#17:第7日 (4) 近接空間
「ヘイ、メグ!」
彼がリタを呼ぶ声には、いつも愛情がこもっている。そして今は、心配の気持ちも。
それからシーツがまくる音が聞こえたが、声はなくなった。何か、考えごとを?
「どうしたんです? ドクター」
フェードラの声。付いて来たのはやはり彼女だった。しかし今の声は、テオプラストスが混じっている。気持ちが揺れ動いているようだ。
布を引きずる音も聞こえたから、彼女も服を脱がされたのか。シーツで身体をくるんでいるのだろう。何とひどいことを。
しかし、彼女が動揺している理由も解った。女性としての姿を、彼に見られたのだろう。本望ではなかったかもしれない。だが真実を知られることは、シナリオに含まれていたはずだから、しかたない。
「どうやって意識を取り戻させるか、考えてたんだ。しかし、ひとまずここから連れ出そう」
私がロッカーに隠れていることに、彼は気付いているだろうか。先ほどの沈黙の時間に、それを考えていたかもしれない。
彼の“嗅覚”は、意外に鋭い。比喩としても、実際の感覚としても。だから私は変装する時、香水を変えることで、彼の嗅覚を惑わすようにしている。今回は、それに気付かれてしまったもしれない。
それもしかたない。いずれは彼を騙せなくなるのだ。できればそうなる前に、彼には現実世界へ戻って欲しいが……
無言で何らかのやりとりがあったようだ。それからシーツをまくる音、マットレスがこすれる音がした。彼がリタを抱き上げているのだろう。
裸足の足音が先に動き、彼の足音が付いて行く。ドアを開けて、外へ出た
「ヘイ、フェードラ……」
彼はその後もしゃべったようだが、急に聞こえなくなった。そんなすぐに、部屋の前から立ち去るはずはないのに、どういうことだろう?
そもそも、入ってくる時も急だった。何の気配もなく、彼の足音が聞こえてきたのだ。彼らは突然現れて、突然消えたということに。
だが、ここは仮想世界。現実と異なることも起こりえる。こう考えてはどうだろう。リタが囚われていたこの部屋だけ、空間が特別なのだ。私と彼は、共にリタと関係している。だから共に、この部屋から彼女を助け出すというシナリオが用意されていた。
そして船倉のここ以外の場所で、シナリオは重ならない。そう考えれば、私がここへ入る前、彼らはこの向かいの部屋にいたはずなのに、何も声がしなかったという現象に説明が付く。
念のため、もうしばらく動かないでいる。彼らが戻ってくることも考えられるから。
5分待ってから、ロッカーを出た。もちろん、部屋の中には誰もいなかった。シーツが床に落ちている。
そろそろ私も行かねばならない。その前に、部屋の中を改めておく。デスクの上、抽斗、ロッカーの中。何もない。ベッドの下。リタが落としていった物はないか? 何もなかった。
残っていたのはマットレスの上の、彼女の移り香と温かみだけ。
音を立てないようにしながら、部屋を出る。廊下にも誰もいなかった。彼と、フェードラがいた部屋も見ていこう。向かいがおそらくフェードラのいた部屋。ドアが開け放たれている。入ると、舷窓から月明かりが射していた。ベッドの上にロープが残されているが、シーツはなかった。やはり彼女はシーツを身に纏っているのだろう。マットレスは、テオプラストスの匂いがした。
そこを出て、今度はリタの隣の部屋へ。彼がいたはず。ベッドに寝かされていた跡があるだけで、ロープもシーツもない。彼は縛られても、裸にされてもいなかったということか。もちろん、彼の靴音がしたので、服を着ているのは予想していた。
そうなると、彼をここに閉じ込めたのは、私を閉じ込めたのとは違う人物ということになる。彼とリタはSVで、私とフェードラはCLか。
だが、リタの指輪を抜き取ったのは? それはCLだろう。SVがここへ連れてくる前か、あるいは……CLがフェードラを向かいの部屋に入れようとして、ドアを開けたがリタがいたので、その時に……ということかもしれない。そして私を遠く離れた部屋へ連れて行った。
この部屋にも、何か落ちていないか、確認しておく。何もないようだ。
マットレスからは、彼の匂い。アルテムと似ているので、私は彼に近付くと、安心するのだろうか。
アルテムのことは、先ほども思い出した。襲撃者の中に、私はアルテムの“
あの瞬間、私の記憶は混乱した。この
何が目的なのか……私がアルテムに特別な感情を抱いているのが判っても、彼らにとって何の成果にもなりはしないだろうに。
部屋を出る。改めて、廊下を調べる。足跡がいくつか増え、布で床をこすった跡もあった。だがそれらは、部屋の前から少し離れたところで消えていた。やはりリタのいた部屋の前だけが、特別な領域なのだ。
廊下の先に灯りは見えない。しかし注意しながら戻る。あるいは船尾へ向かった方がよかっただろうか?
いや、足跡がヒントになっているのなら、それを追う方がいいだろう。おそらくどこかで、別の足跡を見つけるに違いない。レヴェル1に向かう足跡。
階段まで戻ってきた。彼らは上に行っただろうか。もちろん、足跡はない。上からの階段に付いているのは、3、4人の革靴の跡と、一つのブーツの跡。
では下には? 何もなかった。誰も下りていないということ。しかし、階下を確かめておく。
エレヴェイターの周囲を回るように、階段を下りる。もちろん、そこにも灯りはない。そしてもう下に行けない。ではここがレヴェル1だろう。
だが、足跡はあった。エレヴェイターの扉の前から。裸足の、女の足跡。フェードラの妹、アリアドネに違いない。
しかし彼女はエレヴェイターを使うのだろうか? そうではないだろう。
ドアに、ほんの僅か隙間が空いている。そこに両手の指をかけて、広げてみる。他愛もなく開いた。か弱い少女でも可能だろう。落とし穴のような真っ暗な空間がある。手を放すと、勝手に閉まった。
そうすると、これが通路なのか。
ただ、今はそれを確認するより、足跡を追うことだ。アリアドネはよく夜中に船の中を徘徊すると、ソクラテスやアリストテレスから聞いた。もちろんレヴェル1にも来ているだろう。
足跡は左舷へ向かい、右舷から戻ってきているようだ。決まったコースがあるのだろう。右手の壁の近くを通っている。
左舷の通路に出たら、右へ折れる。船首の方向。
壁伝いに歩く。が、すぐ先で行き止まっていた。ドアがあり、そこへ入った跡が。
入ってみよう。錠は掛かっていなかった。天井の高い部屋。おそらく上のレヴェルと一続きなのだろう。内側のエリアを使った、大型の船倉だ。
大きなコンテナーがたくさん積み上がっている。しかし、荷を積む時の積み方ではない。高さは約2.5メートルで揃っていて、2段以上積んでいるところはなさそうに見える。しかも配置はランダムではないか。
床の足跡は、残念ながら消えてしまった。材質のせいだろう。清掃をした跡もある。
手前の荷物の隙間が、まるで通路のよう。そこへ入ると、道筋はすぐに折れ曲がり、その先は……逆方向へ折れて、すぐに二手に分かれている。まさか……
左へ進むと、少し先でまた分かれ道。右へ入る。少し行って、また折れた先は行き止まりだった。
これは迷路ではないか?
なぜ船倉に、迷路が作ってあるのだろう。
見上げると、天井が高い。ケミカルライトの光が届くはずもないが、上にはクレーンが装備されているのではないだろうか。天井を前後左右、自在に走り、船外とも積み下ろしができるホイスト式クレーンが。それを使って、このコンテナーを積み上げたのに違いない。
足跡の主が、ここで迷路を作り、中で遊んでいるのだろうか?
しかも、真っ暗な中で。
いいえ、その人物の……アリアドネのやりたいことが、だんだんと見えてきた。やはり彼女は一人で遊んでいるのだ。
そして彼女に会うためには、この迷路を解かねばならない。どこにそのヒントがあったのか。このクレタ島か、私が行かなかったデロス島か、それともロドス島か。
しかしヒントがなくても迷路は解ける。時間さえかければ。
時間を省略したければ、強引な手を使うこともできる。通路を通らず、コンテナーの上に乗ってしまえばいいのだ。そうすれば簡単に解けるだろう。
もちろん、彼女が迷路内のどこにいるかを探り当てなければならない。少し広めの空間を作ってあるだろう。そしてそれはおそらく迷路の中央だ。
彼女は左舷から入って、右舷に抜けている。であればこの迷路には入り口と出口がある。その場合、最も迷い道が作りやすいのは、中央に広間を作る場合だから。
そして彼女はこの迷路を、たびたび造り替えているに違いない。誰かが入って来ないようにではなく、自分が憶えてしまうとつまらないから。クレーンの動きをコンピューターで制御して、いくつかの迷路パターンの中からランダムに選び、コンテナーを積み替えて……
では、彼女に会いに行くとしよう。コンテナーの上を通っていくのは、彼女に対して失礼だろうか。私の想像では、彼女は耳がいい。コンテナーを踏む足音に気付いてしまうかもしれない。そうしたら、会えたとしても機嫌を損ねて話をしてくれないだろう。
あるいは逆に、興味を持ってくれるだろうか? 泥棒が来た、と思って。もし彼女が一人で退屈しているのなら、そう感じてくれることもあるだろう。
アリアドネがどういう性格なのか、フェードラに聞いておけばよかったかもしれない。ソクラテスとアリストテレスは、彼女を持て余していて、話してくれなかった。
彼女もまた、3人の兄よりは、唯一の姉であるフェードラの方が気安いだろう。香水を渡したことから解る。彼女はフェードラの心の変化に気付き、手助けするために、調合したのに違いない。そういう愛情に溢れた香りだった。もちろん、フェードラだけに似合うようにしただろう。
私はハンカチにあの香水を染み込ませて持って来たが、それは奪われてしまった。だが調合のレシピは解っている。それを話せば、アリアドネは心を開いてくれるだろうか。
その上で、彼女からターゲットに関するヒントを得なければならない。それはもしかしたら、特別な香水ではないだろうか?
そしてその香水が、ターゲットを獲得するための――どこかにある迷路を解くための――手がかりになるのではないか。
迷路を通って会いに行こう。アリアドネに。
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