ステージ#18:第2日

#18:第2日 (1) 夜の停車駅

  第2日-2046年1月21日(日)


 1時半、列車はテッサロニキ駅に停車した。

 終端駅であり、スコピエ方面へは方向転換が必要。機関車を付け替えるために、しばらく停まる。乗り降りする人は、おそらくいないだろう。

 下段のティーラは、まだ起きているようだ。日付が変わる頃にベッドに入ったが、一度も眠りに落ちていないはず。時々、悩ましげな深い吐息が聞こえていた。

 ブランケットが擦れる音がして、寝台が少しきしんだ。ティーラが身を起こしたのだろう。ベッド・ランプが点く。時計を見ているのに違いない。

 ベッドを降りて、立ち上がった。上段の私の様子を窺っているのか。私は寝たふりが得意だから、ティーラは私が起きていることには気付かないだろう。

 歩き回る足音。どうするかと思っていたら、窓のそばへ行って、ブラインドを少し上げ、外を覗いている。駅に停まっていることを確認したのだろう。ブラインドを閉め、窓際に掛けたハンガーが壁に当たる音がした。コートを取っている。外へ出ようというのか。

 足音はドアの方へ。錠を外す音がして、ドアが開き、廊下の灯りが射し込んできた。ティーラが滑り出て、すぐに暗くなる。それから話し声。車掌と会話しているのだろう。「外は大変寒いので」という車掌の声が聞こえる。

 構わないから出たいとティーラが言う。廊下からデッキへの、そしてデッキから車外へのドアが開く音。心配なので、私も追いかけよう。

 起きて寝台を下り、コートを着る。ティーラは化粧着ローブ・ド・シャンブレ、私はネグリジェなので、上からコートを羽織るだけでは寒いに違いない。どれくらいの時間、保つだろうか。

 廊下へ出る。車端の自席に座っていた車掌が振り返り、「お前もか」という迷惑そうな顔を一瞬見せたが、無理に笑顔を作り「妹さんがお外に」と言う。アテネから、彼はずっとフランス語を話している。

「出発する前にはちゃんと声をおかけしますから。ですが、大変寒いのですぐにお戻りになるでしょう」

「何分停まるのだったかしら。20分ですか?」

「ええ、ですからあと10分ほどです」

「私も外へ出ます」

かしこまりましたウィ・マドモワゼル

 廊下からデッキへ、デッキからプラットフォームへ。コンクリートの床に雪。そして足跡。

 プラットフォーム上の薄暗い灯りに照らされて、ティーラの白いコートが見えた。今来た方向、そしてこれから行く方向を見つめていたが、不意に振り返って私に気付いた。

「まあ、マルーシャ!」

「眠れないのね、ティーラ。コンパートメントが暑かったかしら?」

 私はティーラに近付いて横に立った。弱い風と共に、雪が舞い落ちてくる。頬が急速に冷やされていく。

「いいえ、そんなことはないのよ。でも……」

「やはりミスターのことが気になるのかしら」

 私が言うと、ティーラは寒さで赤くなっていた頬を、更に赤らめた。

「ええ、そうかもしれないわ。何も考えないでおこうとしているのに、気付くとあの方のことが頭に浮かんでいるの。こんなことではいけないのに」

「そんなことはないのよ、ティーラ。忘れられない人は、誰にでもいるの。私にとってはアルテムがそうだから」

「アルテム……アルテム・ドムブロフスキイのことね。私はあなたから、名前しか聞かされていないわ。あの方と同じように、とてもお優しくて、明晰な頭脳の持ち主なのかしら」

「ええ、そう。それにとても勇敢で、愛国心が強くて……その点はきっとミスターも同じでしょう。時折見せる態度に、それが表れていたから」

「私はこのまま、あの方をお慕いし続けていいのかしら」

「何を躊躇することがあるの、ティーラ。人を愛することに価値があるのであって、その人の愛を求めることが目的ではないはずよ」

「ええ、そうね。本当にそうだわ。あの方を愛し、幸せを願うことが、いけないことのはずがないんだわ」

「見返り必要としない愛ほど、尊いものはないのよ、ティーラ」

 機関車の警笛が聞こえてきた。これから行く方向。信号を確認し、方向転換をしているのか。やがてこちらへ来て、客車と連結するのだろう。

 その他には、雪が降る音しかしない。駅はあまりにも静かだった。

 コートの下に蓄えていた暖気が抜け、足元からだんだん寒くなっていく。しかしティーラの顔は赤いままだった。彼のことを考えると、身体が熱くなるのだろうか。

 私もアルテムのことを思うと――最期の表情ははっきりと心の目に焼き付いてる――軽い興奮を禁じ得ない。

「でも、なるべく話しかけない方がいいのかしら」

「そんなことはないわ。ミスターも、あなたと話したいと思っているはずよ」

「でもマルーシャ、あなたは……もし、思いがけないところでアルテムに会うことができたら、冷静でいられるの? そして彼が、あなたの知らない女性と一緒にいたら? 彼が笑顔を投げかけてくれても、何も躊躇することなくお話しができるかしら」

