#18:第6日 (2) 少年と犬

 6時30分起床。

 昨夜、寝る前に我が妻メグが調べてくれたところ、ドゥブロヴニクはザグレブより15分ほど日の出が早いとのことだった。だからその分だけ、起きるのを早くした。

 日の出は本日、7時8分。顔を洗って、着替えて、外へ出て準備運動をしている間に明るくなるだろう、と思われる。幸い、天気もよさそうだ。

 我が妻メグの笑顔は今朝も爽やかだが、昨夜はベッドの上で初めての運動をした。ヒップ・リフトとヒップ・スラスト。仰向けになって「この姿勢はあなたにしか見せられないわ」と言いながら、我が妻メグは熱心にヒップをリフトしたりスラストしたり。

 なので、その疲れが腰や太腿に残っている可能性はある。マッサージはしてやったけれど、他にも激しい運動をしているので、その影響も。

 それとも意外に平気なのだろうか。まだ若いからか、それとも似たような腰の動きに慣れているからか。

 しかしそれを朝に訊くと、笑顔で回答拒否されるので、やめておく。訊くなら今夜だな。ビッティーとの通信をどのタイミングにするか、考えないといけない。

 ホテルの前で準備運動を開始。東の空は赤くなっているが、すぐそこに山が迫っているので、日が昇るのはもうしばらく後だろう。町中に街灯は少ないはずだから、我が妻メグの自転車のライトに頼ることになりそうだ。

 準備運動を済ませ、走り出す。我が妻メグは自転車で伴走。北へ向かい、車のいない道路を渡る。散歩の時には気付いていなかったが、このすぐ近くにバス停がある。"Srebreno"。ドゥブロブニク行きも、空港方面行きも停まる。

 研究所へ行くのも、時間さえ合えばバスでも行けそう。"Plat"で降りればいいはず。

 集落の中を走る。まだ薄暗いのでゆっくり。人も車も通っていないけれど。

 薬局の角を西へ。ちゃんと憶えていた。昨日散歩したおかげだ。その先に小学校、というところで、ダルメシアンを連れている子供。少年ブラット。挨拶をしたものかどうか。

おはようドブロ・ユートロ!」

 我が妻メグは躊躇せず爽やかに挨拶。しかし少年ブラットからは何か呟いたような声が聞こえるだけ。元気がないな。俺も挨拶しなかったけど。犬は小さく"bow"と吠えただけ。

 しかしすれ違った直後に、「オーパ!」と甲高い声。「あら、まあオー・ディア!」と我が妻メグがブレーキ。犬だけが追いかけてきて、我が妻メグの自転車の横を走り始めたのだった。俺も立ち止まる。

 我が妻メグが自転車を降りると、犬は小さく吠えながら彼女の脚にまとわりつく。やめろ、そこを触っていいのは俺だけだ。

「ペネロパ!」

 少年ブラットが何か言いながら走ってきた。同時通訳されなかったから、犬の名前だろう。ペネロープ、ね。メスか。それなら許す。

 我が妻メグは、この前やったように犬の頭を撫でる。犬はとても嬉しそうにする。少年ブラットは黙ってそれを見ている。口を開けてるから呆気に取られてるかな。

この近くに住んでいるのジヴィテ・リ・ウ・ブリズィニ?」

 我が妻メグ少年ブラットに話しかけたが、それが何とクロアチア語だ。俺には同時通訳されて英語に聞こえるから、クロアチア語に違いない。いつの間に憶えた?

そうダー、ブラシナ」

あなたは小学生ティ・スィ・オスノヴノシュコラツ?」

そうダー4年生チェティリ・ラズレド

この犬は何才コリコ・イェ・スタル・オヴァイ・パス?」

3才トリ

名前はダ・リ・セ・ゾヴェペネロパ?」

そうダー

 おまけに他の会話までしてるし。ついでに少年ブラットの名前も訊いてくれねぇ? 俺が話しかけると、俺までクロアチア語を話せることになって、ややこしくなるんだよ。

 我が妻メグは犬の身体まで撫でながら、首から伸びているリードをたぐり、持ち手を少年ブラットの手に握らせた。「離してはダメよ」と言いたいところだろうが、さすがにそれをクロアチア語にはできないようだ。

 そして立ち上がり、最後に犬の頭を一撫でして、「よい一日をウゴダン・ダン!」。

 少年ブラットも「ありがとうフヴァラ・ヴァムよい一日をウゴダン・ダン」と言って、犬を引っ張って行った。犬も最後に我が妻メグに向かって一吠え。おとなしく少年ブラットに引っ張られて行く。

「いつの間にクロアチア語を習得した?」

 再び走り始めながら我が妻メグに訊く。

「一人で観光している間の空き時間よ。路面電車トラムに乗っている間とか」

「そんな短時間で憶えられるものなのか」

「よく使う会話の類型パターンを知っているの。他の国の言葉でも。それに沿っていくつか憶えるだけなのよ」

 澄まし顔で簡単に言うけど、「この犬は何才?」なんて質問まで類型パターンに入ってるわけないだろ。我が妻メグ性能スペックは過剰すぎる。何か秘密があるに違いない。

 しかしそんな詮索よりターゲットに関するヒントだよ。さっきの少年ブラットはきっとキー・パーソンだな。おそらく明日の朝も会うだろう。その時にもっと会話をしないといけない。が、俺じゃなくて我が妻メグにやらせないと。そのための準備をしておく必要がある。

