#18:第5日 (5) ザグレブ観光 (2)

 少し先へ行くと、トンネルの天井が高く、幅が広くなった。ちょっとした広間になっている。もちろん、防空壕ボム・シェルターなのだから、ここが避難場所として計画されたのだろう。ただし町の人全員が入るには狭すぎると思う。金持ちだけが入れたのか、それとも信心深い人だけか。

 閉じ込められた無聊を慰めるための絵が描いてあるわけでもなく、さっと見て先へ進む。第3の分岐が分かれる。さて、ティーラと何の話をしよう。我が妻メグとマルーシャは何の話をしているのだろう。

「ウィーンの後はどこへ?」

「ドイツ、ベルギー、フランス、イタリアを回る予定なんです。でもかなり余裕のあるスケジュールで。途中で2度、今回のように、1週間近い休養を挟むことになっているんです」

 それは羨ましい。俺は6週間休みなしで頑張らないと休暇ヴァケイションがもらえないんだ。

「誰が立てたんだろう。君自身、それとも君の姉さん?」

「いいえ、ピアノ曲集をリリースしてくれた音楽出版社です。ただ、姉がいろいろアドヴァイスしてくれました」

「マネージャーは付かないのか」

「随時連絡は取れますが、現地には来てくれません。私自身で興業主と打ち合わせするんです。ウィーンだけは姉がよく知る人だったので、手伝ってくれましたが、その先は私一人です」

「大変だろうから誰か雇うことを考えた方がいいよ」

「今回のような演奏旅行が、そうたびたびあるわけでもないですから、何とかしますわ。1年の半分が演奏旅行になったら、考えます」

 健気なものだね。おとなしくて引っ込み思案な性格なのにさ。まあ俺も仮想世界の中の旅をビッティーのサポートだけで何とかやってるし、ティーラもこのステージが終わったら当分出番はないだろうから、その間は「ポルタヴァで無事に過ごしている」「時々演奏会コンサートに行っている」という設定なのだろう。

 第4の分岐が分かれ、先に出口がはっきり見えてきた。ところで、人道あるいは観光用に供しているというのに、ここまで誰ともすれ違わなかったのはなぜだろう。そんなにも需要がないのか。

「合衆国に来てくれたら、必ず聴きに行くよ。ニュー・ヨークでもロス・アンジェルスでも」

「ありがとうございます。必ず招待券を送りますわ」

「それとも、財団の研究に協力して欲しいという要請を出したら来てくれるかな」

「オデッサ研究所のようにですか?」

「もちろん、それとは違うテーマになると思うけど」

「ぜひ協力したいですわ。……そういえば、姉は合衆国から招待を受けていましたが、私の演奏旅行があるからお断りしたのだったと思います」

「財団から? それともオペラの舞台?」

「いいえ、ナショナル・フットボール・リーグからと言っていました。2月の中頃に、1日だけなのですが……」

 何、それ。どうしてNFLがオペラ歌手に招待状を出すんだよ。2月って、スーパー・ボウルだろ。

 それとも諜報員として? FBIが犯罪者に「チケットが当たった」って偽の案内を出して、引き取りに来させて逮捕、っていうのをたまにやるけど、それとは違うよなあ? ウクライナの諜報員を捕まえてどうするんだよ。やっぱりオペラ歌手としてだろ。だったらなぜ。

 ……まさか、ハーフ・タイム・ショーのため? それともゲーム前の国歌斉唱のため?

 どっちにしろ、前代未聞のオファーじゃないのか、それは。

「君が演奏旅行中じゃあ、しょうがない。しかし近いうちに来てくれることを望むよ」

「ええ、私も合衆国はぜひ行ってみたいですわ。それに、日本も」

 なぜここで日本が出てくる。もしかして招待を受けたのか。日本人はティーラのような容姿の美女が好きだもんな。しかし近隣の他の国と組み合わせられなくて行きにくいのだろう。東洋には先進国が日本しかないから。

 さて、トンネルを抜けた。ラディチェヴァ通り。イェラチッチ広場の北西から延びる通りで、人が多い。台地の縁に沿って緩やかに曲がり、北に向かって上り坂になっている。周囲は土産物屋などの店舗が多いようだ。

「石の門を見に行きましょう」

 我が妻メグが言い、先頭に立って坂を上り始める。ツアー・アテンダント・モードが終わらない。しかしマルーシャだけでなくティーラにも話しかけるようになった。俺は楽になった。

 ただ、後でもう一度くらい二人きりにされそうだから、何を話すか考えておかねばならない。もちろん雑談ではなく、ターゲットのヒントだ。ダルメシアンをたくさん見かけなかったかい、とか。

 唐突すぎると戸惑わせるので、何かきっかけが欲しいところだが、こういう時に限って犬を連れて散歩している奴はいない。まあ犬の散歩は昼間にするものではないし。

 150ヤードほど坂を登り、左へ階段を折れると、石の門。かつての城壁内へ入るための門なので、建物の中を通り抜ける短いトンネルだ。ベオグラードの要塞の門と同じ。

 中で90度曲がるようになっている。小さな礼拝堂があり、聖母マリアのイコンが飾られている。町の人は出入りするたびに祈りを捧げるのだそうだ。

 このまま真っ直ぐ行くとさっきの聖マルコ教会があるのだが、それより手前、最初の四つ辻の左手に、薬局がある。これがザグレブで最も古い薬局だそうだ。グラドスカ・リェカルナ。「市の薬局」の意。創業1355年。

