#18:第7日 (8) 第3の訪問者

「……私も一つ思い出したわ」

 サーニャがぽつりと言った。俺のやっていることを否定する気をなくしたかのよう。

「何でも聞くよ」

「ペネロパは、6匹生まれた中の1匹だけど、私は直接もらったんじゃないの。2匹もらった人がいて、後でそのうちの1匹を譲り受けたの」

「もう1匹はどこに」

「ザグレブよ。引っ越したの。その時に、2匹育てるのは大変そうだからって」

「それはいつ?」

「2年……それ以上前だわ。3年前の8月頃かしら。だから2年半くらい前ね」

 その家にはサーニャより二つ年上の少女がいて、ザグレブの高校ギムナジヤへ進学するからと、家族で引っ越したらしい。普通は子供だけが行って寮で生活するらしいのだが、それはさておき。2匹は生まれた時からいつもじゃれ合うほど仲がよく、もらい受けて、つまり別れ別れになってからしばらくの間、とても寂しがっているように見えたという。

「うっかり目を離すと、その子が以前住んでいた家へ行って鳴いたりしてたの」

「ちなみに親犬はどこに住んでいたんだ」

高校ギムナジヤの近く」

「高校ってどこに」

「プロチェ門のすぐ東よ」

 ピレ門から少し距離があるじゃないか。旧市街の反対側だ。

「それは母犬だな。父犬は?」

「さあ? 一緒に飼われてるんじゃなかったと思うわ」

 父犬を飼っている家がピレ門の近くだった、とかなら話が解りやすい。現にグラダツ公園には犬が散歩に来ていたんだから。まさかあれが父犬? 牡か牝か、何才かとか、我が妻メグが訊いてたのに憶えてないぞ、俺は。しまったなあ。

高校ギムナジヤの近くで散歩させるところなんてあるのかね」

「バニェ・ビーチがあるわ。とても狭いけれど、目の前にはロクルム島が見えて……」

 ああ、いいね。ちゃんと話がつながってるよ。グラダツ公園からもロクルム島が見えたし。となると、ピレ門の周辺で聞き込みをして、ロクルム島へ、ってことになると思われるが、それを明日の朝からじゃ遅すぎるよなあ。夜明けから行動を開始したら、5時間しかない。

 それに、もうあと4時間もすればゲートの通知がある。今夜中にせめて聞き込みだけでもしておかないと。夜の間にロクルム島へ行くには、船をチャーターする必要があるから、明日でも仕方ないとして……

「今から調べにいらっしゃいますか?」

 ミリヤナが、俺の頭の中を覗いたかのようなことを言う。あるいは、自分自身の欲求かな。データと理論で導き出したことを、実地検証したいという好奇心。

「せっかく君たちが来てくれてるのに」

「私は行きたいですわ。議論はもっと遅い時間でもできますから」

 俺の睡眠時間はともかく、我が妻メグのお楽しみ時間を奪うのかよ。許されるようなことじゃないぞ。

 前回のクレタも、最終日の前夜は大変なことになったんだ。今回はできればそういうのはなしにしたい。

 が、我が妻メグがこの場にいないので、ひとまずサーニャの意見を聞こうか。

「ここに戻って来てから、泊まってもいいのなら」

 そんなことできるわけないだろうが!

 そもそも部屋に通すのだって、ある時刻を越えたら宿泊扱いになって、追加料金払えって言われるだろう。無断で人を泊めたら約款違反で、下手すりゃ退去だよ。

 泊まりたいなら、もう一部屋確保するしかないな。隣の部屋は空いてるはずだし。

 それより議論で夜明かししたいなら、君のヴィラか、ミリヤナの部屋へ行く方がよくないか? 我が妻メグは寂しがるだろうけど。

 話してみると、サーニャは「父さんに相談してみる」と言って電話を架けた。話した後の答えは「どっちでもいいって」。俺をヴィラに泊めるのはともかく、娘を昨日まで知らなかった外国人のところに泊まらせることすら容認するとは、何という放任主義。いくら仮想世界のシナリオだからって、都合がよすぎる。

「では早速市街地へ行きましょうか?」

「待って。ペネロパを連れていった方がいいんじゃないかしら」

 ああ? サーニャ、君まで行くつもりだったのか? というか、行くかどうかは俺一人で決められないよ。少なくとも我が妻メグに断りを入れなきゃあ。

 部屋の電話で、我が妻メグ携帯端末ガジェットへ架ける。

「今から市街地へ行くの? 車を借りればいいのかしら」

 行くのを容認するのかよ。君もけっこうな放任主義者だな。

「バスがあるよ。帰りも、向こうを出るのは12時まであるんだろう?」

「でも夜は1時間に1本しかないのよ。それに車があった方が、何かと便利だと思うわ。レンタルはホテルで24時間受け付けているから、手続きは心配しなくていいのよ」

 それはありがたいんだけど、運転手はどうするんだ。ミリヤナは? 「免許ライセンスを持っていません」と首を振る。じゃあ、我が妻メグに頼むしかないじゃないか。

「車の方がいいと思うわ。犬を乗せられるから」

 サーニャがやけにやる気になってる。仕方ない。我が妻メグに車を借りてくれと頼む。

「出掛ける前に、ミス・シャイフと少しだけお話ししてくれるかしら。また小論文を持ってらしたのよ」

 ええっ、またか。こんなタイミングでどうして俺のところへ来るんだよ。兄貴の手伝いをしろ。それとも俺の行動を邪魔しろと言われたのか?

 しかしついでなので昨夜修正した小論文を持ち、出掛ける準備もしてロビーに下りた。アヤンが、例の不審者のような姿でロビーのソファーにいた。ただ、サングラスは外している。眉はくっきりとして、目はアーモンドのように大きく美しい形だ。

「こんばんは、アヤン。もしかしてずいぶん前から待っていてくれたのかい。今夜は来客が多くて、君と話をする時間は少しだけしか取れないと思うよ」

「お忙しいところに押しかけてしまって申し訳ありません。私は明日の午後にここを発って別のところへ行かねばなりませんので、どうしても今夜中にお渡ししたかったのです」

 差し出してきた小論文は『受動型パッシヴ経路案内における案内路の勾配・標高・気温の影響』に関するものだった。やはりこれが一番気になっていて、なおかつ評価に時間がかかったのだろう。さっきまで内容を我が妻メグに説明して、英語の修正を手伝ってもらっていたって? 我が妻メグは内容を理解できたのだろうか。

「必ず読むよ。しかし我が妻マイ・ワイフに預けて、帰ってくれてもよかったんだが」

「いいえ、今夜は兄が一晩中仕事で出掛けるので、私は自由なのです。それで、お渡しするついでに一目でもあなたにお会いできたらと思い……」

 目的が変わってるじゃないか! 我が妻メグがここで堰き止めてなかったら、部屋まで押しかけてきたんじゃないか。宗教上の理由で、それはダメなんだろう?

 とにかく受け取り、代わりに修正した小論文を手渡す。アヤンが美しい目をキラキラと輝かせ、「ありがとうございます! あなたに神の祝福がありますように」と多少興奮気味に言った。

「これをここで読んで構いませんか?」

「それを許可するのは俺じゃない、ホテルのスタッフだよ。それに俺はこれから出掛ける」

「お帰りは遅くなるのでしょうか。12時までなら待とうと思いますが」

「戻って来てからも君と話す時間はあるかどうか判らない」

「とにかく待っています。読み終えたら別の小論文を書こうと思っていますから」

 こんなおかしなつきまとわれ方は初めてだ。しかもそれが敵対する競争者コンテスタント同伴者アカンパニアって。何か新たな作戦なのだろうか?

 しかし好きにさせておく。ところで我が妻メグは、と辺りに目を走らすとエントランスの方から歩いて来て「車を借りる手続きが終わったわ」と笑顔で言う。さすがに手回しがいい。

「それで、どこへ行くのかしら」

「まずサーニャのヴィラだな」

「もうお帰りになるの?」

 理由は、サーニャ自身に言わせることにする。

「ペネロパも連れて行きたいの」

「まあ、彼女を? どうしてかしら」

「それは……彼女に関係があることだから」

 理由になっていないが、続きは車の中で、と俺が言い、車へ向かう。「お気を付けてステイ・セイフ」となぜかアヤンが見送ってくれた。



 部屋の電話が鳴った。ティーラが受話器を取る。話した後、私に向かって「お客様が来て、この部屋を訪ねたいとのことですって」と言う。

「どなたかしら。このホテルに宿泊してらっしゃらないの?」

「外来よ。ミス・アヤン・シャイフですって」

「まあ、彼女が」

 ザグレブで会話した時は、もっと私と話したそうだった。しかし、どうやって私がここにいることを知ったのか。カミールの指示で私を足止めしに来た? 彼は妹に近付くなと警告に来たくらいなのに、そんなことをするだろうか。

 断るのは簡単だが、相手に探りを入れる意味でも、会うことにした方がよさそう。

「どうぞお越しくださいとお伝えして。でもこの姿ではお会いできないから、急いで着替えるわ」

 ベッドを出て、ネグリジェを脱ぐ。クローゼットを開け、人を迎えるのに適した、それでいて服を取り出して着替える。たぶん、出掛けることになるだろう。

「マドモワゼル・シャイフはどうして私たちがここに泊まっているのをご存じなのかしら」

 ティーラも私と同じ疑問を持ったようだ。それはそうだろう。ホテルが不用意に宿泊客の名を漏らすことはない。それを調べることができるのは、リタのような特別な資質を持った者だけ。

 あるいは、私ではなくティーラがここに泊まっていることをカミールが嗅ぎつけ、適宜探りを入れて、私が後からのに気付いたのかもしれない。けれどアヤンはきっと、別の言い訳を用意しているだろう。

「おそらく、ドクター・ナイトに会いに来たのではないかしら」

「ええ、彼女は彼の論文の興味をお持ちだとか」

「その時に、ホテルのスタッフの誰かが、あなたが泊まっていることを、うっかり口にしてしまったのじゃないかしら」

「私を? でも、イスラムではクラシック音楽を聴くことは禁じられているって……」

「彼女は音楽ではなく、音に興味をお持ちなのよ。特に、数学的に調和の取れた音に」

「どういうことかしら?」

 しかしそれに答える前に、ドアにノックがあった。私もちょうど着替えを終えたところ。ティーラに応対してもらう。アヤン・シャイフがしずしずと部屋に入ってきた。マスクを外している。ようやく彼女の素顔を見ることができた。

 眉が濃く、目は大きく、鼻は高く、唇は弓なりのカーヴを描いている。典型的なアラビア系の顔立ちにして、完璧な造形。彼女自身が、イスラムで禁止されている“偶像”になりえるだろう。ティーラもその美貌に見とれている。

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