 夜は……研究所から戻ってきたら、日が落ちているので走れない。他の何かだ。例えば明日、犬の気をもっと引くようなグッズを身に着けて走るとか。ちょっと考えよう。

 考えながら走っている間に、方向を南へ変え、砂利道を抜けて舗装道へ。そして幹線道を横断する。やはり車は一台も走っていない。

 まだ明けやらぬ中、廃墟エリアに入る。仮想世界に幽霊がいるとは思わないが、一人で走るのならやめていただろう。メグが横を走っているので、強がって進むことができる。

 それでも、朝焼けの空をバックにして立つ廃墟は恐ろしげな趣だ。光が当たらず、外形のシルエットだけが見えていて、それでもボロボロであることが判る。そして無人のはずなのに、誰かいるのではと思わせるたたずまい。寄り道して中へ入ってくれ、と言われたら、1000ドルでも御免被りたい。

「あっ!」

 我が妻メグが小さな悲鳴をあげて、ブレーキをかける。こら、俺一人を先に行かせるんじゃない。

「どうした。パンクパンクチュアでもしたかい」

 少し引き返して我が妻メグの横に立つ。しかし彼女の視線は俺の方へ向かず、廃墟の上の虚空に飛んでいる。何か嫌なことを言いそう。

「その建物の上に……人影のようなものが……」

 視線の方向を見る。5階建ての廃墟ホテル。いくつもの棟が組み合わさった複雑な形状。そのどこに人影なるものがあったのか。

「その人影は飛び降りた?」

「まさか! そんな恐ろしいこと、言わないで。いいえ、後ろへ引っ込んだように見えたわ」

「鳥が止まっているのを見間違えたんじゃないのか」

「だって鳥は後ろへは飛ばないのに」

「だから、後ろ向きに止まっている鳥だった」

「…………」

 我が妻メグが俺を見て、黙り込んでしまった。しかし視線は虚ろ。先ほど見た光景を思い出そうとしているのか。やめた方がいいと思うけど。今夜、夢に見るぜ。

「どんなだったか思い出せないわ」

「次は写真を撮ることにしよう」

 そして、さあ行こうレッツ・ゴー、と誘う。我が妻メグは不安げな目でもう一度廃墟の上を見たが、黙って付いて来た。

 海岸沿いの廃墟の前では、我が妻メグは何も見なかったようだ。それより海を見ようと誘う。朝の海は静かでいい。道の下の岩場に打ち付ける波も穏やかだ。光が当たっていないので、真っ黒に見えるのが気にかかるくらい。クレタでもリオでも見て、朝の海は独特だと思った。リオは雨が降っていたのがさらに印象的で。

 廃墟群を過ぎて岬に向かう。緩やかな上り坂。我が妻メグは自転車を降りず、立ち漕ぎで頑張る。距離が短かったので無事越えることができた。岬の先端を回るとシェラトンが見える。ビーチがライトで照らされ、部屋にポツポツと明かりが灯っている。

 2周目に入ってもまだ日が出ない。集落の方では人と会わなかった。犬の鳴き声もしない。道路を渡り、再び廃墟へ。この時ちょうど山の稜線から太陽が現れ、冬の柔らかい光が射してきた。空も赤から淡黄ペイル・イエローに変わっている。

 その光で照らされた廃墟は、なぜだか恐ろしい気がしなかった。まるで光が悪霊を取り払ったかのよう。我が妻メグはまた建物の屋上を気にしているようだが、今度は声を上げない。

「明るくなったから、中を見て行くかい?」

「何ですって?」

 見る方に気を取られていて、俺の言葉を聞き逃したらしい。しかし聞いていても即座に拒否したんじゃないか。

「中に誰かいるか、確かめて来ようか」

まあマイ! どうしてそんな恐ろしいことを言うの? いいえ、早く通り過ぎたいわ」

 そうやって少女のように怖がると、いじめたくなってしまう。少しだけだから、と言って建物の方へ。我が妻メグは自転車を停めてから、慌てて走り寄ってきた。

「さっきのは私の見間違いだったのよ。確かめなくてもいいわ」

「見間違いかもしれないけど、最近人が来たのも間違いないよ」

 そう言って足元のコンクリートの破片を指差す。割れ口が新しい。少なくともここ2、3日の間に誰かが踏んで割ったのだろう。何しろこの辺りは、数日前に雪が降ったはずで、破片の状態から、それ以降に剥がれ落ちて踏まれたのだというのが明らかだから。

「きっと、廃墟を面白がって見に来た人だわ」

 我が妻メグが怖そうに言いながら身体をくっ付けてくる。しかしなぜか胸を俺の腕に当てようとはしない。単に腕を絡めようとするだけで。

 やはりミリヤナのような行為はおかしいんだ。今日のラボ・ツアーで迫って来られたらどうしようか。

「ギリシャの遺跡と似たようなものなのに、どうして怖いと思うんだろう」

「遺跡はちゃんと管理されているわ。この廃墟は放置されているからよ」

「所有権が放棄されてないとしたら、無断侵入で怒られるかもしれないな」

「そうよ。だから早く出ましょう?」

 現実世界でも、幽霊より生きている人間の方が怖いのは間違いない。これ以上我が妻メグをいじめるのは可哀想なので、退去してランニングを再開することにする。

 自転車を置いたところまで戻ってきて、俺だけさっさと走り出すと、我が妻メグは「待ってウェイト先に行かないでドント・ゴー・オン・アヘッド!」と言いながら、大慌てで付いて来た。しかし置いて行かれかけたことで拗ねたりせず、海沿いでは機嫌よく自転車を漕いで、岬を回ると「ラスト・スパート!」と言ってダッシュする。

 俺が追い付けるはずもないが、我が妻メグはホテルのエントランス前で自転車を降りて、キスで迎えてくれた。素晴らしい気遣い。

 それから部屋に戻って二人でシャワーを浴び、着替えてからレストランへ朝食を摂りに行く。我が妻メグにはまたデザートを食べさせようと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る