#18:第7日 (6) 美少女の興味

「あなた、財団の研究員だったのね」

 サーニャが俺を真っ直ぐ見つめながら言う。美少女ニンフの冷静な視線というのは爽やかさと凜々しさがあって、なおかつある種の強制力を持っているのが興味深い。嘘を言うことが許されない雰囲気というか。もちろん嘘をつく気はさらさらない。

「そうだ。我が妻マイ・ワイフから聞いたのか」

「ええ。でも昨夜ミリヤナが言っていた研究員が、あなただということにさっきまで気付かなかったの。あなたがドクトル・ナイトだって」

 ほう、そういうことか。ミリヤナは彼女の前で俺のことをドクトル・ナイトとしか言わず、俺はアーティーとしか名乗っていない――いや、そもそも言ってないか?――から判らなかったと。

 もしミリヤナがマルーシャを彼女の家に連れて行かなかったら、どういう経緯で彼女が俺を研究員と知ることになったのかなあ。まあ、それはもう考えなくていいとして。

「アーティーと呼んでくれるのなら話をしよう」

「財団ではそういう決まりなの?」

「ここの支所ではどうだか知らないが、マイアミ本部ヘッドクォーターでは全員がファースト・ネームで呼び合うよ」

 所長ディレクターですら肩書きで呼ばれないんだ。もっともその名前が俺の仮想記憶には入ってない気がするけど。

「じゃあ、アーティー、あなたの専門を教えて」

「数理心理学だ」

「具体的な内容を教えて」

 集団の行動を計算機でシミュレイションして、その傾向を探る研究、といつもの簡略説明。それからいくつかの例。

「情報学と近いかしら」

「情報学の一分野だろう」

「私、将来は財団の研究員になりたいの」

頑張れキープ・イット・アップ

「ドゥブロヴニクには支所があるのに、この辺りの出身で研究員になった人が誰もいないの」

「ミリヤナは研究員だよ」

「彼女は保守要員だわ」

「いいや、去年から研究員補助という肩書きになった。いずれ正研究員になるだろう」

「そうなの? 彼女、趣味で研究をしてるって言うけど、つまらない、役に立たないことばかり考えていると思うわ」

「研究には2種類あるんだ。一つは役に立つこと、もう一つは何の役に立つか判らないことだ」

「役に立たない研究に意味があるの?」

「成果の使い途を考えるのは研究した本人じゃなくてもいい。他の人が思い付くこともあるのさ。ある人が道具を発明すると、時々別の誰かが思いも寄らぬ使い方をすることがあって、それはどちらも世界に対する貢献だよ。負の方向のこともあるけどね」

「解ったわ。あなたのお話、もっと聞かせてくれる?」

「それはいつ」

「もちろん今から」

「君、暗くなったら家に帰るんじゃないのかい」

 既に4時半過ぎ。西の方は海岸線に沿って低い岩山があるので海は見えず、赤い太陽はその山に半分以上隠れている。広場はすぐ横の道の街灯で照らされているが、もうすぐ足元も見えなくなるだろう。子供も順次帰って行くに違いない。

「財団の研究者と一緒なら、両親は心配しないわ。ペネロパはヨシップに連れて帰ってもらうから」

 サーニャがヨシップを呼び、犬を連れて帰るよう言っている。そして自分は財団の研究員に付いて行くと。勝手に決めちまいやがった。ヨシップは解ったと言ってるが、犬の方はむしろサーニャと我が妻メグに付いて来たがってるんじゃないかなあ。

「私がヴィラへ行って、ご両親に経緯を説明してくるわ。あなたは彼女を連れて先にホテルへ」

 我が妻メグは優しい上に物わかりが良すぎる。サーニャがキー・パーソンであることを知っているはずはないのに、どうしてこうも協力的なのか。むしろ小娘ヘファーに俺を取られて嫉妬してほしいくらいだ。

 遊びをやめ、4人と1匹で暗くなった道を歩く。薬局の前で別れて、俺とサーニャはホテルの方へ。

あなたの奥様ユア・ワイフも研究員なの?」

 さっきまで黙って歩いていたのに、我が妻メグがいなくなったら急に質問が来た。

「いいや、元は俺が休暇ヴァケイションで行った先の、ホテルのスタッフだよ」

「あなたにふさわしいのかしら」

「もちろんだ」

 何てことに疑問を持つんだ、この小娘ヘファーは。我が妻メグとほとんど話したこともないくせに。それとも研究員どうしで結婚した方が、頭のいい子供が生まれるとでも思ってる? 遺伝ってのはそんな単純なものじゃないぜ。天才ってのはたいてい突然変異だよ。

「クロアチアへは何をしに来たの?」

「研究所の視察だ。ザグレブ本所とドゥブロヴニク支所の。ただそれも、クレタ島で開催された国際会議の帰りに寄った」

「国際会議? 研究発表したの?」

「発表は他の研究員がやった。俺は財団の出展の責任者で、セッションの司会チェアマンも務めた」

 その時の模様をいろいろと説明しているうちに、シェラトンに着いた。

 さて、彼女を部屋に連れ込むのは憚られる。ロビーで話をしよう。その前にフロントレセプションへ行き、メッセージがあるか確認。あるはず。あった。ミリヤナから。「成果あり。いったん家に戻ってからそちらへ行きます。5時半頃」。何だろう、自宅から何か持ってくるつもりだろうか。まあいい。待とう。

 その間にサーニャと話をする。

「あなたの論文が読みたいわ」

 ソファーに座った途端に、なかなか偉そうなことをサーニャが言う。読めるのかね。論旨はともかく、英単語や文法の説明をしなきゃいけないようじゃ、話にならんぜ。

 取ってくるからしばらく待ってろと言い、部屋に戻る。隣からティーラはいなくなったはずだが、どこの部屋へ移動したのだろう。鞄をあさり、『2.5次元』の論文を取り出してロビーに下りる。

 論文をサーニャに渡し、まず概要アブストラクトをよく読め、と言う。

「先に言っておくが、読んだ後で『何の役に立つの』って質問はなしだぜ。読んだ研究者はたいてい、そこに書かれたシミュレイション方法が自分の研究に応用できるかを考えるんだ」

「解ったわ」

 3分ほどで、「読んだわ。次は?」。

「『シミュレイション手法メソッド』のチャプターを読む」

「解ったわ」

 サーニャが読んでいる間に、我が妻メグが帰って来た。小声で俺に話しかけてくる。

「ご両親は快く承知してくださったわ。終わったら責任を持って送り返すって約束もして」

「ありがとう」

 交渉事は我が妻メグに任せるに限るなあ。しかし歩いて行ける距離なのに責任を持って送り返すって、何時まで話をする想定なんだ?

「こんなところでなく、お部屋に入っていただけばよかったのに。そうすればお飲み物くらいお出しできるわ」

「ここだって注文すればカフェから飲み物を運んでくれるだろう。それにこの後、もう一人来る」

「どなたが? ああ、きっと研究所の方ね。それならなおさらお部屋の方が」

「長引きそうなら考えるよ」

「そう。じゃあ私はマドモワゼルのご様子を伺ってくるわ」

 我が妻メグは行ってしまった。いつ戻ってくるつもりだろう。

 話している間、サーニャは無言で読み続けていたが、速度がはかばかしくないように思える。やはり英語がネックか。論文を睨むような目つきだが、それでも美少女ニンフとしての美貌を保っているのも興味深い。しかしあの視線をこちらに向けられたら、石にされそうと感じるかもしれない。

 それにもしかしたら彼女は目下のところ学業に夢中で、同年代の少年が彼女に愛の告白をしたら、あの目つきできっぱりと断られる……とか。

 うむ、我ながらとてつもなくつまらない妄想だ。

「……とても難しいわ。専門用語が多すぎる……」

 15分ぶりに美少女ニンフが発した言葉がそれだった。しかもクロアチア語。明らかに独り言だが、さて反応してやるべきなのかな。

「それを読む研究者はたいてい計算機科学に通暁しているから解るんだよ。君はまだ学校で習っていないんじゃないか」

「計算機科学はきっと来年からだわ」

「解説が必要かい」

 サーニャが顔を上げて俺を見た。論文を読む時よりは若干穏やかな目つきで、石にはされなさそう。

お願いモリム

 単なる想像だが、彼女から「お願いプリーズ」と言われる人間はごく限られているのではないかと思う。家族と、近所の年上の人と、学校の教師くらい。同年代とそれより下からは、常に「お願い」をされる立場ではないか。

 ちなみに我が妻メグが夜、ベッドの中にいる時、「お願いプリーズ」は「もっとモア」の次に多い。

 本文の記述に沿って解説をしているうちに、ミリヤナが来た。

こんばんはドブラ・ヴェチェル、アーティー。おや! どうしてサーニャがここに?」

「やあ、ミリヤナ。彼女も俺の研究に興味があるらしいよ」

「そうでしたか。彼女は子供の頃からとても聡明で、初等教育を終えた時にはクロアチアで最優秀のザグレブ第五高校ギムナジヤへも入れるくらいの成績だったのですが、ドゥブロヴニクの高校ギムナジヤを選択したのです」

「家庭の事情?」

「それは彼女が話したければ話すでしょう」

 サーニャは黙っているので、たぶん話したくないのだろう。

「ところで今朝言っていた調査の結果が出たのかい」

「もちろんです。とても興味深い結果と思いますわ」

「鞄に入れているのは何?」

 朝は持っていなかった大きな手提げ鞄をミリヤナが携えている。家に寄ってから来ると言っていたので、それを持って来たかったのだろう。

「これは私が作ったセンサーです。もちろん調査と関係しているのですよ」

 中身は見せてくれなかったが、ミリヤナは自信ありげに微笑んだ。何のセンサーだ。犬を見つけ出す? 足音……違うな。たぶん鳴き声だろう。

「君とサーニャのどっちと先に話すか、少し迷っている」

「私は遅くなっても構いませんよ。何なら先に食事をして来ましょうか?」

「私だって、12時までお話をするつもりで来たのに」

 サーニャが割り込んできた。何、その嫉妬心丸出しの声。しかも12時までって、勝手に決めるなよ。そもそも高校生がそんな時間まで出歩いてはいかん。

「相変わらずサーニャは学習熱心ですね。私は去年まで彼女のヴィラの部屋にいましたが、彼女は寝る直前まで私の部屋にいて、力学や電磁気学のハンドブックを読んでいましたよ。内容について教えてと言われたこともありますが、初等教育を教えたことは一度もありませんわ」

「たいしたものだ。俺が小学校の時、教科書テキストブック以外で読んだ科学書は『流体力学入門』だけだったかな」

「アーティー、解説の続きを……」

「あら、ミス・バビッチ、ようこそ! 明日はお休みでしょうから、今夜は長いお話になりますかしら?」

 我が妻メグが戻って来て言ったが、最後の一言は余計なんじゃないか。しかし俺が二人の女を相手にして困った状況にあると見て取ったのか、「皆さん、ご一緒に夕食はいかがですか」と言う。

「夕食の間にマイ・ハズバンドとサーニャが議論をして、夕食の後はミス・バビッチと交互に適当な時間だけ議論を……」

 ヘイ、マイ・ディアー。それ、12時まで続く可能性があるんだけど、本当にそれでいいと思ってる?

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