#18:第2日 (2) 朝の食堂車
食堂車へ行くと、ガラガラだった。ほとんどの乗客は部屋で食べるのだし、時間が遅いこともあるだろう。もう8時半だ。ニシュに着いてしまった。
ニシュはイスタンブールへ続く路線との合流駅だが、ここでは併結しない。それぞれ別にベオグラードへ行き、そこで編成を組み替えることになっている。
昨夜と同じテーブルに着くと、エドワールがすぐに朝食を運んできた。クロワッサンとレーズン・ペイストリー、ジャムが3種とバター、スモークト・サーモン、フルーツ各種。
コーヒーか紅茶か訊かれ、二人ともコーヒーと答える。列車が再び走り出す。
「もしあなたに文章の才能があったら、この汽車旅の光景を書いてはいかがかしら?」
窓の外の景色を見ながら、
俺が昨夜思い付いたことを、どうして
「そうだな、殺人事件が起こったら書いてみようか」
「もし起こったら車内に足止めされるかしら」
「証言が聞きたいなら研究所へ来い、と警察に言うだけだよ」
今夜事件が起こったとして、明日のうちに解決してしまったら、ステージ内の時間が余る。さりとて、捜査に1週間もかかるような事件が起こるわけがない。そんなことになったら、それがステージのメイン・イヴェントになってしまう。
まあ、ちょっとしたトラブルはあるような気がする。でもそれもいつもどおりだよな。
「そうね、あなたなら協力を要請されることはあっても、疑われることはないはずだから」
「しかし事件の解決は専門家にお願いしたいね。探偵が乗っていればの話だけど」
例えばそこに座っているアングロ・サクソン系の女二人のどちらかが、ミステリー小説の作家ということは考えられるだろう。オリエント
その女二人は、昨日と座っているテーブルは同じなのだが、席を前後入れ替えている。だから昨夜後ろ姿しか見えなかった方の顔が今は見えているわけで、しかし昨日顔を見たのとよく似ているので、姉妹なのだろうということが解る。ただそれだけ。
シャーロック・ホームズなら観察と推理の結果を1ダースくらい並べるところだろうけど、俺には無理。
「事件は起こらなくても、雪で列車が止まることはあるかしら?」
ふむ、小説内でそういうことが起こったのは、もちろん憶えてるんだけどね。
「セルビアとクロアチアの間に山はないから、止まらないだろう。ザグレブから先、トリエステまでは山越えがあるから、どうなるか判らない。しかし少なくとも俺たちには影響がないはず。それに今は線路状況の監視が行き届いてるから、事故が起きてもすぐに救援が来るよ」
「そうなの。よかったわ!」
笑顔で言ってるけど、もしかしたら本当はトラブルが起こってほしいとか? 勘弁してもらいたいんだけど。
朝食を終えてコンパートメントに戻ろうとしたら、サワムラ
そして姉に「先に食堂車へ行って」。俺もメグに「先にコンパートメントへ戻って」。
「困りましたよ。姉があなたに興味を持ってしまいまして」
渋い顔をしている思ったら、そんなことか。
「目のせいかい。よく言われるんだ」
「同伴者には効かないはずなんですがね」
「そういえばそうだった。研究に興味を持った?」
「そのようです」
「話をした時には興味がなさそうだったけど」
「本心を知られたくない時はそうして、後で僕に打ち明けてくるんです」
「眠そうに見えたけど、そのせいで寝不足になったのかい」
「ああ、いや、あれは寝台列車が苦手なだけです。駅に停まるごとに目が覚めて、その後しばらく寝付けなくなるようで」
「ザグレブで降りるからあと半日と少し、凌いでくれ」
「ええ、何とかしようと思いますが、あなたの方からあまり親しげにしてくれない方が」
「なるほど。俺はできるけど、
「お願いします」
ナオトと別れてから気付いたが、この列車には他にも
もっとも、それには
あと、マルーシャがウィーン方面行き車両に乗っているという謎も解決しないといけない。同じターゲットを目指すなら、
合流点となるベオグラードに、何か重要なヒントがあるのかもしれない。
ニシュに着いたが、ティーラはまだ眠っているようだ。
昨夜、テッサロニキを出た後、ティーラは起きていた。3時前、国境を越えて北マケドニアへ入り、ゲヴゲリヤの駅で機関車を交換した時も、まだ寝ていなかった。
5時20分のスコピエでも、6時過ぎに国境のタバノヴツェで再び機関車交換した時も起きていて、ようやく眠りに落ちたのはその少し後のようだ。私も短い睡眠を取った。
目が覚めてから、私は身体を起こし、壁に背中をもたれさせ、足を抱えて座っていた。そうして窓の外が、だんだん明るくなるのを見ていた。ブラインドはよく光を遮り、コンパートメントの中は薄暗いままだった。
寝ている間に、アルテムの夢を見た気がする。テッサロニキで、ティーラと話をしたせいだろうか。あるいはこの世界の観察者がまた仮想記憶を操作したのだろうか。
私はなぜアルテムにあんなことをしたのだろう。アルテムはなぜ私のしたことを受け容れたのだろう。
あの時、私は本当に、ああすべきだったのだろうか。いいえ、仮想世界の中でそのことを思い返しても、意味はない。アルテムに会えた時に、どんな顔をすればいいだろうか?