 とはいえ、買う物はないし、ここ以外にはほとんど見るものがないので、引き返して門を出てしまう。

 また少し坂を登り、右手の路地へ。階段を下りるが、このままどこかの家の裏庭に入って行きそうに思えるほど狭い。ただ、下りる前、後ろから来るティーラに手を差し伸べて、「危ないから手をつないであげよう」と一言。

 ティーラははっとした表情になったが、すぐに柔らかな笑顔になって「ありがとうございます」と手を差し出す。握ると、指が細く長く、肉が少なくて硬い手だった。ピアニストだから、当然だ。

 庭へは迷い込まず、無事、下の道に到着。さらに別の路地を抜けて、トカルチチェヴァ通りへ。急に人通りが増えた。戸外席オープン・エア・シートと、それを覆う屋根がひたすらたくさん見える。

 要するに、レストラン、カフェ、バーなどが建ち並んでいるわけで、賑やかなはずだ。他にも、ハンバーガー屋、ピッツェリア、アイスクリーム・パーラーなど。

「元はここに川が流れていて、西側のグラデッツと東側のカプトルは別の町だったんです。それが合併してザグレブになった時に、埋めてしまってこの道ができたのですって」

 我が妻メグが解説してくれる。道の緩やかな曲がり具合も、たぶん川の名残なのだろう。通りを北へ歩いたが、200ヤードほどで石畳からアスファルトに変わり、その先は車が走っていた。そこから引き返す。

「どこかよさそうな店で、昼食にしませんか?」

 我が妻メグがマルーシャとティーラに言っている。しかし、彼女らしくない。普通なら「どこか」と言いつつ、候補を考えてあるはず。それが出てこないということは、ガイド・ブックに書かれた「よさそうな店」は気に入らないということだろう。

 だが、そういうことなら“料理センサー”マルーシャに任せておけばよい。俺が目で指示せずとも「どれくらいお召し上がりになりますか?」などとメグに尋ねてくれている。

「私とマイ・ハズバンドはコース料理でなくても結構なんです。マドモワゼルと妹さんは、普段はどのような……」

「私は状況次第なんです。時間があればゆっくりとコース料理を食べたいですし、時間がなければ一品物ア・ラ・カルトにして……ティーラは少食ですから、一品物ア・ラ・カルトが主体の店を探しましょう。通りをひとまず南の端まで歩いて、候補をいくつか選んでおくことにして……」

 どうぞどうぞ、という感じでマルーシャに任せる。

 ゆっくりと南へ。元の場所を過ぎて、もう200ヤードほど行ったら、マルーシャが右側に目を留める。

「この像は?」

 店と店の間の狭い緑地に、帽子を被って傘を持った女の像。かなり太った体型。顔もふくよか。我が妻メグがガイド・ブックを調べる。

「……マリヤ・ユリッチ・ザゴルカという人だそうです。クロアチアで最初の女性ジャーナリストで、作家。それ以上のことは携帯端末ガジェットで調べませんと……」

「あら、いいえ、それほど詳しいことが知りたいのではないんです。ただ、唐突にこんなところに建っていたものですから、気になっただけで」

 マルーシャがにっこり微笑んで、再び歩き始める。我が妻メグが調べるのをやめて付いて行く。さて、この像はなぜマルーシャのセンサーに反応したのだろう。気になったが、ティーラに犬のことを訊くきっかけにならない。

「君と、君の姉さんが食べる量は、どうして大きな違いがあるんだろうね」

 ティーラが少食なのは、一応知っている。メキシコ最終日に一緒に昼食を摂った。マルーシャの10分の1くらいの量で満足してしまう。

 しかし胸の大きさはマルーシャの8割くらいだろうか。食べた分の栄養が、とても効率よくそこへ行くようだ。我ながらつまらないことを考えている。

「解りませんわ。でも私、姉が言うほど少食ではないんです。人前で緊張していると食べられませんが、家族との食事なら人並みには……」

「なら、今日は普通に食べられるか。俺やマイ・ワイフの前では緊張しないだろう?」

「ええ、そう思いますわ」

 よし、また「マイ・ワイフ」と言うことができた。ティーラも自然に受け止めている。「でも姉がどんな料理の店を見つけるかにもよりますが……」とか何とか言っている間に、マルーシャがまた右側を見た。今度こそレストランだろう。トカルチチェヴァ通りはすぐ先で終わりで、もうあと100ヤードほどでドラツ市場に突き当たるはず。

 そこは右手に入る路地との三叉路で、路地の先には奇しくもグリッチ・トンネルの口が見えている。そしてマルーシャが見つけたレストランは『オール・セインツ』という名だった。

 こんなところで英語の名前のレストランを見つけるとは畏れ入ったが、見た目は明らかにバー。そして"TAPAS & CANAPES"の文字。タパスはスペインの前菜、カナッペはフランスの前菜で、要するに、そういう“おつまみスナック”的なものを食べながら酒を飲むところだろう。

 いいのか、ここで。いや、我が妻メグさえよければ、俺はどこだって構わないのだが。

「いろんなものを少しずつ、好きなだけ食べるのですね! きっと楽しいと思いますわ」

 我が妻メグは喜んでいる。入って、4人掛けに座らせてもらい、18種類あるタパスを一つずつ頼んだ。どれも一口サイズが三つずつ。余ることはないだろう。マルーシャが平らげてくれるに違いない。

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