#18:第3日 (5) 犬の散歩

 起きたのは9時だった。お楽しみを終えたのが確か4時過ぎなので、5時間も寝ていないことになる。ただ列車の中で少し仮眠をしたので十分だ、と信じる。現にそれほど眠く……いや、まだちょっと眠いか。

 我が妻メグはというと、これが偶然にもほぼ同時に起きた模様。2日連続の遅起きだが、気にしていない様子。移動日なのでこれくらいは仕方ない。明日からはいつもの時間に起きるだろう。

おはようモーニン」とキスで挨拶し、ベッドを出て朝の支度。俺が先に顔を洗い、次に我が妻メグ。今日着る服は既に準備されている。研究所訪問らしく、カジュアルだった。白のオックスフォード・シャツにグレーのカーディガン、黒のテイパード・パンツ。

 我が妻メグもカジュアルかと思いきや、なぜかインフォーマル。ダーク・グリーンのロング・ドレス。袖は七分。俺が研究所へ行っている間に、どこかへ出掛けるのだろう。もちろん止めるつもりもないしすべもない。ステージはまだ3日目だから、危ないことに巻き込まれる恐れはないだろう。変質者がいれば別だけど。

 ついでに我が妻メグの化粧の様子も見守る。前ステージから何度も見ているが、あまりにも簡単すぎて、つまらなくもある。もっとも、化粧をすると別人かと思うほど美しくなる……というのもおかしいと思うので、AがA+になる程度、というのは仕方ないのかもしれない。美人の特権だろうし。

 支度を終えたらレストランへ。まだビュッフェの時間帯だが、保温器チェイーフィング・ディッシュが下げられているところや空になった皿もある。月曜日だから利用客が少ないのか。もっとも、全種類食べたいというわけでもないから、主要な料理が残っていればいい。

 そしてこういう時の常として、我が妻メグが俺の食べるものをピックする。そんなことをしているペアは他にないのだが、我が妻メグはお構いなし。俺の栄養を管理するのは自分の仕事と心得てるからだろう。もしかしたらいつの間にか栄養士の資格を取っていたりするかもしれない。

 トーストとスクランブルド・エッグとサラダ。飲み物はオレンジ・ジュース。それにイチジクのジャム?

「とても有名なんですって。ファンシー・フード・ショウで何度も入賞してるそうよ」

 何だ、そのショウは。合衆国で毎年夏と冬の2回やってる食品見本市? 料理を作るTV番組ショウかと思ったよ。夏がニューヨークで、冬は西海岸のどこか。いや、そんな情報を教えてもらっても役に立つのかどうか。

 どれどれ。ふーん、素朴な味だね。イチジクはドライ・フルーツでしか食べたことがなかったが、ジャムにするとこういう味か。やみつきになる、という感じではない。

 そういえばオックスフォードで食べたマーマレードは何日か続けて食べてしまった。あれはおそらく生姜ジンジャーがポイントだったのだろう。

「他にクロアチアで有名な料理って何だい」

「あなたが朝から食事のことに興味を持つとは思わなかったわ」

 まだ調べてないと。メグにしては抜かってるな。

「今夜は夕食会だから、明日までに調べてくれればいいよ」

「一つだけは知っているのよ。ザグレバチキ・オドレザク。ザグレブ風カットレットよ。チーズとハムを豚肉で巻いて揚げたもの。きっと夕食会にも出るわ」

「名物で、揚げ物ならそうだろうな」

「クロアチアは大きく五つの地域に分かれていて、それぞれで料理にも特色があるのよ。中央部、スラヴォニア、イストラ・クヴァルネル、リカ・カルロヴァツ、ダルマチア。中央とダルマチアは後でちゃんと調べておくわね。ダルマチアはおそらく地中海系で、魚介類がおいしいと思うけれど」

「ところで君の皿に載っているデザートは」

「あなたがデザートに興味を持つとは思わなかったわ」

 嬉しそうに言うんじゃない。クレタ以来、君が甘い物を摂りすぎじゃないかって心配してるんだよ。

「食べないけど、教えてくれ」

「クレムシュニタ。カスタード・クリームをパイ生地で挟んだものよ。地方によって作り方が違うらしいけれど、これはザグレブ風」

 デザートのことだけはしっかり調べてるのか。マルーシャの影響……でもないよな。

「もう一つ、クラフナという揚げドーナツのようなお菓子があるけれど、これは明日にでも……」

 今食べてしまえばいいのに。どうせ別腹なんだろうから。

 先に俺が食べ終わり、我が妻メグがクレムシュニタとやらを食べるのを見守る。カスタード・クリームがどれくらい甘いのかがポイントだろうが、合衆国や、それをも上回るギリシャのレヴェルを超えることはないだろう。我が妻メグの表情を見る限り、特別甘いということはないようだ。


 ブランチを済ませたら散歩に出ることにした。迎えが来るのは昼で、2時間半もある。その間を部屋でだらだらと過ごすのはつまらない。この2日間の運動不足を解消する意味もある。

 ホテルを出ると、前夜に降った雪があらかた解けていた。気温もだいぶ上がっているようだ。この分では明日はもう少し暖かいかもしれない。仮想世界のシナリオというのは天候までよくできている。