 私はすぐには答えられなかった。ティーラの言うことは、本質を突いていた。私は、現実世界なら会えない人に、会おうとしている。

「心の準備はしているのよ、ティーラ。でもきっと、最初に彼がかけてくれる言葉によって、私の気持ちも変わるかもしれない。ただ、彼を愛さなくなるという意味ではないわ」

「あなたはもしかして、彼を探すために、世界を回っているのかしら?」

「いいえ、そんな偶然は期待しないわ。だってウクライナにいる方が会える確率は高いもの」

「でもあるいは昨日の私のように……」

 プラットフォームが少し明るくなった。電気機関車のライトに照らされている。客車と連結して、しばらくしたら、出発するはず。

 デッキに足音。おそらく車掌が、声をかけるタイミングを見計らっているのだろう。

「身体がすっかり冷えているわ、ティーラ。コンパートメントへ戻りましょう」

「ええ、そうね」

 振り返ったが、ティーラは意識的に隣の車両を見るのを避けている。彼がいる車両。そこからは、何の気配も伝わってこないのに。



 目が覚めると列車は走っていた。

 寝台車というのはだいたいにおいて、停まっていると眠りにくいと聞いたことがある。今、6時過ぎ。時計は寝る前に1時間戻しておいた。

 北マケドニアを過ぎて、既にセルビアに入っていると思われる。ニシュに着くまであと2時間はかかるはず。

 ところで、俺の上に重たいものが乗っている。そのせいで起きてしまったのだろう。いや、重たいと言ったら怒られてしまうかもしれない。しかしとにかく乗っているのが我が妻メグであることは間違いない。

 昨夜、彼女はマルーシャを訪問してから12時前にコンパートメントに戻ってきて、ナイトウェアに着替えて上段へ登ったはずで、それがどうして俺の上に乗っかっているのか。

 寝台の幅が80センチメートル――32インチ弱――しかないから、俺が真ん中に寝ていると横に寝られないのは当然として、どうして下段へ降りてきたのかなあ。

 もしかして、手洗いへ行くために起きて、上段へ戻らなかったのか。梯子を上がるには灯りを点ける方がよくて、しかしそれだと俺が起きてしまうかも、と考えたとか。

 とにかく、下段のベットには転落防止の帯革がないので、彼女が落ちないようにしてやらないと。ベッド・ライトを点けたら起きてしまうか? いや、起きてるじゃないか。目を閉じているが、こんな嬉しそうな笑顔のまま寝るわけがないだろう。

「マイ・ディアー・メグ、1インチ以上離れて寝るのがそんなに寂しいのかい」

「起こしてしまったのね、マイ・ディアー・アーティー。ええ、離れるなら1マイル以上でないと、あなたの側に行きたくなることが解ったわ」

 昨夜、彼女がマルーシャと会った後で、コンパートメントへ戻ってきてから、“デレアフェクショネイト”の状態になっているのは解っていたが、何の会話をしてきたんだか。

 とにかく寝台の端へ身を寄せ、彼女のスペースを作る。狭いが、どうにか横並びに寝られるようになった。が、俺は仰向けに、彼女は横向きになっている。その麗しい目で俺の横顔を見ているはずだが、ベッド・ライトを消すと真っ暗になるので、彼女の息が耳に当たるのを感じるのみ。

「何時頃から起きていた?」

「あら、ついさっきまで寝ていたのよ。逆に、なかなか寝つけなくて、3時頃にどこかで停車したのを憶えているわ。北マケドニアに入って、機関車を交換していたのかしら」

「スコピエに停まったのは?」

「それは気付かなかったから、3時間ほど寝ていたようね」

「もう少し寝ないと美容に悪いよ。ニシュに着くまで一眠りしたら」

「あなたの横なら眠れると思ったの!」

 一番困った状態になっている気がするなあ。しかし、胸の前で手を握ってしばらくじっとしていたら、眠ってしまったようだ。逆に俺が眠れなくなってしまったけど。

 しかし眠れない時は、ターゲットのことを考えるに限る。いや、まだ何もヒントを得られていない。ヒントはどうすれば得られるか。

 今日一日は、まだ列車に乗ったままだ。ただしこの後、ベオグラードで長時間停車するので、町を観光することができる。

 昨日のアテネでも、5時間ばかり観光をした。本当なら、その時に何かを見つけ、ベオグラードでも別の何かを見つけ、それらを結びつけてターゲットは何かを類推する、ということが必要だろう。

 もちろん、列車の中にもヒントはあるはず。正確には、乗客がヒントを持っている。サワムラ姉弟シブリングズを除いて、他の誰が情報源であるか。

 得るにはある程度親しくならないといけないだろう。ベオグラードへ着くまでと、着いてから観光する時間を有意義に活用しなければならない。

 具体的には、朝食の時間を利用して親しくなること。そしてベオグラードで一緒に観光するというのはどうか。

 ただ観光するとなると、男女のペアがよさそう、ということになる。男二人組や女二人組と一緒になるのは、偏るのでよろしくない。となると、アングロ・サクソン系のペアか、北イタリア系のペアなのだが、前者は女の顔が暗かったし、後者はメグによれば男の顔が怖い。どちらも選びたくない感じ。

 とはいえ、食堂車で会わないことには話にならなくて、他のペアと会って、親しくなれそうなら一緒に観光を、ということになるだろう。

 ただし、男どうしのペアだけは避けたい。我が妻メグに対して必要以上に興味を持ちそうだから。

 結局、我が妻メグが再び目覚めたのは7時半で、珍しいほどの遅起きとなった。しかも起きてからもベッドの中で俺にまとわりついてくるのはどうしたことか。そうして甘えろとマルーシャに言われたのか。まさか。

 着替え終えたのは8時。ブラインドを開けて朝の光を取り込んでいると、ちょうどドアにノックがあって、エドワールが「朝食はいかがなさいますか」と訊いてきた。食堂車へ行って食べてもいいし、コンパートメントに持ってきてもらうこともできるのだが、まだ決めていなかった。

 もちろん、他の乗客から情報が得たいので「食堂車へ行く」とエドワールに告げる。着替えたのもそのためだ。化粧を終えた我が妻メグは、ようやく元の状態に戻ったらしい。が、「昨夜はマルーシャと何を話したんだい」と訊いても、「女どうしの秘密よ」と謎の微笑みを浮かべるばかり。まあ、そうだろうと思う。

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