#18:第5日 (2) 観光計画 (M)

 この夜も、ティーラはなかなか寝付かれなかったらしい。

 ベッドに入ったのは12時前だったが、1時頃までは起きていただろう。何度も寝返りを打ち、ため息をついていた。私がЛエルの名を出したからに違いない。

 彼と会う機会は、今日一日しかないことになっている。いや、半日もない。彼らは午後からドゥブロヴニクへ、私たちは夕方からヴェニスへと向かう予定。

 ヴェニスでは木金と2日過ごし、土曜の朝にウィーンへ飛ぶことになっている。

 少なくとも、ティーラにはそういうことにしてある。

 もちろん、ヴェニスへ行く必要性はない。休養によさそう、というだけ。むしろ賑やかすぎるかもしれない。だからドゥブロヴニクでも一向に差し支えないのだ。

 しかし一度決めた予定を変えるには、理由が要る。できればティーラの希望がいい。しかし彼女はわがままを言うだろうか? 私は彼女に言わせることができるだろうか。

 それは、今のところ読めない。昼までの出来事次第。可能性はゼロではないが、低いように感じる。

 ティーラは、彼と同じ町にいるというだけで満足してしまっている。一目も会っていないのに。

 会えば気持ちが変わるだろうか? いや、会うことで今よりももっと満足して、それ以上を望まないかもしれない。そういう性格なのだ。

 もし彼女の気持ちを制御できなければ、非常手段を使うしかないが……

 なるべくなら、使いたくない。運命に任せよう。

 時計は6時。ベッドの上で身を起こす。横のティーラを見遣る。よく眠っている。

 今朝も偵察に出るつもり。だが、少しだけにしよう。夜明け後、7時半には戻ることにして、ティーラにメッセージを残していく。

 起きて、音を立てないように手早く着替え、外へ。ヒルトンの前、昨日と同じ位置で見張りを開始する。

 Лエルは7時頃にシェラトンを出て、3分後にそこの角を曲がってくる

 アルテムは、それより早く出てくることはないだろう。リタに接触するのが目的なら、Лエルよりも早くする必要がない。

 カミール・シャイフを見張れないのは惜しい。しかし、妹のアヤンをうまく使うことができたかもしれない。彼女が一人で出歩くのは、兄がいない間だけなのだから。

 しかし、今日は彼らも移動するだろう。その目的地を決めるための調査を、既に終えているはずだから、今日の見張りは不要。どこへ行くかをアヤンから教えてもらうことくらいは、できたかもしれないが……

 もう一人、タリア・マイモンはどこに。昨夜遅くザグレブに着いて、ヒルトンでも泊まっていてくれれば、と思うが、そんなまれな偶然は期待しない方がいい。探す努力をするべきだろう。しかしその暇は午後までなさそうだ。

 Лエルとリタが来た。昨日と10秒も違わない。無意識のうちに、時計に従って行動している。中央駅の方へ行く。

 10分後、アルテムとソフィアがヒルトンから出て来た。後を追う。

 が、意外なことが起こった。トミスラヴ王クラリ・トミスラヴ広場で、二手に分かれたのだ。アルテムは広場の西の道へ、ソフィアは東の道へ。アルテムは、騎馬像の前で準備運動をするЛエルとリタを避けるように迂回して。

 私はどちらを追うべきだろう? 当然、アルテムだろう。躊躇してはいけなかった。Лエルとリタに気付かれないよう、私も迂回して、広場の西へ。電停の横で路面電車トラムが通り過ぎるのを、少しだけ待つ。アルテムの姿が、西の歩道の並木に隠れた。

 ところが、姿が見えなくなったのは一瞬と思っていたのに、私は彼を見失ってしまったのだった。

 広場の西には、路面電車トラムの走る通りがある。通りの西側には、民家や商店が建ち並ぶ。B&Bのような安っぽい宿もある。彼はそのどこかへ入ったのだろうか?

 広場の内側を確認する。いない。であればやはり、建物の中か。

 私が追っているのに気付いたのだろうか? なぜ身を隠さなければならないのだろう。それとも、彼が私を追おうとしているのか。

 このまま歩道を行けば、前からЛエルが走ってくる。私に気付くかもしれない。通りを渡り、建物の側の歩道へ避ける。ほどなくして、Лエルが駆け抜けていった。

 アルテムはどこにいるのか。しかし私は、彼の気配も視線も感じることができなかった。

 これほど巧みに尾行を撒かれたことは、久しくなかった。この仮想世界では。

 彼はキー・パーソンだろうか。競争者コンクルサントだろうか。それとも私の思考を乱すための、ダミーのNPCだろうか。この世界の観察者が、送り込んできた……

 通りを北へ歩く。ソフィアを探す。行き先の想像は付いている。公園の北西の交差点に出て、芸術のパヴィリオンウミェトニチェキ・パヴィリョンを見る。入り口の前の階段に、ソフィアが座っていた。アルテムを待っているのか、それとも?

 不意に、背後に人の気配を感じた。それを避けるために、交差点を北へ渡った。不自然にならないよう、少し歩いてから、そっと振り返る。交差点にアルテムがいた。通りを西へ渡り、図書館の方へ行ったようだ。

 ようやく私は、アルテムが視界から消えた理由を理解した。彼は公園の西の歩道を行かず、すぐに通りを西へ渡ったのだ。そこへ路面電車トラムが通りかかり、私の視界を隠した。

 その間に、彼は一筋西の通りへ行き、北へ上がり、東へ折れてさっきの交差点に現れたということだろう。

 西の歩道を行かなかったのは、前からЛエルが来ると、気付かれてしまうから。つまり私と同じ理由だった。通りの西側へ避けるだけでは不十分と考えたのか。

 そして彼は、そこで何を?

