#18:第5日 (4) ザグレブ観光 (1)
箱を降りると駅舎の横手にある展望スペースから、下の町を眺める。たかだか30メートル――100フィート――登っただけでも、家並みの屋根より高い。そして高層建築物がほとんどないのと、冬で空気が澄み渡っているのとで、遥か彼方まで見渡せる。サヴァ川の向こうの財団研究所まで……はさすがに無理か。
で、写真撮るの? 要らないのか。なぜだ。まあマルーシャの写真を俺が撮ったら、ステージ終了後に没収されるだろうけどね。
景色を堪能したら、北側へと振り返る。そこにロトルシュチャク塔が建っている。白い漆喰で塗られた、飾り気のないのっぺりした壁の塔で、元は13世紀に作られた見張り台。毎日正午に塔の上に置かれた大砲が鳴らされるそうだ。
登ることもできる。登るようだ。40クーナ払って塔の中へ。内部を壁沿いに巡るように木の階段が作られている。幅は一人ずつしか登れないほどだが、
あっ、そうか! ツアー・アテンダント・モードに入ってしまったんだ!
まずい。そうなると、俺のことはほったらかしだ。しかも、ここでターゲットのヒントを探し出しても、マルーシャにまで教えてしまう。
それに
頂上に着くと、東西南北の窓から外が見える。南は、先ほどより高さが上がったが、あまり代わり映えしない。真下にあった家が、少し急角度になったな、と思えるくらい。
元々、ランドマークになるような建築物がないので、遠くが見えてもそんな気がしない、ということだろう。
東と西の窓からは、家よりも緑が多いな、と思うくらいで、そうたいした眺めではない。だが、北はちょっと違った。
下に道が一直線に通り、その先に聖マルコ教会が見える。屋根に二つの紋章が描かれている。左はクロアチア・ダルマチア・スラヴォニア王国の紋章、右はザグレブ市の紋章。それが色瓦によるモザイク模様なので、まるでおもちゃのようなのだ。
塔を下りて、その教会を見に行く。狭い小路を北へ。その先にあるチリロメトドスカ通りと鍵型にずれているが、これは塔から教会が見えるように、わざとずらしたのだろう。
その角のところに、"Museum of Broken Relationships"という大きな垂れ幕をぶら下げた建物がある。女たちは物の見事にそれを無視して歩く。
"
その脇を通り過ぎて、教会前の広場へ。石畳の先に、白い壁で、モザイク模様の屋根の小さな教会。写真を撮っている観光客がいる。確かに絵になる。
屋根は傾斜しているのだが、その角度が急なので、塔の上から見下ろした絵柄と、地面から見上げている絵柄に、さほどの違いがない。
女たちは、ここでも写真を撮らない。しかし
「あ、ええ、組み立てブロックの」
「この屋根は、あれで作るのにちょうどいいと思うんだ」
「……ああ、モザイクの単位が大きいからですか? 言われてみれば、そうかもしれません。あのブロックの特徴である、丸い突起もこの屋根にありますし……」
「それとも、君なら刺繍で作るか」
「刺繍は得意ですから、やろうと思えば……あの、どうして私が刺繍をするのを、ご存じなのです?」
顔半分だけだったのが、身体まで振り向かせながら、まじまじと俺を見上げて訊いてくる。
「得意かどうかまでは知らなかったが、以前船で会った時に、綺麗な刺繍の付いた服を見たのでね。ウクライナでは刺繍が盛んなんだろうと思ったんだ」
「そうでしたか。あの時のことを、そんなによく憶えて……」
いやあ、そんなに照れることないと思うよ。君にとってはどれくらいの期間なのか知らないけど、俺には13週、たかだか3ヶ月ほど前だからね。
中を見ていくことになった。しかし見るのはたぶんステンド・グラスくらいだろう。やはり祭壇の奥と、両脇にあった。絵柄はよく解らない。こういうのは抽象画として眺める方がいいと思う。
教会を出て、さてどこへ行くのか。“石の門”なら東だが……
「グリッチ・トンネルを見に行きましょう。この台地の下を通る歩行者用のトンネルよ。観光客にも人気ですって」
