#18:第2日 (8) 事件発生
シャルロットが紹介を続ける。
「幸いにも3人が共通してお持ちの楽譜がありました。ショパンのピアノ三重奏です。彼が作曲した唯一のピアノ三重奏で、演奏されるのは非常にまれとのことです。時間は30分ほどと適度ですので、どうぞお楽しみになって」
臨時のコンサートのことゆえ、シャルロットの曲紹介もさほど詳しくないが、サワムラ
サワムラ
ナオトがヴァイオリンを大きく振るアクションで、3人同時に演奏を開始。出だしはうまく行ったようで、勇ましい旋律が奏でられる。最初にピアノの見せ場があるが、以降はチェロが主体となっているようだ。
最初は重厚に聞こえていたのだが、だんだんと軽やかになってくる。特にピアノは跳ねるかのよう。試し弾きもしていないのにたいしたものだ。いや、俺には演奏の才能なんてないので、軽々しく褒めるべきではないのかもしれない。
聴きながら周りの様子を観察する。ほとんどの乗客が目を閉じて聴いているが、口元に笑みを浮かべているのが多い。それだけ心地よいということだろう。まさか寝ることはあるまい。
20分を過ぎる頃、右手の窓の外でゴーッと大きな音がした。おそらく救援の機関車が通り過ぎているのだろうが、車内の聴衆が一斉に窓の方を睨む。目を閉じていた者も、薄目を開けて。「うるさいな」ということに違いないが、目下自分たちが置かれている状況を忘れているのではないだろうか。すぐに音は止んで、皆が演奏に集中する。
フィナーレが近いと思わせる頃になって、
演奏の方は、最後に再び盛り上がりを見せて、堂々と終わった。拍手の中、
カオルは元のソファーに戻ったが、ヴァレンティナ嬢はサロン
「列車が走らないので不安になっていたのですが、マドモワゼル・メシエのご提案で――いらっしゃいませんが――皆様の不安をやわらげるためと、私自身が不安を忘れるために……」
ここで軽い笑いが起こった。サロンの雰囲気がすっかり和んでいる。
「演奏することにしました。短い曲ではありましたが、お楽しみいただけたでしょうか。マドモワゼル・ヴァレンティナと――いらっしゃいませんが――合わせるのはもちろん初めてでしたが、うまくできましたのは彼女のテクニックに依るところが大きかったと思います。私は後で彼女の本名をこっそり伺って、ピアノ曲集を買おうと思います」
また笑いを取ってから、カオルは一礼した。改めて拍手。日本人にしてはジョークがうますぎる。しかもあの美形で。それにナオトはどうして一言もしゃべらないんだ。
「失礼いたします、皆様」
ようやく
「先ほど、救援の機関車がスラヴォンスキ・ブロド方面へ向かいました。この先のアンドリイェヴィチ駅で折り返して、当列車の救援に入ります。徐行で40分ほどかけてスラヴォンスキ・ブロドまで牽引する予定で、運転の遅れは当初から2時間ほどになる見込みです」
ということは、ザグレブに着くのはやはり3時頃か。やれやれ、仮眠するべきかどうか、迷うところだな。
「ムッシュー・ナイト、ご足労ですが、付いてきてくださいますか。マドモワゼル・メシエがご相談したいことがあると」
俺に? なんで? やっぱり事件なのか。
「
「いいえ、あなただけで結構です」
思ったとおりシャルロットがいて、「どうぞお座り下さい」と
「実は車内で事件が発生しまして」
やっぱり。でもそんな嬉しそうな顔で言わなくても。
「重大事件かね」
「重大ですね。殺人未遂ですから」
仮想世界の中でそういうシナリオ、やめてくれる?
