ステージ#18:第3日

#18:第3日 (1) 深夜の車中

  第3日-2046年1月22日(月)


 0時10分、ブダペスト東駅を出発。列車は再び方向転換した。

 ブダペストには3週前にも来た。しかし今回は通過するだけ。夜中にひっそりと着いて、ひっそりと出て行く。何も見ず、何も食べず、誰とも会わず。

 いいえ、夜景を見ることはできる。列車は間もなくドナウ川を渡る。街の一番南、ラコーツィ橋。右手の窓の外に、ドナウ川沿いのライティング・アップが見られるはず。

 渡り始めると、彼方にペテーフィ橋、そしてその向こうにかろうじて自由サバチャッグ橋。両岸の灯りが輝いているが、やはりここからでは遠すぎた。それでもブダペストに来たことは確認できた。あの時、6日目から7日目にかけての夜を、川の西側、城の山ヴァールヘジのブダ城で過ごしたのだった。私はチョコレート・バーばかり食べていた。

 なぜ私はそんなことを思い出したのだろう。あの時間が、楽しかったのだろうか。ジゼルと共に、彼を欺くことが。

 しかしあの時だけではなくて、いつも欺いているではないか。私は彼を利用している。依存していると言えるほどに。そして今回も……

 ただ、今は離ればなれになっている。ハンガリーとクロアチア。その距離は、だんだんと大きくなっている。私がウィーンに着けば、ザグレブとは300キロメートルほども離れてしまう。だが最終的には、同じところへ行くことになるのだろう。

 今、私がするべきなのは、その理由を確かめること。なぜ私はウィーンに行ってから、クロアチアへ向かうという遠回りをしなければならないのか。もちろん、そこにヒントがあるからであって、それを探さなければならない。

 もう一つは、競争者コンクルサントを調べること。このステージにいる競争者コンクルサンチは4人。それが二人ずつに分かれている。もう一人ヴァケイション中の競争者コンクルサントもいたが、それは間もなく影響範囲外に去る。国際列車に乗り、各地で観光をしながら過ごすというのは羨ましいことだ。

 私と同じくウィーン方面に向かう競争者コンクルサントは? 目を付けているのはイスラエル人の女性。名前はタリア・マイモン。年齢は30歳くらい。列車長シェフ・ド・トランは彼女の素性を知らなかった。私もよく解らない。

 観察したところ、身のこなしに軍人か諜報員の傾向が窺える。なのに、目はとても優しい。容姿も端麗だ。特に発声が素晴らしい。

 想像だが、軍楽隊所属の歌手だったのではないか。今は除隊して単に歌手である、という設定。

 同伴者は男性。オムリ・アムラニ。タリアよりも年上に見えるのに、彼女に敬意を持って接している。察するところ、マネージャーだろう。あるいは恋人を兼ねているかもしれない。

 彼女は私の存在に気付いただろうか。私が同伴者と別行動を取っているから、対象外に置いてくれればいいのだが。

 ティーラを乗せた列車は、今頃どの辺りを走っているだろう。スケジュールどおりなら、あと30分以内にザグレブに着くはず。しかし、そう簡単ではないだろう。オリエント急行エクスプレスなのだから。

 過去のヴェニス・シンプロン・オリエント急行エクスプレスとルートが少し違っているとはいえ、ユーゴスラヴィア――セルビアやクロアチアなどの6ヶ国が作っていた連邦――を通るのだから、かの有名な小説のとおりに、そこで何かが起こるに違いない。殺人事件ではないにしても。

 ティーラはそれに巻き込まれても、役割を果たすことができるだろうか。アルテムを、いやアルテムに似た人物を監視することを。

 出発直前に探偵を見つけて――それも小説から存在を予想していた――彼女を守ってくれるよう依頼したが、どうなったろう。との関係に気付くだろうか。それはないと信じるが……

 ティーラはアルテムよりも、のことを気にするだろうか。そうだとしても、無理はない。アルテムとの行動範囲は重なるだろうから。

 ――アーティー・ナイト――のことをいつまでも“彼”と呼び続けるのは、無理が生じてきたと思う。記号化するとしたら、何がふさわしいだろう?

 Aではアルテムと重なってしまう。だから私は避けてきたのだ。ATでもRTでも近い。ファミリー・ネームを使うしかない。KかNか。どちらも彼にふさわしくない気がする。

 騎士ナイトをウクライナ語にしたらлицарリツァル。だからЛエルにしよう。ジゼルの第3の人格も“エル”だったが、あれは封印されるはずだし、問題にならないだろう。

 Лエルの妻は? それはリタのままでいい。Лエルは、なぜ私が彼女のことをリタと呼ぶのか――メグと呼ばないのか――まだ訊いていないのだろうか。

 訊いたとしても、リタは詳しいことを話さないに違いない。せいぜい“地下採石場”のことくらいだろう。それだけでも、私が彼女に大きな恩を感じていることは伝わる。

 Лエルもリタも、どうして仮想世界における私の生死に関わってくるのだろう。現実世界で、関係あるはずがない。違う時代の人物なのだから。むしろ関係があれば、仮想世界ではそれが断ち切られるはず。

 私のこの仮定は、間違っているだろうか。あるいは記憶を調整された上で――つまり姿だけが似ている別人として――登場することもあるのだろうか。

 あのアルテムは、私のことを全く憶えていないのだろうか。それとも……



 ザグレブで降りる準備を、早めに済ませておかなければならない。事件のことで、後でまたシャルロットから呼び出されるかもしれないからだ。

 そう思って着替えを始めると、我が妻メグが半裸の俺にやけに絡んでくる。もしかして、欲求不満なのだろうか。たった一晩いないだけで。

 ホテルにチェックインしたら必ず、と約束して、着替えの続きをしたり荷物をまとめたりしているうちに、日付が変わってしまった。

 つい先ほど、スラヴォンスキ・ブロドを出発。ザグレブ到着まであと3時間ほどあるが、何をして過ごそうか。車掌に起こしてもらうことにして、一眠りするのも悪くないのだが、ベッドを作ってもらうほどのことはない。

「ところで、事件の詳しいことを君は知っている?」

 座席シートに並んで座っているのだが、我が妻メグはぴったりと身体を寄せてきている。さっきから“デレアフェクショネイト”モードだ。クレタでも、この時間帯はだいたいいつもこんな感じだった。

「どうしてそう思うの?」

「シャルロットが“有名なコンシエルジュ”に相談したかもしれないと思ったからさ」

「彼女なら一人で解決できると思うわ」

「君では解決できない?」

「興味がないもの」

 言いつつ、ぐいぐいともたれかかってくる。今、興味があるのは俺のことだけって? いや、この件、訊いておいた方がいいと思うんだよ。ターゲットのヒントになってるかもしれないんだから。

「君の知ってることだけでも」

「それは研究者として気になるから?」

「いや、君や俺がどうして疑われるのか知りたいだけだ」

「じゃあ、私の知ってる概要だけね」

「もちろんそれでいい」

「一つ教えたら、一つキスをしてくれる?」

 どうしてこんなことを言うんだろう。それに“一つ”の単位を定義しておかないと、際限なくキスをしなきゃいけなくなるんじゃないか。するのは嫌じゃないけど、回数が増えるとそれだけ話をする時間が減るよなあ?


 ①ウィンストン兄妹は連合王国ユナイテッド・キングダムの外交官である。兄のエマニュエルは参事官、妹のジュリアは三等書記官。臨時の人事により、ギリシャの大使館からヴェニスの公使館へ異動となり、赴任するところだった。列車を利用したのはヴェニス公使館の配慮による。

 ②ベオグラード停車中、エマニュエルは車内に留まったが、ジュリアは市内へ観光に出た。車掌の証言に依れば、合衆国の男性二人から声をかけられていたらしい。

 ③出発直前になってもジュリアが戻らないので、エマニュエルは車掌や乗客に訊き回った。携帯電話モバイルフォンも通じないらしい。車掌は彼女が戻るところを見なかったと答えた。

 ④出発以後、事件発覚まで、列車長シェフ・ド・トラン、車掌、スチュワードの誰も兄妹を見ていない。列車が止まった時、9時頃に車掌が彼らのコンパートメントのドアをノックしたが反応なし。錠は掛かっていた。

 ⑤ディナーの遅い組セカンド・シーティングが終了直前――ちょうどコンサートの半ば――になっても反応がないため、列車長シェフ・ド・トランが緊急措置としてコンパートメントの錠を開け、事件が発覚。列車長シェフ・ド・トランはスラヴォンスキ・ブロドの警察へ連絡すると共に、シャルロットを招聘した。


「これだけのことを誰から訊いた?」

「車掌よ。さっきミス・メシエの部屋を出てから、ここへ戻ってくる間に」

 乗務員を完全に味方に付けてるな。わずか一日ほどで。

「でも君は昨日からウィンストン兄妹のことを知っていたようだけど」

「ギリシャの滞在中にニュースで見たのよ。時季外れの異例の異動ですって」

 前のステージからの継続という設定が、ここで活きるわけか。しかしいつの間にそんなニュースのチェックをしていたんだ。

「一番怪しまれてるのは合衆国の男二人?」

「さあ、ミス・メシエがどう考えているのかは知らないわ」

「君はどう考えているんだ」

「興味がないわ」

 またそれか。

「彼らがベオグラード出発時から事件発覚まで何をしていたか、車掌に訊いた?」

「訊いてないわ。でも、出発前にコンパートメントのドアをノックしたら、ミスター・ブルックスがいて返事をしたって。ディナーは遅い組セカンド・シーティングに少し遅れてきたんですって」

 何だ、ちゃんと知ってるんじゃないか。で、答えた後で俺の方に唇を突き出してるのはどうして?

「一つ教えたんだから、一つキスをしてくれるんでしょう?」

 質問に答えるのも含まれるって!? もしかして、それで俺が喜んで質問すると思ってる? しかし質問しないとキスを嫌がってると思われるな。それは困る。キスする。

「その他の乗客の行動はどうだったんだろう」

「どうって?」

「例えば、1・2号コンパートメントを訪れた人がいるか」

「走行中にいないことは車掌が見ていたわ。でも停車中は知らないって」

「どうして知らないんだ」

「乗降を見るためにデッキに立っているからよ。夜中には省略することがあるみたいだけれど」

 今の一連の質問は一つとしてカウントしてくれるんだよな? キス。

「ヴィンコヴチに停まったのはちょうどディナーが終わった頃だったが……早い組ファースト・シーティング遅い組セカンド・シーティングの入れ替え中だったよな。まさか、乗降があった?」

「ザグレブまで乗降はないはずだけれど、車掌に訊いてみましょうか?」

「それにもキスが必要?」

「もちろん!」

、訊いてきてくれ」

 我が妻メグが笑顔でコンパートメントを出て行く。何だかよく言うことを聞く犬と遊んでるみたいな気分になってきた。

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