 すぐ近くの交差点へ行くと、五叉路になっている。東西と南北が交わる道に、北東から延びてきた道が合しているのだ。その斜めの道をたどる。

 別に行き当たりばったりではなく、その先に広場があり、アート・ギャラリーがあるのが判っている。

 ほんの300ヤードで広場に着く。トルグ・ズルタヴァ・ファシズマ、“ファシズムの犠牲者広場”という物騒な名前。

 しかしその由来がよく判らない。けっこう頻繁に名前が変えられているのだ。最初は“N広場”、次に“解放者ピョートル1世広場”、“トリ広場”、“バン・クリン広場”――バン・クリンはボスニアの首長バン――、“クロアチアの偉人広場”など。

 国が頻繁に変わっているから、その時どきの事情に合わせて変えているのかもしれない。さすがにその経緯までは、我が妻メグの調べが行き届いていない。

 とにかく広場の真ん中には美術協会のギャラリーが建っていて、それを見に来た。メストリヴィチェフ・パヴィリョン。1930年代の見本市会場を再利用したもの。円柱形の建物で、周囲に四角い柱が等間隔に立っている。ハムスターの遊ぶ回し車が横倒しになったかのよう。どうせなら神殿のように円柱にすればよかったのにと思う。

 展示してあるのは前衛芸術作品。だから俺には良さが解らない。我が妻メグだってそうだろう。しかし暇つぶしなのだから、何だって構わない。落書きのような絵が飾ってあったり、ロボットの骨組みだけのような立像が突っ立っていたり、卵に角が生えたような牛だか虫だか解らない物体が白黒に塗られていたり。

 30分ほどで見終えて、外へ。ここで、犬の散歩をしている女を発見。犬はダルメシアン。ターゲットに関係ありそう。だから目に入った。別に女が目的ではない。

 犬は俺を見て吠える。いつもどおりだ。しかし我が妻メグは「あら、可愛らしい!」と言って近付く。犬が急におとなしくなる。頭を撫でると喜んでいるようだ。我が妻メグの魅力は犬にも通じるらしい。

「まあ、この子、いつもは知らない人には頭を触らせないのに、どうしたのかしら」

 女が驚きながらも笑顔を見せる。犬好きは、犬に好かれている人には徹底的に無警戒だ。

 ところで女はクロアチア語で話しているようなのだが、我が妻メグはどうやってコミュニケイションを取るつもりかな。日常会話くらいは憶えてきたに違いないが、まさか犬のことに関するやりとりまではできまい。

「この近くにお住まいですか?」

 英語だった。しかも犬のことではなく飼い主のことを訊くのかよ。

「はい、すぐそこのフラネ・ブリチャ通り」

 英語で答えが返ってきた。意外。

「牡ですか、牝ですか?」

「牝」

「何才ですか」

「3才」

「名前は?」

「ヴァンダ」

 まあこの程度ならクロアチア人でも受け答えできるか。我が妻メグは質問しながら犬を撫で回し、犬はまるで飼い主に懐くかの如く我が妻メグに身を寄せている。ここで俺が近付いて、吠えられようものなら、洒落にならないなあ。「あなたも撫でてみたら」などと我が妻メグが言い出さないことを望む。

 その願いが通じたか、我が妻メグは満足するまで犬を撫でてから、立った。犬はまだ撫でて欲しそうにしていたが、女が引っ張って行く。去り際に「よい一日をウゴダン・ダン」。

ありがとうフヴァラ・ヴァムあなたもティ・タコジェル

 最後だけはクロアチア語。さすが我が妻メグはそつない。ついでに女の名前も訊いてくれたらよかったんだが。

「さて次はどこに行こうか」

「マクシミール公園へ行ってみましょう。少し遠いけれど、路面電車トラムを使えばいいわ」

 散歩に出て来たのに路面電車トラムとは趣旨が合わないが、まあいい。ちょうどこの広場の周りにも電停があるのだが、それはマクシミール公園へ向かわないので、二筋北のヴラシュカ通りまで歩く。電停で待っているとライト・ブルーに塗られた電車がやって来た。そこから10分足らず、マクシミール公園パルク・マクシミール電停で降りた。

 南西の入り口から入る。いわゆる森林公園で、広さは316ヘクタール。観光客は少なく、地元民の憩いの場であるらしいが、冬場の平日の昼前ということで、閑散としている。

 森の中の小道があり、芝生の広場があり、池があり、四阿ガゼボがある。我が妻メグが「とても静かで気持ちいいわね」などと言いながら腕を絡めてくる。観光で何かを見たりする時よりも、こうしてぶらぶらと歩いている方が嬉しそうな表情をする。

 もしかしたら人目がなく二人きりになれるところを探しているのかもしれない。しかしほとんど人がいないにもかかわらず、進んで行くと必ず人が目に入ってくる。

「あら、また犬の散歩をしている人が」

 ダルメシアンを連れている女。どうして飼い主は女ばかりなのだろう。いや、まだ2例しか見てないけれども。

 何もせずすれ違うかに思いきや、犬の方から我が妻メグに寄ってくる。やはり我が妻メグは犬に好かれる属性を持っているらしい。しゃがみ込んで、また犬の頭を撫でる。飼い主が無警戒に嬉しそうにするのもさっきと同じ。

 牡か牝か、何歳か、名前は何かを訊いてから別れる。ヒントになっているかどうかはよく解らない。しかし我が妻メグはダルメシアンを容易に手懐けられるということが判った。午後から半日、可能な限りダルメシアンと接触してくれ、と依頼したら、軽く2ダースくらいは仲良くなってしまうかもしれない。

 ただ、単に接触するだけではなく、共通点は何か、を探さないといけないのだろうと思うけれども。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る