 たぶん、通りの向かいに座っているソフィアに、何らかの指示を与えようとしているのではないか。

 私はアルテムを見張る代わりに、ソフィアの動きを見ることにした。

 だが、しばらくは何事も起こらなかった。動きが現れたのは、彼女の前を、Лエルが何度目かに通りがかった、その後。

 彼女は素早く階段の陰に隠れた。何のためか解らなかったが、そこへ西の歩道からリタが走ってきた。

 彼女がパヴィリョンの前を通り過ぎ、東の歩道へ消えてしばらくすると、ソフィアは現れて、階段に座った。

 しばらくしてまたЛエルが通り過ぎるのを見届け、リタが来る頃になると、隠れた。

 Лエルには姿を見せ、リタからは隠れる。アルテムの指示でそうしていることは判ったが、何のために?

 気が付くと夜が明けて、7時半を回っていた。ティーラとの約束を破ってしまった。退散するしかない。

 アルテムに見つからないよう、図書館の北を通る。マティツェ・フルヴァツケ通りに運よくタクシーが停まっていたので、乗せてもらってヒルトンへ戻った。

 部屋に入ると、ティーラはちょうど起きたところのようだった。7時45分。

「まあ、マルーシャ、出掛けていたの?」

「ええ、朝の散歩に。あなたはよく眠っているようだから、起こさなかったの。ごめんなさい。メッセージはまだ見ていないのね?」

 テーブルには私の書き置きが載ったままだった。それを取り上げて、脱いだコートのポケットに入れる。

「見ていないわ。あなたが入ってきた音で起きたのよ」

「そう、では心配をかけたのではなかったのね。顔を洗ってらっしゃいな。着替えて、すぐ朝食に行きましょう」

「ええ、でも昨夜の夕食が遅かったから、まだお腹が空いていないわ」

 ティーラは浴室に消えた。彼女は朝は特に少食なので、前夜何時に食べようとも、たいてい「お腹が空いていない」のだ。

 身支度が調うのを待って、レストランへ。シェフがオムレツを焼いてくれるので、それをいただく。アスパラガスとベーコンが入った“フリタヤ”だった。「大きいのが欲しい」と言うと、シェフは一瞬戸惑ったようだが、二つを同時に焼いてくれた。重たい皿を受け取る。

 それからパンとペイストリーを取る。ブレク、オラフニャチャ、ポガチャ、シュトルクリ、ポヴィティツァ……

 もちろんイチジクのジャムは外せない。

 ハムやベーコンやチーズも一通り取って、ティーラと向かい合って座る。ティーラが私の皿を見て、いつもながらに楽しそうな顔をする。

「マルーシャ、あなたのお皿を見ると、その国の料理の特徴が一目でわかるわね。アテネでもそうだったし……」

「お国柄を知るには朝食が最適なのよ」

 ティーラの皿にはクロワッサンとフルーツしか載っていなかった。

 食べながら、この後の観光の道順をティーラに考えてもらう。しかし見どころとなる旧市街地は狭い。イェラチッチ広場を起点とすれば、誰が考えても自ずと同じになるはず。唯一、大聖堂だけがルートから除かれるくらいだろう。彼女は既に見てしまったのだから。

「マルーシャ、あなたがお薦めの見どころはあるかしら?」

「私もザグレブに来たのは初めてだから、どことも言えないわ。ただ一つだけ、絶対にお薦めしないところが」

「それは?」

「ムゼイ・プレキヌティフ・ヴェザ。壊れた関係の博物館。失恋の記念品を集めているんですって。個人が始めたものだけれど、たくさんの人が見に来て、今では世界中から展示して欲しいという品が送られてくるそうよ」

 場所はロトルシュチャク塔のすぐ近く。ケーブル・カーで登れば、間違いなく横を通るはず。ティーラは「それは避けたいわね」と曖昧な笑顔で言った。

「失恋の記念品は手元に置いておきたくないけれど、人を愛したことの記念品があれば」

「例えば出会いを記念したような?」

「ええ。でもあのクルーズの時には何もなくて」

 ティーラは彼と一緒にお茶を飲んだり、教会や景色を見に行ったりした。その時に何か受け取っていれば、記念品になっただろう。だが、何もない。

 私は彼にオリンピックの記念コインを渡したが、それは記念品にはならない。

「ではここで何かいただくことにすれば。再会の記念でも構わないのでしょう?」

「ええ、でもそんな厚かましいことをお願いするのは……」

「確かに一方的はよくないわね。ではこうしましょう。あなたは楽譜にサインオートグラフをして彼に渡す。彼からは論文にサインオートグラフを入れてもらっていただく。あなたもプロのピアニストになるならサインオートグラフを描けるようにならなくては。まだ描いたことがないでしょう? その最初のものを彼に渡すことができれば、それも大きな記念になるわ!」

「まあ! それは確かに素晴らしいことだわ。すぐに練習をしないと……楽譜は、列車の中で弾いたあの曲にすればいいわね。でも彼は論文を持ち歩いているかしら?」

「国際学会の帰りですもの。きっとお持ちだわ。心配なら、財団のデータベースからダウンロードして、印刷して持って行きましょう」

「まあ、そんなことができるの。ええ、お願いするわ」

 もちろん普通は梗概レジュメしか入手することができないけれど、私はカナダとギリシャで彼の論文を手に入れている。後でティーラに好きな方を選んでもらうことにしよう。

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