私の取るべき態度は、彼の態度によって変えるべきだろう。大きく分けて二つあると思う。一つは、彼が私を憶えていた時。もう一つは憶えていなかった時。
前者よりも後者の方が、よりありそうに思う。この世界を作った人たちが、私の行動を観察したいなら、現実世界と違う状況に、どのように対応するかに興味を持つだろう。
どちらかがはっきりしているのなら、私は迷わない。だが、その中間であるなら?
アルテムが、私を知らないふりをしていると思えるような状況になったら、私の気持ちはどう動くだろうか?
私にはそれが解らない。私の心において、それがただ一つ、私が私を制御できなくなる状況だと、私は考える。
ティーラのように、迷いが生じるだろうか? 誰かに相談したくなったり、意見を聞いて無理に自分自身を納得させようとしたりするだろうか? ハンナの人格を凍結し、事の成り行きをマリヤに任せようとするだろうか? 全く予想が付かない……
9時を過ぎ、廊下を行き交う足音が多くなってきた。
15分後、ティーラが目を覚ました。ベッド・ランプを点け、すぐに部屋のライトも点いた。
「マルーシャ!?」
下段からティーラが声をかけてきた。
「起きたのね、ティーラ」
「どうしてもっと早く起こしてくれなかったの?」
「列車の中では、寝られるだけ寝ておくのがいいのよ。無理に起きると揺れで気分が悪くなるわ」
私は梯子を下りながら「朝食はここへ運んでもらいましょうか」と訊いてみた。
「こんな遅い時間に運んでくれるのかしら」
「もちろん。でも食堂車へ行く方が気持ちいいと思うわ。この狭いコンパートメントで食べるより」
テーブルは窓際の小さなものと、ベッドから少し離れた洗面台の二つなので、食事を摂るには不便なのだ。ティーラが「そうね、食堂車へ行きましょう」と言うので、手早く着替え、簡単に化粧をして、コンパートメントを出た。
食堂車にはほとんど人がいなかった。私たちの他には3組。その中に、隣の車両のサワムラ
「マルーシャ、あなた、そんなに少なくていいの?」
ティーラは私がたくさん食べることを知っているので、朝食の量を心配してくれている。
「昨夜十分に食べたので、これで平気よ。ベオグラードに着いたら町へ出られるし、お腹が減ったらカフェへ寄ることにしましょう」
「そうだったわね。あなたはベオグラードにも行ったことがあるから、案内してくれるんでしょう?」
「ええ、もちろん」
ベオグラードは古い町だが、そうたくさん見どころがあるわけでもない。しかし要塞は見に行くべきだろう。そこからドナウが眺められる。
しかし町へ出る前に、イスタンブールから来る編成の乗客を確認しなければならない。そこに乗っているはずの
「マルーシャ、クロワッサンかレーズン・ペイストリーをいかが、と訊いてくれているわよ」
ティーラが、
「ええ、一つずついただくわ」
ジャムはまだ残っているので断った。先に食事を終えたサワムラ
彼らにティーラを紹介する。「ぜひ演奏を聴いてみたいわ」とカオルが言った。その機会はあるだろうか。ベオグラードからは、行き先が違うけれど……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます