#18:第7日 (9) アラベスク

「突然押しかけまして申し訳ありません、マドモワゼル・マルーシャ。偶然のことからあなたがここにお泊まりであることを知り、先日のお話の続きをしたくなったのです。どうかお気を悪くされませんよう。そしてこちらは」

 アヤンが独特の魅力的な訛りのあるフランス語で私に挨拶をし、ティーラの方を見る。

「マドモワゼル・エステル・イヴァンチェンコですね。あなたのことを少し調べました。ピアニストとしてしばらく前にプロ・デビューされたと。私は音楽を愛好する者ではありませんが、あなたの才能にはもちろん敬意を払います。改めてご挨拶申し上げます。アヤン・シャイフです。UAE・ドバイ首長国エミラ・ド・ドゥバイから参りました。兄のカミールと一緒に旅行中で、彼の仕事は一族が経営する流通会社の最高執行責任者C O O、私は付属する研究所で数学を研究しています。どうぞよろしく」

「まあ! 私こそよろしくお願いいたします」

 ティーラはアヤンの輝くような美貌と知性的な物腰に、一息に魅了されたようだ。しかしアヤンの態度は、前日ザグレブでに話した時と違って、すっかり落ち着いている。あの時は突然の出会いに戸惑っていたが、今はそれがないからだろうか。目にある種の満足感がある。何か議論を終えてから来たのではないか。Лエルとだろうか。

 窓際の椅子を勧め、アヤンの話を聞く。彼女がコートを脱ぐと、白いブラウスに紺のロング・スカートという服装だった。スレンダーだが素晴らしく均整の取れた身体付き。私は今の自分の体型より、彼女のような身体に憧れる。

「先日、あなたと話した時に、私がオペラに美を感じるのは、言葉の響きや旋律に美しさを感じるから、という指摘がありました。私はそれを検証しようとして、あなたの歌を聴いて……もちろん歌として楽しんだのではありません、研究したのです……そこに数式が見出せるかを検討してみました。結論として、まだ数式はできあがっていませんが、できそうという感触だけは掴むことができました。そこで二つお願いがあるのです」

「何でしょうか?」

「一つは、あなたの歌唱について、論文を書くことをお許しいただけるでしょうか。音楽の論文ではなく、数学の論文です」

「私の歌唱についていくつかの評論や評価がありますが、数学的な観点からのものは初めてです。ぜひお書きになってください。とても興味がありますわ」

「ありがとうございます。もう一つは、それをいずれかの学術誌に発表したいのですが、その際に私の名前ではなく、偽名を……それも男性の名前にしたいのです」

「まあ、それはなぜでしょうか?」

「ご存じのとおり、イスラムではクラシック音楽を鑑賞することが禁じられているからです。それが数学の研究のためという名目があっても、同胞の納得を得ることは難しいでしょう。まして女性ともなれば! しかしそれでは私の論文であることがあなたに判らないかもしれないので、その名前をあらかじめ伝えようと思うのです」

「何という名でしょうか?」

「研究所にウクライナ人の男性の数学者がいるので、その名前を借りるつもりなのです。アルテム・ドムブロフスキイというのです」

 その名を聞いても私は表情を変えることはなかったはずだが、ティーラは変わった。しかしアヤンの目は私に注がれているので、気付かなかったかもしれない。

 おそらく、彼女はこの名を言いに来たのだろう。カミールの指示で、私がどのような反応をするか見るために。

 ただ、それをどこで知ったのかは判らない。私自身は盗聴されていなかったと思う。であれば、ティーラがリタに伝えたのが漏れたのだろう。それは仕方ないこと。

 しかしアヤンの言うアルテムは、列車に乗っていたコスティアンティン・チェルニアイエフのことではないだろう。彼は退役軍人であり、数学者ではない。アルテムが身分を偽る時に数学者の肩書きを使ったこともない。

「解りました。どうぞご自由になさってください。これからは数学の論文にも気を付けることにしますわ」

「ありがとうございます! せっかくですから、私が作ろうとしている数式について話を聞いてくださいますか。あなたは先日、私のことを一目で数学者と見抜かれましたが、私はあなたのことをオペラ歌手として知っていながら、数学の才能をお持ちだろうと感じたのです。ですからきっと興味をそそられるでしょう」

「興味はありますが、私に数学の才能などありませんわ。ですが、音楽と数学の関係について一つ考えていることがあります。歌ではなく、旋律ですから、私より妹のエステルの領分です」

「それはどんなものですか?」

 彼女は、自身の数式の話をしたかったはずなのに、私の提示したテーマに興味を示した。未完成の数式では私の興味を保てないと思ったのだろうか。

「アラベスクです」

「幾何学模様の?」

「はい。あれは数式で表せるのでしょう?」

「ええ、基本的には直線と曲線、そして繰り返しですから、どんなものであれ数式で表現できるでしょう」

「色も含めて」

「もちろんです」

「それを音楽に変換することはできないかと考えていたのです」

「とても興味深いですわ」

 アヤンの表情が変わった。新しいおもちゃが入ったプレゼントの箱を開ける少女のようだ。先ほどまでの、少し取り澄ました冷静な顔つきは、やはり作り物だったのだろう。

「説明する前に、既にクラシック音楽として存在する『アラベスク』をお聴き下さいますか。いくつかあるのですが、クロード・ドビュッシーの『二つのアラベスク』の第1番ホ長調と、ヨハン・ブルグミュラーの『25の練習曲』の第2番がよく知られています。妹が携帯端末ガジェットにデータを入れていますわ」

 ティーラにお願いして、その二つをアヤンに聴いてもらう。ドビュッシーは4分ほど、ブルグミュラーは1分足らずの短い曲。

「これは私のイメージするアラベスクとは全く違っていますわ」

 聴き終わると、アヤンが言った。表情は少し冷めている。

「そうでしょう。これらは、フランス人やドイツ人がイメージする“アラビア風アラベスク”であって、装飾的な異国情緒エギゾチスムを表したものに過ぎません。では、他にもう二つ聴いてくださいますか。ヨハン・S・バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』とヨハン・パッヘルベルの『カノン』です」

 どちらも冒頭から3分ほど。これについてはアヤンも興味を復活させたようだ。

「解ります。どちらも、同じ長さの音が連続する、単調な主題の繰り返しがベースなのに、非常に美しく印象的です。つまりアラベスクの模様を基にして、このような音楽ができあがる可能性があるのですね」

「ご理解いただけて嬉しいですわ。これを、実在する模様を使えば前衛音楽、あるいは実験音楽と言われるものになるかもしれません。しかしそれは無国籍の音楽であり、つまらないと考えます。ですから私は、これを数学の才能があり、かつ音楽を理解する才能のある人が手掛ければ、基となったアラベスクの模様そのものをイメージするような、さらにアラビア世界を象徴するような音楽ができあがる可能性があると信じるのです」

「それは……それは、非常に興味深い着想です」

 アヤンの声が震えていた。膝の上の置いた手も、微かに震えている。顔は一目で解るほどに紅潮し、目がキラキラと輝いている。頭の中だけなく身体中が、熱意で滾っているかのよう。

「数式としての美しさが、図形的に美しいだけでなく、さらに音楽的に美しく表現される可能性があるとおっしゃるのですね。数式と図形の例はいくつもありますが、音楽に変換できる可能性までは私も思い付きませんでした。数式と図形の例を……少しばかりお聞きくださいますか」

「ぜひ」

 アヤンは、フラクタル幾何学の中のマンデルブロ集合やジュリア集合について、携帯端末ガジェットでその画像を表示しながら、熱心に語り始めた。私は少しばかり予備知識を持ち合わせていたので付いて行けたが、ティーラは途中から諦めたに違いない。

 さらにアヤンは、コッホ曲線、ペアノ曲線、ヒルベルト曲線、そしてシェルピンスキーのギャスケットについて語った。そちらの方が、アラベスクに近いと思ったのだろう。

 それは本当に楽しそうな表情だった。彼女はЛエルの論文を読んだに違いないが、それについて彼とこのように熱烈な議論を戦わせたのだろうか。

 語り終えるとアヤンは、満足げなため息をついた。額の髪の生え際に汗が滲んで、妖しい色気を放っている。

「これらはほんの一例ですが、数式を図形で表した時の美しさについて、少しでも感じ取っていただけたでしょうか?」

「大変興味深かったですわ。コッホ曲線の説明では、雪の結晶を思い浮かべました」

「なるほど、あなたの祖国はウクライナだから、雪をイメージするのですね。私の祖国では何十年かに一度しか降らないものですから」

 アヤンはもう一度大きなため息をついた。

「私はこれからあなたが提示してくださった可能性について検討しようと思いますが、残念ながら私には音楽の素養がありません。祖国に帰っても誰もいないでしょう。留学していたパリへ行くことができれば、あるいは手伝ってくれる人が現れるかもしれませんが……必要なのは、音を奏でることができる人と、それを聴いて理解する音感を持つ人です」

「それなら、あなたのすぐ横におりますわ。私の妹です」

「ああ……」

 アヤンがティーラを見て、笑顔を浮かべた。あるいはそこにいることを、忘れかけていたかもしれない。彼女は話の聞き手として熱心ではなかったから。

「そうでした。彼女はプロのピアニストで……」

「数学の素養はどれくらいあるか判りませんが、絵画を理解する才能は十分です。もちろん幾何学模様にも興味を持っています。あなたが図形とその主題を示せば、彼女はそれを旋律にすることができるでしょう。美しさについても彼女が判定できますが、あなたも同じように美しく感じることができれば……」

「マドモワゼル・エステル、いかがでしょう。私のお手伝いをしてくださいますか? もちろん、今夜一晩のうちに作り出そうというのではありませんわ。その端緒となるような発想が私の頭に生まれ、なおかつ私が初歩的な音楽のセンスを身に着けることができればいいのです。ほんの2、3時間でも……」

「ええ、ですが……」

「ティーラ、私はこれは、とてもいい経験だと思うの。音楽には数学的な美しさが必要であって、マドモワゼル・シャイフのような素晴らしい数学的才能の持ち主と共に音楽について語り合うのは、またとない貴重な機会に違いないわ」

 ティーラはもちろん戸惑っていたが、すぐに笑顔を見せて「喜んでお受けしますわ」と言った。私はこのようなティーラの素直さを、とても愛おしく感じる。

 そして私は3時間ばかり、活動することができるようになった。12時までに戻ってくればいいだろうか。

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