「被害者は?」
「1・2号
「今日の昼食の時に初めて名前を聞いた」
「そうでしたか」
「俺が容疑者?」
「どうしてそう思いますか?」
「最初に事情聴取に呼ばれたんじゃないの」
「ええ、乗客の中では最初ですね」
「何の証拠品が見つかった?」
「そう先走らないで下さいよ。どうぞお座り下さい」
仕方なくシャルロットの横に座る。
「あなたに質問する前に、私の立場を明らかにしましょう。
「本職も探偵?」
「そうですよ。あなたはご存じなのかと思っていました」
「
「そうでしたか。いえ、別に構わないのですよ。さて、乗客の中でなぜあなたを最初にしたかというと、あなたとマダム・ナイトはザグレブでお降りになるので、早めに聞いておかないといけないからです」
「となると、この後
「そうなのですが、そんなに先走らないで下さい。さて、ベオグラード出発直後から6時半に食堂車へ行くまでの間、どこで何をしていましたか?」
「ずっとコンパートメントにいて、出発直後に妻が戻ってきた後は着替えをしていた」
「着替えを終えてコンパートメントを出たのは?」
「食堂車に到着する1分前だな」
「そして私と同じテーブルに着いたのでしたね。結構です。マダム・ナイトが戻って来た時刻は?」
「正確には憶えていないんだが、出発してから3分とは経っていないだろう」
「それまでどこへ行っておられたのです?」
「ブリュッセル行きに乗っている知人のところだ」
マルーシャのことを話す。シャルロッテは頷きながら聞いていたが「この列車に乗っていないのなら確認に手間がかかりますね」と呟いた。
「事件はいつ起こったんだ?」
「正確なところは判らないのですよ。出発直前に車掌がムッシュー・ウィンストンから、同行していたマドモワゼル・ジュリア・ウィンストンを探してくれと言われたのですが、それ以降、先ほど発見されるまでの間なのです」
「先ほどというのは、君が
「そうですが、彼は
「彼の連れのジュリアはどこに?」
「車内にいません。空き部屋や荷物車も調べたのですが」
「出発前のことだが、彼は俺のコンパートメントに来た」
その時のことを話す。出発の5、6分前のはず。
「なるほど、他の乗客にも訊き回ったかもしれないのですね。参考にします。ところでこの口紅に見憶えは」
男の俺に口紅を確認しろとは無茶なことを。見てもブランドすら判らない。
「知らないな。しかしさっき言ったように、
「解りました。しかし女性が持っている口紅は1本とは限りませんよ。もちろん、後で彼女にも伺います」
「サロン
「お連れになる途中に相談されると困りますので、ヴワチュリエに呼びに行ってもらいますよ。
シャルロットが声をかけると、
「この後、俺はどこにいたらいい? 自分のコンパートメントか」
「サロンにいらっしゃっても構いませんよ。ただ、事件のことはなるべく話さないでいただければ」
「話そうにも詳しいことがよく解ってない」
「そう思うのですが、うっかり口を滑らすこともありますからね」
さて、何のことだろう。ドアにノックがあって、
「何のお話なの?」
「たいしたことじゃないんだとさ。心配しなくていいよ」
しかし
何を訊かれたか尋ねてみたが、俺と同様、行動の確認だった。矛盾はないはずだが。
「ところで口紅は」
「あれは私のよ」
「本当に?」
どこにあったか知らないが、たぶん現場のコンパートメントに落ちてたんだぜ。どうして動揺してないんだ?
「今朝の朝食の後で、あなたはミスター・ナオトと立ち話をしたでしょう?」
「うん、君に先にコンパートメントへ戻るように言って……」
「その時にミス・ジュリア・ウィンストンと廊下でぶつかって、ハンドバッグの中身を撒いてしまったの。その時になくしたんだわ」
そんなことがあったのか。
「しかしあの後にも何度か化粧を直していたはずで……」
「朝と昼と夜では別のを付けているのよ。気付かなかった?」
「全く。申し訳ない」
「じゃあ、明日からはキスをする時に、目だけでなく唇もよく観察してね」
そう言いつつ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます