#17:人格データ
財団にて-2XXX年Y月Z+7日(月)
シミュレイションが終了して、報告書を作成した後、アビーはパトリシア・オニール博士のオフィスを訪れた。パトリシアはデスクの椅子をリクライニングにして、深くもたれ、目を閉じていた。うたた寝をしているようだ。
彼女が最近自宅へ帰らず、ずっとオフィスにいるのを、アビーは知っていた。研究所内には食事を摂るところもあるし、シャワー室も
もっとも、パトリシアのような管理職兼上級研究員の場合、オフィスにソファーや簡易ベッドを入れることも可能で、その気になれば住むこともできるはず。
ただ、在室時はドアに錠をかけてはいけないという規則があるので――それだけでなくセキュリティー・システム上、施錠ができなくなっているので――プライヴァシーが守られない。だから実際にオフィスに住んでいる人はいない。
アビーはしばしの間、パトリシアの様子を窺っていたが、おもむろにデスクをノックした。独特のリズムと回数で。それは二人の間で取り決めた合図で、聞くだけで相手が判るようにしてある。
「遅かったのね、アビー」
パトリシアはすぐに目を開けた。まるで寝たふりをしていたかのよう。椅子の背を元に戻し、顎を上げてアビーを下目遣いに見た。
「エリックが置いたデータの解析をしていましたので」
「そこまであなたに頼んだつもりはないけれど」
「そうなのですが、私自身の学習の目的で。ただ、全部は解析できませんでした」
「もちろん、後は私がやるわ。でも部分的に何か判ったのかしら?」
「リストの中の名前が。そこにちょっと気になるものがありましたので、人格データ管理部門に問い合わせました。余計なことだったでしょうか?」
「別に構わないわよ。中を一切見るなとは言わなかったもの。それで?」
「これです」
アビーは携帯端末の画面をパトリシアに見せた。そこには"Артем Домбровський"の名を表示している。
「
「スートBのナンバー4です。コード・ネームは
「その名前が……
「そうです。彼はウクライナ対外情報庁で
「特別な関係にあった?」
「人格データ上はその記録はありませんでした」
「二人の頭の中にしかないということね。それで?」
「私の調べたことは以上です」
「エリックはどういう予想をしてるのかしら。
それについてパトリシアは既に自分の考えを持っているのに、私に言わせたいのだな、とアビーは思った。
「彼に会うことを期待しているのではないかと」
「おそらくそんなところね。でも無理。現実世界で相識の関係にある
「私も人格データ管理部門からそのように聞きました」
「だからエリックもきっと知ってるのよ」
「管理職と私以外に情報を提供してくれるはずはありませんが……」
「では名前のリストはどこから手に入れたの?」
「そういうことですか。了解しました」
「エリックは早急に、観察部門から異動させた方がいいわね。これ以上いると、もっと余計なことをしそうだわ」
デスクを右手の中指で続けざまにタップしながら、パトリシアが言った。呆れながら人を叱責する時の癖だが、今の場合、対象はアビーではないだろう。
「余計でしょうか?」
「あなたまで興味を持つの?」
「あら、パティー、あなたこそ」
パトリシアは中指をタップするのをやめた。
「どこの部門にいても、エリックは人格データベースに侵入して、データを書き換えようとするでしょうね」
「おそらく」
「例えば?」
それについてパトリシアは既に自分の考えを持っているのに、私に言わせたいのだな、とアビーはまた、思った。
「
「
「理論上は見破れないはずですが? 自分が
「そうね。
「でも、見破るかもしれませんね。
アビーは、ことさら意味ありげな笑みを浮かべながら、言ってみた。いつも鏡の前でいろんな笑顔を練習している。パトリシアは必ずその意図を読み取るだろうと思いつつ。
「人格データ管理部門に、
「依頼ではなく、命令もおできになるのでは?」
「命令は嫌なのよ。部門長から越権行為と言われるから」
「そうですか。では私はこれで。今回はとても疲れました。見て見ぬふりをするって、難しいですね」
「来週もボナンザの観察をするの?」
「あら、毎回希望してるんじゃありませんわ。それに、来週はお休みをいただいているので」
「そう。ではよい休暇を」
オフィスを退室した後、アビーは、そろそろ私も用済みかしら、と考えた。
パトリシアにとっては、シミュレイターの中だけでなく、研究所の全ての人材が管理対象であり、駒なのだ。好きなように使って、好きな時に捨てる。
それが
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