#18:第5日 (3) 計画的遭遇

 朝食の後、いったん部屋へ戻り、荷物をまとめ――既にほとんど我が妻メグが済ませていた――ロジスティクス・センターへ送る手続きをする。俺の手提げ鞄、我が妻メグのキャリー・バッグも含めることにする。そしてチェックアウト。これで俺は財布とパスポート、我が妻メグはハンド・バッグだけで観光へ出られる。

 当然、ドゥブロヴニクへ行くための持ち物もそれだけ。国内の移動だし、向こうへ着くまで何も困ることはないだろう。

 ついでに路面電車トラムのチケットを買う。シェラトン電停からは13系統に乗る。これがというのがポイント。遠回りだが、中央駅前を経由してイェラチッチ広場へ行ける。

 ちなみに他に4系統と8系統が通るが、4系統は東のマクシミール公園、8系統は北の山際へ行ってしまい、イェラチッチ広場は通らない。どちらかに乗り、ドラシュコヴィチェヴァ電停で降りて歩く、というのも考えられるが、途中によさそうな通りや建物があるわけでもない。

 10分で広場に到着。東西200ヤード、南北50ヤードほどか。平らな石を敷き詰めた、本当に単なる広場スクエアという感じ。中央北寄りに、名前の元になったバン・ヨシップ・イェラチッチの騎馬像が建ち、東の端の方に小さな噴水がある。

 どこかの広場もそうだったが、ここも名前の変遷が激しく、最初は“マンドゥシェヴァツ”と呼ばれた。実は噴水の名前。元は泉であり、今も下から水が出るそうだ。その昔、戦地から戻ってきたイェラチッチが、泉のほとりにいた娘に水を「汲んでザグレビ」と頼んだのがザグレブの名前の由来であり、娘の名がマンダであったという。

 広場の名は後に“調和ハルミカ”に変わり、さらに“イェラチッチ広場”“共和国広場”と来てからまた“イェラチッチ広場”に戻ったという次第。

 そういう説明を我が妻メグに聞きながら、辺りを見回す。ここから北側が旧市街、南側が新市街なのだが、周りの建物に特徴があるわけでもない。ほとんどは近代的な4階建て。南西に一つだけ抜きん出て高いのがあるが、あれはカジノだそうだ。寂れた外観から、とてもそうは見えないが。

 さて我が妻メグよ、まずはどこへ。

「ドラツ市場へ行きましょう。元々、市場はこの広場に立っていたのを、いろんなところへ分散して、ドラツ市場もその一つなの」

 広場の北西角あたりから短い路地を通っていけるのだが、路地に赤い大きな傘が立ち並んでいる。この傘の下が店。路地の先は50ヤード四方くらいの広場になっていて、そこにも傘が立ち並ぶ。ざっと100本くらいか。

 主に農産物と畜産物を売っている。野菜、果物、肉、ミルク、チーズ、クリームなど。干しイチジクドライ・フィグ我が妻メグが目を輝かす。蜂蜜、オリーヴ・オイル、ハーブ・ティーもある。

 周りの建物も店。食べるところもある。平日の朝からビールを飲んでいる奴がいるのだが、羨ましくも何ともない。

 そういえば仮想世界のどこかでこんな市場を見た記憶が。どこだ? 確か山奥の小都市……

 何だ、オウロ・プレットだ。ゲームの中だよ。思い出さなくてもよかった。

 一通り見て回ったが、何も買わず、市場の北東の隅から出る。東へ行くと、ザグレブ大聖堂。正式名は聖母被昇天大聖堂。ファサードはネオゴシック様式。二つの尖塔を持ち、高さ105メートル。クロアチアで最も高い建物であるらしい。

 クロアチアで? ザグレブで、じゃなくて?

「だって人口が60万人を超えているのはザグレブだけで、他は20万人以下だもの。高い建物は必要ないでしょう?」

 そういうものか。まあ無用に高いビルディングを建てるのは、先進国になりきれない中途半端な国だけだからな。それにこの辺りは地震が多いから、せっかく建てても壊れてしまう。現にこの大聖堂だって、25年ほど前の地震で尖塔が損壊したらしい。

 中を見る。ただし目的は祭壇奥のステンド・グラスくらい。当然のように聖母マリアが描かれているが、その寓意は特に考えず、すぐに見終わって出る。

「こっちの壁に」とメグが言う。大聖堂前の広場の、北側にある壁へ。

 壁に時計? 7時3分で止まっている。1880年の大地震で損壊した時計塔の文字盤と針を埋め込んであるのだそうだ。

 路地を南へ。イェラチッチ広場の北東の隅に出る。噴水を見てから西へ。路面電車の走るイルツァ通りを歩く。そういえばこの辺りの区間について研究所で話を聞いたんだった。我が妻メグにも少しだけ話す。

「利用者が多いからといってたくさんの系統を通すのは考えものね。混乱の元になると思うわ」

 我が妻メグが至極当然の感想を漏らす。元コンシエルジュだけに、“案内”に関して考えるところがあるのだろう。

「ではどうすればいいと思う?」

「一つの電停を通るのは三つかせいぜい四つの系統に絞って、乗り換えを便利にすればいいと思うわ」

「乗客の流動データを入手したら、君が系統を考えて式を立ててくれる? 俺がシミュレイションするから、連名で論文を書こう」

「それにはもうしばらくここに滞在して、街全体を理解する必要があるんじゃないかしら!」

 出張に付いて来るのが楽しいのは解るけど、こんな比較的見どころが少ない町にそんなに長く滞在したいかねえ?

