#18:第3日 (7) ザグレブ研究所

 ホテルを出て300ヤードほど南へ歩き、ブラニミロヴァ通りへ。そこに電停がある。6系統に乗り、終点のソポト電停が研究所の最寄り。南へ2マイルほどなのだが、線路は一直線には向かわず、町の東側をぐるっと半周するイメージ。

 ちなみに未明に降りたザグレブ中央駅へは、反対方向へ1駅だ。

「町の中心部はサヴァ川の北岸なのですが、研究所があるのは南岸で、教育機関や研究機関、医療機関、新興住宅地がある地域で……」

 セヴェリナが町のことを話し出す。それで25分は保たないだろうから、途中から研究の話になりそうだ。

 電車は次の電停で南へ折れて、広い通りに入り、国鉄の陸橋の下をくぐる。右手にバスのたまり場が見え、巨大な建物が建っているから、バス・ターミナルだろう。次の大きな交差点で他の路線と平面交差。セヴェリナの話はもう終わってしまった。早くもネタ切れか。しょうがないなあ。

「ところでザグレブ研究所の概要は」

「それはこの後、研究所に着いてから、部長から説明する予定で……」

「君がちゃんと理解してるか確認したいから、話してくれ」

「ボージェ・モイ……」

 何か呟いたけど、たぶん「何てことマイ・ゴッシュ」だろうな。

「ええと、地形と交通路の関係を主に研究するところです。ご存じのとおり、クロアチアの国土はアドリア海沿いと内陸に二分されていまして」

 クレタでリディア・ヴチュコヴィチから聞いたのと似たような説明を、セヴェリナが繰り返す。国土は転倒したV字型で、Vの一辺がアドリア海沿い、もう一辺が内陸。Vの間に入り込んでいるのはボスニア・ヘルツェゴヴィナ、頂点と接しているのはスロヴェニア。

 アドリア海沿いは元はヴェネツィア共和国の一部であり、古くから海上交通が盛んで、ヴェネツィアからギリシャのペロポネソス半島、クレタ島、キプロスまで結んでいた。

 内陸の方はパンノニア平原の一部で、西をスロヴェニア、北をハンガリー、東をセルビア、そして南をボスニア・ヘルツェゴヴィナと接する。交通の要衝であって、汎ヨーロッパ回廊と呼ばれる主要運送ルートの一部を為している。

 またディナル・アルプス山脈とその南西のダルマチア式海岸は、複雑に入り組んだ地形と地質で有名だ。

 これらを研究するために財団の研究所が作られたのである。ザグレブが本所であり、ドゥブロヴニクは支所。

「ドゥブロヴニクは観光地としても有名だそうだな。君は行ったことがあるかい」

「はい、もちろん。概ね月1回、必ず出張があるのです」

「それはどうした訳で」

「ドゥブロヴニクにしかない実験装置があるので、それを使いに……」

「それは地質の関係?」

「そうです。全施設を向こうに置く案もあったそうですが、交通の便が多少悪いところなので……あの、今の私の説明は、正しかったのでしょうか?」

 やけに緊張した顔をしてると思ったら、そういうことか。

「さてね。この後、研究部長から受ける説明と一致してるか、確認しないとな」

「…………」

 既に肩を落としている。意外にビビりだなあ。間違ってたって怒りゃしないって。

 電車は鉄橋でサヴァ川を渡る。これがベオグラードまで流れていって、ドナウ川と合流するわけだ。この辺りでも大河の様相。

 線路の両脇を広い幹線道が併走しているが、道路は高架のまま、線路だけが地上へ降りて、大きなラウンドアバウトのところで西へ折れた。セヴェリナの研究課題――災害予測システム――を訊いているうちに、ソポト電停に到着。

 プラットフォームから地下道を抜けて道路の北側へ。住宅と商業施設の他に現代美術館があって、研究所はその北隣だった。5階建てで、壁が煉瓦色。窓が大きいところを除けば、合衆国の古い鉄道駅を思わせる造りだ。正面から見る横幅は60ヤードほどか。上から見るとほぼ正方形で、中庭があるとのこと。

 さてここで我が妻メグとはお別れだが、その前に。

「ヘイ、セヴェリナ、今夜の夕食会はどこで?」

「この近くのレストランです。奥様にはホテルまで別途迎えが行くはずで……」

「ヘイ、メグ、場所と時間を訊いておきなよ。一人で来られるだろう」

「そうね、そうするわ」

 我が妻メグは活動的だから、どこへでも一人でやってくるだろう。しかしその場所と時間をセヴェリナが把握していないので、電話で訊いてもらう。レストランではなく「研究所の前に6時」ということにした。

 中に入って受付でIDカードを見せる。首から提げるカード・ケースをもらったので、そこへ入れておく。無線認証なのでセキュリティー・ゲートにタッチしなくても通れるだろうとのこと。

 ゲートを通り、エレヴェイターで5階へ。会議室の前に二人ばかり待っていたのだが、クレタに来たミルコとリディアだった。「先日はありがとうサンクス・フォー・ジ・アザー・デイ」と挨拶したが、3日ぶりに再会したことになっている。

 会議室に入ると人がたくさんいた。椅子が何列も横並びになって、講義の形式だ。俺が最初に話をすることになってるんだっけ? ひとまず研究所の部長に挨拶する。ロヴロ・タイチェヴィチ。額が広く、黒縁の丸い眼鏡を掛けていて、20世紀の芸術家のように見える。「ようこそ、ザグレブ研究所へ」と言われて握手をした後は、「当研究所の概要を説明します」。

 最前列に座って話を聞く。セヴェリナの説明をもう少し詳しくして、年号を付け加えたようなものだった。セヴェリナは俺の後ろに座っていて顔が見えないが、さぞかしほっとしていることだろう。

「ではドクトル、あなたの研究の概要と、先週の国際会議の展示について説明をお願いします。1時間ほどで」

 え、そんなに長いのやるの? しかも国際会議のことまで。それはミルコかリディアが報告すればいいと思うんだけどなあ。まあいいや。

 まずは研究のことから。要旨はリオでやった講演と同じ。

 何のために都市シミュレイションをするのか。心理学で示された人間の行動原理を確認するためである。という概念から始まって、ミクロな行動選択の観察から計算式を作る手法、条件の補正方法、シミュレイションの繰り返しと結果の収束の判定、などなど。論文タイトルと概要もいくつか挙げる。

 それから国際会議で展示したシミュレイターについて。それに使用した論文『2.5次元ネットワークにおける移動経路選択とその変化の傾向、及びネットワークの進化について』について説明。シミュレイションで使用した都市データと交通データのセットも解説する。

 ここでリディアから補足が。ヴィデオがある? それを使わせてもらおう。シミュレイターだけじゃなくて、会場を外から撮ったものや、展示場全体の風景もあるのか。これはいいな。

 本体とも言える赤いスポーツ・カーのカット・モデルを、会場に設置しているところから撮ってる。時間があるから見せておこうか。

 参加した財団メンバーの記念撮影。え、こんなのいつ撮った? 俺が写ってないじゃないか。ああそうか、1日遅れで行ったから。

 シミュレイターを体験希望者がたくさん並んでいるところ。シミュレイションを実行、つまり“運転”しているところ。プロモーショナル・モデルが説明しているところ。ジェニー、綺麗に撮ってもらえてるぞ。よかったな。

 ああん? どうしてポーランド美女――実はマルーシャ――の“運転”しているところまで撮ってるんだ?

「彼女について説明しておきましょう。プロファイルではありません。シミュレイションでの“暴走”ぶりです。6分間で16マイルも走りました。彼女に次ぐ記録は、半分の距離です。しかも他の車と接触したり、歩行者を撥ねたりすることもありませんでした。シミュレイターが衝突を判定できないのではありませんよ。現に5日間で2ダース以上もの“交通事故”が発生したのです。ぶつかった相手が死んだかどうかまでは判定しないのですが、シミュレイターに乗る前に、対人賠償保険に入ってもらった方がよかったかもしれません」

 少し笑いが起こった。説明はこの程度でいいだろう。

「では次はラボ・ツアーです。案内役はセヴェリナ・ユリチェヴィチで」

 俺からの発表が終わると、タイチェヴィチ部長が言った。会議室に集まっていた人がぞろぞろと出て行く。部長も「後ほど夕食会で」と言って握手して去った。後に残ったのは俺とセヴェリナ。

「ラボ・ツアーの最初は、建物の説明です」

 元気を取り戻したセヴェリナが言う。ここから先は、スケジュールどおりに連れ回せばいいだけ、と思っているからだろう。そうは行かない。途中で彼女にもいっぱい質問して困らせてやる。

「建物の説明とは珍しい。何か特徴があるのか」

「はい。ここは交通の研究をしているところですから、建物の中の通り道にも工夫があるんです」

 ふむ。そういう工夫が必要なのは、普通は建物の中が狭い場合だろう。

 居室スペースを可能な限り広く取るために、通路スペースを狭くするのだが、すれ違うのに身体がぶつかるのは困るし、部屋から出てくる人と出会い頭にぶつかるのもよくない。通路に“行き違い場所”を設けるとか、部屋と通路の間の見通しをよくするとかしなければならない。

 逆にスペースが十分あれば、通路を広くするだけだ。そして見たところこの建物は十分に広いのだが、なぜに工夫が必要なのか。わざとそうしたとしか考えられない。

 まあ何も考えてなさそうな配置というのもつまらないので、工夫があるのなら見せてもらおうか。

 会議室から廊下に出る。「こちらです」とセヴェリナが示す方を向く。廊下の先が見えない。一応、エレヴェイターを降りた時から気付いてはいたんだけどね。

 この建物は上から見てほぼ正方形で、真ん中に中庭がある。中空方形ホロー・スクエアとかL7――“□”をLと7の組み合わせに見立てる――と呼ばれる形だ。

 通路スペースを最小にするには、中庭側に通路を設け、外側を全て居室とすることだろう。

 ただしそうすると採光に関わってくる。居室はなるべく窓がある方がよくて、「日当たりのいい廊下」があってもあまり嬉しくない。

 ならば廊下を真ん中にし、窓際を居室にすればいいのかというと、そうでもない。ホテルではあるまいし、いろいろな大きさの部屋が必要だ。となると「必要な広さの部屋を適切に配置して、それを廊下で結ぶ」という概念に至るわけだ。

 つまり廊下は、真っ直ぐではなく、時々クランク状に曲がっている。だから見通せない。もちろん、曲げればそれだけ通路にスペースを割くことになるのだが、その割合や曲げ方を適切に工夫した、ということだろう。

 さて、ここまで勝手に考えてから、セヴェリナに付いていく。廊下の左側に会議室がいくつか並んでいて、右側は居室。低いパーティションで廊下と仕切られている。個人のスペースもパーティションで区切られている。

 ちなみに財団での俺の研究スペースがどうなっているか、憶えていない。仮想記憶に入っていないということだ。後で財団のことを訊かれたらどう答えればいいのだろう。

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