元は大戦中に
21世紀になってから
という概要だけを
そこから階段で西へ下りて行く。広い通りに出たが、それがどうやらメスニチェカ通りらしい。階段のすぐ脇に、石造りの
「さあ、行きましょう!」と
俺とティーラをペアにしようとしている。
おそらくティーラの気持ちを汲み取ってのことだろうが、
もちろん、俺がティーラに靡いたりしないという絶対の自信があるのだろうし、俺もそれを裏切らないのだが、複雑なものを感じる。
それとも、マルーシャが依頼したのだろうか。いつのタイミングで? 俺が3人から目を離したのはケーブル・カーに乗っている間だけだ。1分にも足りない間に、そんな相談ができるわけがない。
あるいは、列車で二人のコンパートメントへ
いずれにせよ、ティーラと並んで歩くことくらい何でもないのだが、ここぞとばかりに優しくしてやったものかどうか……
待てよ。
ニュー・カレドニアで、マルーシャから言われたな。「ティーラよりもメグを愛しているという意思表示をして」「ティーラに未練があるかのように振る舞わないで」。
つまり俺はティーラを一人の淑女として尊敬し、大切な友人であるという立場で接すればいいわけか。それも曖昧で難しいけどなあ。
しかし話しかけた方がいいだろう。ただ、この場と何の関係もない話をしても戸惑わせるだろうから、まずはトンネルのことから。
「100年も前に作られたというのに、ずいぶんしっかりしているな」
壁を触りながら呟いてみる。コンクリートが吹き付けられ、滑らかだ。トンネルの断面は裾が広がっていて、卵の尖った方を上にして半分に切ったかのよう。
「そうですね。元は
「こういう暗いところは怖くないのかい」
「あら、とても明るいですわ」
天井に5、6ヤードおきにLEDライトが付けられ、確かに明るい。もちろん保安上の都合だろう。ただ、もう少し暗い方が人道用トンネル“らしい”という気がしないでもない。
「フロリダ州はほとんど平坦だから、トンネルがないんだ。最高峰がアラバマ州との間にあるブリトン・ヒルで、345フィート……105メートルしかない」
「そうなのですか。私の故郷のポルタヴァも概ね平坦でトンネルはないと思いますが、最高地点がどこだかなんて気にしたこともありませんわ」
「しかし、君の親戚が住んでいるオデッサには、確か地下道が掘られていて……」
言ってしまってから、まずい、と思って口を閉じた。いや、もう遅いかも。
「オデッサには確かに私の伯母が住んでいますが、どうしてご存じなのですか?」
やはり気付かれた。ごまかすしかないが、矛盾が生じないように注意しないと。
「君の姉さんから聞いたんだ。オデッサには出張で行った。財団の研究所があってね」
「そうだったのですか。私と姉も年に一度はオデッサへ行きますが、姉にでもお知らせくだされば、時期を合わせることもできましたのに」
いやあ、ばっちり合ってたんだよ。もちろん、会ったのは君でもないし、マルーシャでもないんだけどね。
第一の分岐が右へ分かれていく。トンネルの見取り図が壁に貼ってあり、"Art Park"へ出られる、とある。
「君のピアノがプロに近い腕とは聞いていたが、デビューできておめでとう。クルーズではポップ・ソングしか聞いていないが、きっとクラシックを弾くんだろう。何か得意な曲は?」
「そうですね……得意ではありませんが、思い入れのある曲は、ベートーヴェンの『ピアノソナタ第23番』です。『
「うん、もちろん。後半になるとどんどん“
オデッサで聴いたよ。君の素晴らしい演奏をね。話がちゃんとつながっているので、うっかり口を滑らせそうになる。
「音楽データを持っていますので、あなたの
「俺は持っていないから、後で
第二の分岐。"Tomić Street"はトミチェヴァ通りのことだろう。ケーブル・カーの乗り場の近くへ出られるに違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます