#17:第7日 (3) アリアドネの足跡
セッションで彼女の隣に座った時に、この香りを嗅いだ。あと、ブースの車で彼女の後ろに座った時にも。
ポーランド美女が着けていた香水だ。つまり、マルーシャのもの。香水だけではなく、彼女の甘やかな体臭も混じっているから、間違いない。
では、
ソクラテスは、二人が手洗いへ行った後、行方不明になったと言った。タイミングとしては、あり得る。
しかし理由がない。マルーシャは
であればこの香りは、二人が一緒にいた時の移り香だ。
今夜、二人は挨拶する時に抱き合ってなどいない。ではなぜ香りが移ったか。二人の身体が接触するとすれば、一緒にいる時に襲撃を受けて、マルーシャが身を挺して
マルーシャに限って、自分だけ助かって、
「……どうしたんです? ドクター……」
背中に身を寄せてきたテオが囁く。声がフェードラ寄り。怖さで女っぽくなってるんだ。
ああもう、こいつのこと、どう呼べばいいのかな。いっそ“
「どうやって意識を取り戻させるか、考えてたんだ。しかし、ひとまずここから連れ出そう」
連れ出すには抱きかかえなければならないが、片手では無理だ。テオにライターを渡す。先に彼女を見つけてよかったと思う。手助けがいなかったら、暗闇の中で
「ヘイ、フェードラ、さっき君がいた部屋へ戻って、窓から外を覗いてきてくれ。そうすれば……」
「
「何だ、一人だと怖いのか?」
「ああ、いいえ、そうじゃないんです。あなたにフェードラと呼んでもらえたことが、嬉しくて……」
「朝にも呼んだじゃないか」
「でもあれは、女性としての僕で……」
心構えが違うのかよ。その辺りのことは後で聞いてやるから。
「とにかく、見てきてくれ。そうすればここが右舷か左舷が判る」
「え? ああ、景色を見るんですね? でも……」
「ドアを開けたままでいいよ。見ていてやるから」
扱いが難しいなあ。今は心の中が男半分、女半分なんだろう。女として扱うと恥ずかしがるに違いないが、男として扱うのは可哀想だし。その中間なんて解らんよ。
テオは舷側の部屋に入っていったが、すぐに戻ってきた。
「こちらは右舷のようです。下が海でしたから……」
「OK、すると窓に向かって左手が船首だな」
廊下の足跡も、そちらへ続いている。
「フェードラ、君がライターを持って、先導してくれ。ゆっくりでいいぞ」
「解りました。怖いですけど、あなたのためなら……」
普段は男らしくしてたんだから、ここでも勇気を振り絞ってくれよ。しかしテオは、本当に怖そうなゆっくりとした足取りで歩き始めた。俺は歩測しながら付いて行く。
テオの身体を隠すシーツは、裾が長すぎて引きずっている。廊下の足跡を全部消してしまうだろう。何人がここを通ったか、もう知りようがないが、しかたない。
40ヤードほど行ったところでテオが振り返って「左にも通路があります」と言う。
「そっちに階段があるだろう」
「たぶん……」
「行こう」
テオは返事をしなかった。階段を上がればここを出られるかもしれないのに、嬉しくないのか。5ヤードほど行くと「階段があります」とテオ。
右手の壁側に、上り階段。その向こうにあるのはエレヴェイターの扉か。さらに向こうに空いている穴は下り階段だろう。
「上にも下にも行けるよな」
「はい」
「エレヴェイターは動かないよな」
「必要な時だけ電源を入れることになっていたと思いますが……」
「上へ行って、プロムナード・デッキへ出られるか、見て来てくれるかい」
テオがさっと振り返ったが、何とも形容しがたい表情をしている。
「ひ……一人で行くんですか?」
言うと思ったよ。怖がりだな。女なんだからしかたない。
「後ろから付いて行ってやるよ。だが俺はこうして一人抱えてるんだから、ゆっくり上がれ」
「も、もちろん……」
階段を登る。途中で左に折れ、もう一度左に折れて、一つ上のレヴェルへ。しかし、「上への階段は、シャッターが下りています」とテオが残念そうに言う。エレヴェイターの扉の向こう、ライターで照らされたところを見ると、まさにそのとおり。鍵穴を探したが、見つからない。向こう側にあるのだろう。
「上はどうなってたか憶えてるか」
「見たことはありませんが、間違って下へ行かないように、やはりシャッターをしていると聞いたような……」
「じゃあここでシャッターをガンガン叩いても、上では気付かないかもしれないか」
「おそらくそうでしょう。それに、ここへ船員が下りてくるのは、寝る時ですから……」
船員が部屋にいても起きてないと。交替の時間しか人が通らないよな。今はそんな時間帯じゃないはず。
「階段はここだけじゃないだろう。他はどこに?」
「船尾の方です。機関室に近い……」
「そこもここと同じ造りか」
「判りません。ただ、少なくともエレヴェイターはこのレヴェルには止まりません」
「階段も封鎖されてるだろうってことか。しかたない。下りよう」
「どうするんです? まさかレヴェル1まで……」
「そうだよ。君の妹、アリアドネが来てるかもしれないだろう?」
嬉しそうな顔をしない。妹に会うのが嫌なんじゃあるまい。
「確かに、彼女は主に夜に起きて活動してますが……」
「だったらなおさら都合がいいじゃないか。先に下りてくれ」
躊躇してるな。やっぱり怖いか。上がるより、下りる方が“
「協力してくれたら、後で埋め合わせは必ずするよ」
「埋め合わせって……」
「君が満足してくれるようなことだ」
テオの顔がみるみる赤くなっていくのが、暗がりの中でも判った。何を想像したんだろう。
「僕はそんなつもりは! それに、一人が怖くてあなたに付いて来ただけなのに……」
「だったら考えごとより行動だ。ここに考える材料は何もない。そういうときは、怖くても歩を進めることが大事だろ」
「余計なことを考えずに、ですか……」
階段の端の方へ避けてやると、テオが恐る恐る、という感じで下りてきた。そのまま、先に立って下へ。先ほどのフロアからさらに一つ下りる。
そこから下へ行く階段はなかった。確かにここはレヴェル1のようだ。
「ここの造りも君は知らないんだろうな、フェードラ」
「ううっ……あ、あの、この場ではテオと呼んでいただく方が……」
何を照れてるんだ。本名を呼ばれたくらいで。
「この後、フェードラと呼ぶ機会がないかもしれないのに?」
「それはどういう……」
「ここから出られなかったら、そうなるだろう」
「! そんな、まさか諦めるんですか?」
「俺は
「
恥ずかしいからって、ライターの火を消すなよ!
しばらくして、ようやく心が落ち着いたか、テオがライターを点けた。表情がさっきよりフェードラ寄りになったな。そのうち、俺が心の中でも自然にフェードラと呼ぶようになりそうだ。
「どう……しますか、これから。僕が、一人でフロアを歩き回って、見てくるとか……」
「一番いいのは、君とメグがここに残って、俺が見て回ることだな」
テオが嫉妬しないように
「あなたが戻ってるまで……僕が、
「ただ、時間が判らないから君も心細いだろう。時計は持ってないよな」
「ええ、アクセサリーは全部奪われてました。……服も脱がされるんじゃなくて、全部切り裂かれたんです。着けているのは
パンティーだけか。ブラジャーはともかく、タンクトップも着けてなかったのかよ。しかし切り裂くなんて陰湿なことをするのは女だろう。
なら、
それはともかく、行動。
「1秒ごとに数字を数え上げられるかい、フェードラ。15分間、900まで数える間に、戻ってきてやる」
1000より小さい方が、心理的負担は低いはずだが、どうか。
「900まで……うう、不安ですけど、やってみます……そう、
「一緒に数えていればいいさ。そうだ、カウントダウンにしよう。フットボールでゲーム・クロックが減っていくのを、彼女は見慣れている。すぐに意味が解るだろう」
「やってみます……」
テオが気を使って、しゃがみ込んで裾の綺麗なところを床に敷いてくれたので、
「900、899、898……」
「ヘイ、タイムアウトだ、テオ。床に足跡があるぜ。これは誰のだ?」
歩き出す前にライターで床を照らしたら、なんと足跡がたくさん付いていた。俺たちはまだ歩いてないんだから、別人のだ。しかも裸足で小さい。女だろう。
「……フェードラでしょう。彼女はいつも裸足なんです」
「エレヴェイターから続いてるぞ。彼女はエレヴェイターで下りてくるのか」
「ごめんなさい、知りません。僕が彼女と会うのは、いつも彼女の部屋なんです」
「君は普段、船に乗ってないんだったな。知らなくてもしかたないさ」
しかし、足跡をたどっていけばフェードラに会えるかもしれないってことだ。これは15分かからないかもしれんな。まあいい。
「OK、テオ。リスタートだ」
「897、896、895……」
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