#18:第3日 (6) 朝の中央駅
目が覚めたは10時だった。慌ててベッドから身を起こす。カーテンの隙間から、明るい光が射し込んでいた。まさかこんな時間になるとは。
もちろん、4時過ぎまで起きていたせいだろう。寝る前にシャワーを浴びて、ハーブ・ティーを飲んだけれど、なかなか寝付けなかった。二日連続だ。昨日は列車に乗っていたからと思っていたのに、なぜ今朝もなのか。
やはり、あの方と同じ町にいるからだろうか。目を閉じてからも、あの方のお顔が目蓋の裏に何度か現れた。それを消すことができなかった。
マルーシャが横にいれば? いいえ、列車の中ではマルーシャがすぐ上にいたのに、同じだった。どうすれば、気にしないでいられるのだろう。それともそれは、もはや無理なのだろうか。私の目だけでなく、心にも、あの方が焼き付いているからか。
とにかく起きて、マルーシャとの約束を果たさなければならない。アルテムに似た男性……
朝食の時間を利用して、と思ったが、もう遅すぎる。早く行かないとビュッフェが終わってしまう。食べなくても、昼までならお腹は保つと思うけれど……
起きて、顔を洗って、着替えて、化粧をして。部屋を出てレストランへ行く。ほとんど人はいなかったのに、なぜか
運がいいと思ったけれど、何となく近付きがたい。他に人がおらず、寂しいので……という理由で話しかけてもいいのに。同じウクライナ系だから、そうしやすいはずなのに。
けれど私は実行しなかった。すぐに昼食を摂ると思うので、食べるものは少なめにする。クロワッサン、フルーツを少し、紅茶。紅茶の香りが、私を落ち着かせてくれた。
あの二人の方が先に食べ終わって、レストランを出て行こうとする。しかしなぜか女性が私の方へ寄ってきて、「
「何でしょうか?」
「あなたはウクライナの方ですね? お名前を教えて下さいます?」
ウクライナ語で、「ウクライナの方ですね?」と聞くのもおかしなものだわ、と私は思った。通じなかったら、彼女はどうするつもりだったのだろう?
「エステル・イヴァンチェンコです。あなたは?」
「ソフィア・ルスリチェンコです。突然のことで、お気を悪くなさらないで。列車の中から気になっていたので、声をかけたくなったんです」
「いいえ、気を悪くすることなど何も。あなたはどちらのご出身ですか?」
「ハルキウです。あなたは?」
「ポルタヴァです。隣の州ですね」
「まあ奇遇なこと。こちらへはお仕事で?」
「いいえ、静養です」
「お一人で?」
「ええ、そう」
「私もそうなんです。これから観光に?」
「ええ、もうしばらくしてから」
「私もこれから出掛けるのですが、今夜もここにお泊まりですか? もしよろしければ今夜の夕食をご一緒にいかがです?」
驚いた。どうして彼女の方から誘ってくるのだろう。だが、今夜はマルーシャがこちらへ来るか、私がウィーンへ行くことになるはず。いずれにしろ約束はできない。
「残念ですが、先約があるんです」
「そうですか。ではごきげんよう」
「よい一日を」
彼らがレストランを出て行くのを、視線だけで見送る。ふと、頭に疑問が湧く。彼女は私が静養ですと答えたのに対し、「私もそうなんです」と言った。「私たち」ではないのか?
彼女と
他人なのに、そのようなことがあるだろうか? あるいは列車の中で急速に親しくなったのか?