 それとも我が妻メグはこれくらいの規模の町が好みなのだろうか。長く保養地のホテルに勤めていたし、ニュー・カレドニアも気に入ってたようだし、マイアミのような大都市は賑やかすぎるのかも。

 俺もマイアミよりはフォート・ローダーデイルの方が合ってると感じるけど。

 広場を出てから250ヤードほど歩き、狭い路地へ曲がる。トミチェヴァ通り。緩やかな上り坂になっていて、100ヤード先の突き当たりに田舎の郵便局のような、白い小さな建物が見えている。そのに線路と、坂を上り下りする青い箱。ケーブル・カーだ。

 この路地と、30メートル上のゴルニィ・グラード地区を結んでいる。線路長66メートル。斜度は52%。10分おきに出発し、料金は10クーナ。箱は28人乗り。乗車時間は約40秒。

 それでは早速乗ってみよう。写真? 俺はいい。我が妻メグを撮ってやろう。

「まあ、マドモワゼル!?」

 携帯端末ガジェットを構える俺の横を、我が妻メグが走ってすり抜ける。振り返ると、シャンパン色の髪の美しい女と抱き合っている。何、この既視感デ・ジャ・ヴ。このステージだけで2度目だ。

 そりゃあ、マルーシャとはベオグラードで別れたけど、いつかは来ると予想してたよ。ティーラ一人だけ先乗りしてるしさ。でもこのタイミングかよ。何も観光中に……アテネでも観光中だったか、そうか。

 もちろん、ティーラも横に控えている。余らされた者どうしで仲良くしようか。近付いていって、「ハイ、ティーラ」と声をかけ、手を差し出す。

「ハロー、ナイトさんミスター・ナイト……」

 多少興奮気味の表情で、手を握ってきた。ここで会うのは予想済みなのか、そうでないのか。ビズは……してくれないな。

「ウィーンへいらっしゃるとのことでしたのに、どうしてザグレブへ?」

「あそこはとても素敵な町ですが、ティーラには賑やかすぎたのです。ブダペストやベオグラードも考えましたが、もっと静かなところがいいと彼女が言いますし、私もクロアチアへは来たことがありませんでしたから……」

 それからマルーシャは俺にもビズ。アテネではしなかったのに。その間に我が妻メグはティーラとビズ。

「昨日の夜にザグレブへ来たのです。気に入ればしばらく滞在しますし、あるいはヴェニスへ行くかもしれませんが……ええ、もちろんお二人がいらっしゃることは解っていました。でも今日からドゥブロヴニクへ移動と伺っていましたし、まさか観光中にお会いするなんて」

 俺に向かって笑顔で言う。全然言い訳がましく聞こえない。ところで俺の腰に回した手はいつ放してくれる?

「ウィーンはどうなさるのですか? 週末にはピアノの演奏会コンサートがあると……」

「ヴェニスからウィーンは飛行機の直行便があるので、午前中に出れば間に合うんです。今回はそれくらい慌ただしくする方が、現地でじっと待つよりもいいと姉が言うので……」

「私の友人で、妹と同じように緊張しやすいピアニストから教えてもらったんです」

「まあ、どういうことでしょう?」

「友人はプロに成りたての頃、緊張のせいでうまく弾けずに悩んでいたのですが、たまたま交通事故に巻き込まれて演奏会コンサートに遅れそうになり、本番5分前に会場へ到着して、気持ちを整える間もなく無我夢中で弾いたら、とてもうまく行ったと。その理由を彼女は、何と言っていたかしら、ティーラ?」

「確か、間に合うかどうかばかり気にして、うまく弾けるかを全く気にしなかったから、却ってよかったのでしょうと。それ以来その方は、演奏会コンサート前に全く緊張しなくなったそうなんです」

 ああ、よくあるね。そういう、「頭を空っぽにしてやったらうまく行った」ってやつ。確かに心配しすぎはよくないよ。でもどうせ人に依るんだわ。不安による緊張を期待による興奮に置き換えられたら、それが一番いい。

 ところで、美女が3人集まって楽しげに話してるものだから、さっきから周りの注目を浴びてることに、気付いてるのかね。男が俺一人だし容姿のバランスが取れてないものだから、俺まで傍観者のような気分だよ。

「これからケーブル・カーにお乗りになるのですね? 上の旧市街を見に行かれるのなら、ご一緒しませんか?」

「まあ、とても嬉しいご提案ですわ! マイ・ディアー、いかがかしら?」

 我が妻メグが満面の笑みを見せながら俺に同意を求める。俺が拒否するとは露ほども思ってないだろう。もちろん同意するんだけど。

 マルーシャたちがチケットを買うのを待ってから、箱に乗り込む。座席は、長椅子が両窓際に1列ずつ。座れるのは12人くらいかな。発車5分も前に乗ったから座れたが、次々に乗ってくるので、俺は立つことにした。先頭で前を見るのが楽しそうだ。女3人は座って話している。

 定員オーヴァーではないかと思うくらいぎゅうぎゅう詰めに人が乗って、発車。こういう小さなケーブル・カーは前も乗ったことがある。どこかと思い出すと、オデッサだった。ティーラとも乗った。ここにいるのとは“別人”だけど。

 しかし、時間はもっと長かったと思う。3分くらいだったか。ここでは発車後、20秒でもう一つの箱とすれ違い、本当に40秒で上に着いてしまった。これこそ斜行エレヴェイターだ。

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