#18:第7日 (7) 境界を越えて
リタが見舞いに来てくれた。
彼女の身体からは、ダルメシアンと、サーニャの匂いがした。彼女は安らぎだけでなく、様々な情報を私に与えてくれる。
リタと
彼女は
「マルーシャ、ミセス・ナイトのデザートが全部残っているけれど、食べる?」
「いただくわ」
見舞いに来てくれたリタのために、ルーム・サーヴィスでティーラがパラチンケを注文してくれた。リタはそれに口を付けずに帰っていった。
パラチンケはいろいろなヴァリエイションがあるが、ここのはイチジクのジャムをクレープに巻き、その上にホイップ・クリームとたくさんのフルーツが載せられている。
クリームとフルーツを口に含む。控えめな甘さが心地よく、飲み込むと胃の中に染み渡るよう。昨日は“過労”を演出するために、約24時間、水以外は何も口にせず、今朝もポレンタをほんの少し食べただけなので、特に甘い物はありがたい。
「デザートを二つも食べられるのなら、あなたの回復も近いわね」
ティーラが紅茶を飲みながら微笑む。「ええ、そうね」と答えてフォークでクレープを切り取り、口に運ぶ。今夜は活動するから、そのためのエネルギーを補給しておかなくてはならない。
ただ、ティーラの目をどうやって逃れようか。あるいはカミール・シャイフがティーラに何か仕掛けてきて、私がそれに応じなければならないのかもしれないが……
「私はもう一人で平気だから、ティーラ、あなたはドクター・ナイトやリタのところへお話をしに行っていいのよ?」
水を向けてみると、ティーラは動揺を笑顔で隠しながら答えた。
「ありがとう、マルーシャ。でもドクターはお客様と会っているのよ。さっきミセスをドアの外まで送った時に、そう伺ったの」
「でも明日はもう時間がないわ。朝6時の飛行機に乗ってザグレブ、そこからウィーンへ……」
「ええ、解っているわ。でももう十分なの。ザグレブで一緒に観光できただけでも嬉しかったのに、ここでも会えて、お話ができたなんて! マルーシャ、あなたのおかげで一つ判ったことがあるわ」
「何を?」
「私は、望んで行動を起こせば、いつでも彼に会えるのよ。ただ、そのためには守らなければならない節度があるの。私はまだその境界線を知らない。けれどいつかきっと知ることになるわ」
「それは大事なことね、ティーラ」
彼女が私の人格の一つであった間に――現実世界で――そのことに気付いてくれていたら、私の運命は変わっていたかもしれない。アルテムとのことも、マリヤだけでなく、ティーラが止めてくれただろう。もちろん、代わりに私が命を失っていたかもしれないけれど。
「もう一つ、あなたが近いうちに知るはずのことがあるわ」
「まあ! それは何?」
希望に燃える瞳だったティーラが、真剣な目で私を見た。
「あなたの前に一人の男性が現れる。そしてあなたはその人を、彼よりも好きになるの。愛するようになるのよ。とても激しく、身悶えするほどに。その時にもあなたは、節度を守らなければならないの」
「そうなのね。今はとても信じられないけれど、きっとそんな日が来るんだわ」
「今の私の姿を、よく憶えておいて。節度を守れないとこうなるのよ」
「まあ! するとあなたが追っていたのは、やはりアルテムだったの? 列車に乗っていて、ザグレブで降りたあの方は……」
「いいえ、違うの。思い違いだったのよ。私はありもしない幻影を追っていたの」
パラチンケをようやく食べ終えた。私が一つのデザートをこんなにも時間をかけて食べたことは、今までにほとんどない。
「幻影……」
「そう。そして私はそれを受け容れるしかなかったのに、諦めきれず、彼を探し続けたの。ドゥブロヴニクからこの辺りまで。コスティアンティン・チェルニアイエフではなく、アルテム・ドムブロフスキイがいることを信じて。そんな可能性は、万に一つもなかったのに! 節度をどこで失ったのか、解らないままにさまよい続けたのよ」
「私はあなたのことをよく知っているつもりだったわ、マルーシャ」
ティーラが静かに言った。いつもどおりの優しさを湛えて。
「あなたほど冷静に物事を判断できる人は、他にいないと信じていたわ。でもそのあなたが、節度を失うなんて! 愛情とはそれほど力のあるものなのかしら。私はまだそれを知らないのね、真の愛情を」
「さっきあなたが言った“境界線”ははっきりしないものなの。とても脆く壊れやすく、また動きやすいものだと思えばいいわ。どこにあるか確かめようとしているうちに、踏み越えてしまうことも……」
「とても危険なものなのね。でも私、もしかしたらあなたと同じように、それを越えてしまうことがあるのかもしれないわ」
「まあ、ティーラ! そんなことを……」
「だって私たちは姉妹ですもの! もちろんあなたが言ったことは、心に刻むわ。でも私が同じ間違いを犯したとしても、あなたはきっと解ってくれるでしょう」
それはティーラの慰めの言葉であると、私は信じることにした。もし彼女が間違いを犯すなら、私は命を張ってでも止めるだろう。たとえ仮想世界の中のことでも。
夕食は奇妙な雰囲気の中で摂ることになった。俺の隣にはサーニャがいて、目の前の料理にはほとんど手を付けず、ひたすら俺に質問をしてくる。
シャーロック・ホームズのように、脳を使う時には、消化のためにエネルギーを使うことを容認できない、という考えなのだろうか。脳のためにエネルギーを補給し、噛むことで脳に刺激を与える方がいいはずなのに。
ついでに、ひょろりと背が高いだけの貧弱なその身体のためにも、もっと食べることを勧めてやりたい。遺伝的に考えて、ミリヤナのようなプロポーションになれる可能性もまだあるのだから。
向かい側の二人、
時々聞こえてくる言葉の中に「地震」があるので、例のカメラによる震動測定の話だろう。まさか免震装置や制震装置のことではあるまい。
夕食が済むと部屋へ。サーニャには論文を読ませておき、その間にミリヤナと話をする。
「今朝ご相談したあの音を地図上にプロットしてきました」
ミリヤナがハンド・バッグから印刷した紙を取り出して、テーブルの上に広げる。地図はやはり印刷する方が見やすい。特にドゥブロヴニクのような“横長”の町では。
地図には音を観測した地点が、赤い線で示されていた。一目瞭然で、ほとんどはフラニョ・トゥジマン橋を通って町に入ってきていることが解る。そのまま幹線道を走って町中へ至り、そこからはいろんな道を走り回っている。線の濃さは、頭数に比例していると凡例にある。ところどころ線が切れているのは、カメラがないか、カメラにマイクが付いていないところだろう。
ところが、赤線は街中に散らばっているように見えて、一ヶ所だけ他に比べて色が少し濃くなっているところがある。旧市街の西の出口、ピレ門の辺り。しかし旧市街の中へは入っていない。
「旧市街の中に犬は入れない、という決まりはないよな?」
「存じません。しかし門衛がいるわけでもありませんから、入ろうと思えば入れるでしょう。カメラもちゃんと設置されていますよ。建物の上の、目立たないところに」
ミリヤナがバッグの中からタブレットを取り出す。表示した地図に、カメラの位置がプロットされている。旧市街は、その外に比べて設置台数が少ないが、ストラドゥンや大聖堂前、それから船着き場の辺りにある。少ないのは、車が通らないからだろう。
「バス・ターミナルの近くに市庁舎がある?」
「いいえ、旧市街の中です。ご覧になりませんでしたか? レクター宮殿のすぐ隣です」
「名前の付いた建物以外はみんな同じ造りだから気付かなかったよ」
「あら、そうでしたか」
「バス・ターミナルの南の小さな入り江は……」
「ボカール要塞とロヴリイェナツ要塞に囲まれたところですね?」
「そこに小さな突堤がある」
「はい。しかしそこは二つの要塞に設置されたカメラに写ります」
俺の言わんとしていることは、ミリヤナには伝わっているようだ。
ところでさっきから、サーニャがこちらを気にしている。論文を読みながら、意識の半分で会話を漏れ聞いているだろう。俺が“犬”という言葉を出したからだと思う。
「要塞の西にグラダツ公園があるが」
「そこにカメラは設置されていませんよ」
「そこへ至る坂道には?」
「ありません」
当然、公園の西のダンチェ・ビーチにもカメラはないだろう。夕方の予想が当たってしまった。いや、正確には「明確に否定されなかった」というだけに過ぎないけど、気になることは気になる。
「役に立つかどうか判りませんが、私が持ってきた“センサー”をご覧になります?」
俺が黙っていると、ミリヤナが言った。例の大きな手提げ鞄のことだろう。「見せてくれ」と頼むと、パラボラ・アンテナのようなのが出てきた。いや、マイクだな。そしてケーブルでつながった
「バウ・センサーです」
ミリヤナの得意気な表情。やはり鳴き声を見つけるのか。今のところ町中では役に立ちそうにないな。しかしロクルム島に行けば? ちょっと遅かったかなあ。
「何を調べようとしているの?」
我慢しきれなくなったか、サーニャが口を挟んできた。つまらない、とは思ってないに違いない。彼女も犬の飼い主だから。
そこで“噂”のことを話す。サーニャは真剣に聞いている。話し終えると「
「でもただの噂だと思っていたのに。だって何も証拠がないんだもの」
「それを見つけようとしてるんだが、今のところ肯定も否定もできないというところだな」
「調べて何の役に立つの?」
「その質問はなしだって言ったはずだぜ。調べたいことを調べるのは楽しいものさ」
「ええ、私もアーティーのお手伝いをするのが楽しくてたまりません」
ミリヤナが同調してくれる。俺の言わんとしていることがちゃんと伝わっている。彼女は
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