彼らと一緒に食事しながら話をすれば、それが判ったかもしれない。マルーシャからの依頼にも添えただろう。けれどそれでは接近しすぎではないか。
マルーシャは彼らに、特に
町へ出掛けるなら、どこへ行ったか知るだけでいい。じっと見張っている必要はないと。
であれば、例えばホテルの出入りに気を付けて、挨拶がてら何をしていたか、する予定か、訊くくらいでいいのだろう。
先ほどは幸運にも、ソフィアの方からそうしてきたけれど……
彼らは、出掛けると言っていた。私そろそろ行くことにしよう。幸いにもザグレブは見どころが少ない。旧市街地へ行けば、彼らに会う可能性が高い。もし観光でないとしたら? それは彼らが観光をしなかったということになる。それが判るだけでも十分ではないか。夕方まで出掛けて、マルーシャに報告することにしよう。
旧市街地へ行くなら、ホテルの前の電停から、6系統に乗ればいい、とコンシエルジュに教えてもらった。しかし私は、まず未明に下りた中央駅を見に行くことにした。
私の故郷のポルタヴァでは、駅は町の外れにあり、規模はさほど大きくない。しかしここでは町の中心に近く、下りた時の印象では立派な建物だったように思う。それに駅前には広場もあったようだ。昼の光で見てみたい。
ホテルの前の道を西へ。
思ったとおり、立派な駅舎だった。意匠はおそらく
中に入ってみると、未明の暗がりとは全く印象が違って、上部の窓から射し込む光で、ドーム式の吹き抜けが明るく照らされていた。焼き菓子のスタンドがあり、美味しそうな匂いが漂っていて、朝食を終えたばかりなのについ買いたくなる。
駅舎を出て、正面の広場を眺める。
その前を見憶えのある顔が通り過ぎて、ハッとする。
広場の前を通り過ぎて、西へ歩いて行く。
噴水のある広場の横を過ぎ、エスプラネードの前を行く。そういえば未明に駅で降りた、アラビア系の二人がここに泊まっているのだった。彼らは今頃何をしているだろうか。
次の交差点を過ぎると、左手が緑の森になる。地図によれば、植物園。立ち並ぶ高い木は、北国のものに見える。鉄柵が載った煉瓦塀沿いに歩くと門があり、二人はそこへ入って行った。
まさか、真冬に植物園を訪れるとは。
それとも観光ではなく、仕事なのだろうか。
私まで入る必要はないだろう。植物に興味があって来たわけではない。無用に園内を歩き回り、二人と出くわすのは気まずい。門の前を通り過ぎ、国立公文書館の前まで来た。
この後、どうしようか?
もちろん、最初から考えていたとおり、旧市街地へ行ってもいい。少し先に電停があり、そこから乗ればイェラチッチ広場に行ける。
だがこの近くには美術館もあるし、国立劇場もある。劇場は中に入れないだろうが、外観を見てから、美術館へ行ってもいいのではないだろうか。
どういうわけか、旧市街地を一人で見たくない気分なのだ。誰かと一緒にいればいいのに、と思う。
それがあの方でなくてもいい。マルーシャでも……あるいはあの方の奥様でも。
奥様は、即ちミセス・マーガレット・ナイトは、私の気持ちをよく解ってくださる気がする。ほとんど話したこともないのに、なぜ私はそう思うのだろう……
昼過ぎに散歩からホテルへ戻り、ラウンジでコーヒーを飲みながら待っていると、研究所からの迎えが現れた。
聞いていたとおり、女。若い。新人じゃないのか。「セヴェリナ・ユリチェヴィチです」と明るく自己紹介。栗色の長い髪にアーモンド型の大きな目が売りと心得ているようだ。笑顔も堂に入っている。
しかしこういうタイプは実のところ、元気と度胸が強みで、時々うっかり失敗をやらかすものの、周囲からは何となく許してもらえる、という感じではないだろうか。
「ホテルから聞いたのですが、列車の到着が大幅に遅れてお部屋に入ったのが未明とのことでした。睡眠時間は足りてますでしょうか?」
一応、そういう気遣いはできるんだ。あるいは迎えに来る前に、誰かから入れ知恵されたのかもしれないけど。
「列車の中でも少し寝たし、もう昼だから何の問題もないよ」
もちろん俺の隣にいる
「クレタへも同行されたと伺っていましたが、こんなお美しい奥様だったなんて!」
そんなところまで褒めろと言われてきたのかよ。褒められて当然だから嬉しくも何ともないよ。一応、嬉しそうな態度は見せるけどさ。
「研究所までは
「もちろん。公共交通機関に乗るのはいいことだ」
じゃあ行ってくるよ、となるのかと思ったら、
「もちろん、研究所の前で引き返すわ。でも乗っているだけで町の景色が見られるし、いろいろなところへ行けるから楽しいと思うの」
「夕方までお乗りになるのなら、1日乗車券を購入された方が……」
「先ほど乗った時に教えていただいたんですけれど、運賃は時間制なんですってね。研究所までは25分ほど? 場所は……」
ところで、クロアチアの通貨について何も知らなかったな。クーナ。レートは、1ドルが7.5クーナ。ふむ、まあ計算しやすい方か。俺のチケットは、セヴェリナが既に買っていた。
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