだったので、両手でがっちり押さえ込まれたのかも。

 そういえば、ティーラがマジシャンを投げ飛ばしたことがあったなあ。あれは無意識の行動だったらしいが、今夜のメグは、俺の足手まといになるのは二度とごめん、とばかりに必死だったに違いない。

「それとさっき……突然現れた女性は」

「ああ、うん」

 彼女のおかげで助かったが、あれはきっと……

「アラビア人が着るような……アバヤとヒジャブだったと思うけれど、いったい誰かしら?」

 え、君、顔を見なかったの?

 そりゃ確かに、ヒジャブで顔の大半を隠してたけど、あれはきっとマルーシャだぜ。というか、他にあの場に現れそうな女はいないだろう。

 しかし「あれはマルーシャだよ」と言うわけにもいかないよな。

「タリアといた部屋に、銃を持って飛び込んできた男がいただろう。あの仲間じゃないか」

「ミス・シャイフ……とは違ったかしら」

「違うと思うね」

 胸の大きさが全然違ったんだって。それに、どうしてアヤンが俺たちを助けに来ないといけないんだ。競争者コンテスタント同伴者アカンパニアだから、敵だぜ。マルーシャだって敵だけど、君が窮地に陥ったら助けに来るじゃないか。理由はそれだよ。

 しかしやはり我が妻メグに言うわけにはいかず、黙って山を下りる。俺の息はもうほとんど戻ったが、我が妻メグはまだのようだ。ペネロパは……まだ銃を咥えていた。とりあえずそれ、渡してくれ。護身用にする。



 ヒルトンのロビーでは、マドモワゼル・シャイフが待っていた。

「お電話では私に、マドモワゼル・ルスリチェンコとのお話に立ち会ってよいとおっしゃってくださいましたが」

 マドモワゼル・シャイフは少し悩ましげな表情で言った。

「ええ、そう申しました」

「ですが、よくよく考えてみましたら、お姉さまのプライヴァシーに関わるお話が出てくるかもしれないのです。それを私が聞いてよいものでしょうか。それにお二人はウクライナ人ですから、ウクライナ語でお話になるのがよいかと……私はウクライナ語が判りませんし、フランス語か英語でお話しくださいと希望するわけにもいきませんから」

「確かにおっしゃるとおりかもしれません」

 私はうっかりしていた。この旅行中、マルーシャと話すとき以外は、ほとんどフランス語か英語だった。マドモワゼル・シャイフとはフランス語、パンナ・ルスリチェンコとの電話はウクライナ語だったのに、なぜマドモワゼル・シャイフに立ち会ってもらえると思ったのだろう。

 一緒に楽曲を作ろうとした2時間あまりで、心が強く通い合ってしまったのだろうか。

「ですから私はこのロビーの、少し離れたところであなた方のお話が終わるのを待ちます。もしお話の後に、どこかへお姉さまを探しに出掛ける、ということなら、私にも教えていただきたいのです。……こんな遅い時間から、出掛けるようなことはないと思うのですが」

 確かに、もう1時。人と会うには遅すぎる時間帯だ。ロビーの人影も少ない。パンナ・ルスリチェンコは私が来るのを待っているとおっしゃってくれたけれど……

 ミス・シャイフのおっしゃるとおりにすると約束し、私はフロントレセプションへ行って、パンナ・ルスリチェンコを呼び出してもらった。5分も経たないうちに彼女はやって来た。ザグレブで、ほんの少しだけ話して以来。ロビーのソファーに座る。

「突然ご連絡差し上げたのに、わざわざお越しいただいて」

「いいえ、こんな遅い時間に押しかけて大変申し訳ありません」

 挨拶もそこそこに、マルーシャのことを訊いてみた。

「実はコスティンから聞いたのです」

「コスティン……パン・コスティアンティン・チェルニアイエフでしょうか?」

「ええ。ですが、彼からあなたにお知らせすると不審に思われるでしょうから、私から連絡して欲しいと」

「そもそも私と姉がシェラトンに泊まっていることを、どうしてご存じなのでしょう?」

「コスティンが観光中に、友人のヘルツォーグ教授という方に会ったそうです。彼はシェラトンに泊まっているのですが、ウクライナの歌姫ディーヴァがお泊まりだと、スタッフのどなたかから聞いたそうなのです。彼はオペラのファンで、それが本当にパンナ・マルーシャであればぜひお目にかかりたいと思ったらしいのですが、ホテル内でお見かけすることはなかったとかで」

 マルーシャは異例な形でホテルへ運び込まれた。スタッフの皆さんには他へ話さないようお願いしたが、誰からか漏れるのは仕方ない。しかしマルーシャはそれ以降部屋から一歩も出ていないのだから、誰にも見られなかったというのは正しい。

「ですが今夜、ヘルツォーグ教授が旧市街にいる時、パンナ・マルーシャをお見かけしたとおっしゃるのです。船着き場の辺りで。そこはロクルム島への船が出ているのですが、夜中は便がないはずなのに、ボートが泊まっていて、彼女がそれに乗ろうとしているかのように見えたのだそうです。それでコスティンを通じて私に、彼女がホテルにいるのか確認して欲しいということでしたので」

 ロクルム島、というのが私にはよく判らなかった。パンナ・ルスリチェンコに訊く。沖のそう遠くないところにある無人島で、昼間だけ観光船が出ていると。

 しかしマルーシャがそこへ行く理由がわからない。彼女はАアーを追っていたのだ。彼がそこに隠れているのだろうか。まさか。

「電話で伺いましたが、彼女はいつの間にか部屋をお出になったということでしたね。もしお捜しであれば、波止場の近くへ行ってみてはいかがかと思うのです」

「ですが、こんな時間に行っても、彼女を見かけたかどうか尋ねる相手もいませんわ」

「ええ、私もそう思いますから、無理にお勧めするわけではないのです」

「ヘルツォーグ教授はもうシェラトンへお戻りになったのでしょうか」

「いいえ、今夜は一晩中、レクター宮殿にいらっしゃるということです。彼は美術品の修復家で、徹夜で作業をするということでした」

「ではパン・チェルニアイエフは」

「さあ、宵まで教授と一緒にいらっしゃったはずですが、まだお戻りになっていません。どこにいるのかも知らないんです」

 なんとも曖昧な手がかりで、どうしていいのか私には判らなかった。パンナ・ルスリチェンコは情報を提供してくれただけで、波止場まで一緒に見に行ってくれるつもりはないようだ。彼女に礼を言って、私はその場を辞去した。

「どんな情報でしたか?」

 マドモワゼル・シャイフのところへ行くと、彼女はいかにも心配そうに訊いてきた。聞いたとおりに話すと、眉を顰める。

「とても気になる情報ですが、マドモワゼル・マルーシャの行動様式とは合わない気がしますわ」

「行動様式とは?」

「私は彼女とほんの少しお話ししただけですが、彼女は考え方が論理的で理路整然としていましたし、そんな謎めいた行動を取る方とはどうしても思えないのです」

「ですが、私に行き先を告げずに出て行ったり……この数日間、姉は男性のことで悩んでいて、そのせいで不可解な行動を取っているのかもしれません」

「そうかもしれませんが……もし波止場へ行かれるのなら、私がお供しますわ。夜の町にはどのような危険があるかしれませんから」

 どうしていいのか、私には本当に判らなかった。波止場までは旧市街を通り抜けて500メートルほどであるらしい。それくらいなら見に行っても、と思ってしまうけれど……

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