#17:第7日 (3) アリアドネの足跡

 セッションで彼女の隣に座った時に、この香りを嗅いだ。あと、ブースの車で彼女の後ろに座った時にも。

 ポーランド美女が着けていた香水だ。つまり、マルーシャのもの。香水だけではなく、彼女の甘やかな体臭も混じっているから、間違いない。

 では、我が妻メグをここへ連れ込んだのはマルーシャなのか。

 ソクラテスは、二人が手洗いへ行った後、行方不明になったと言った。タイミングとしては、あり得る。

 しかし理由がない。マルーシャは我が妻メグのことを好ましく思っているはずで、俺と似合いだと言ってくれた。俺から引き離したりしないだろう。

 であればこの香りは、二人が一緒にいた時の移り香だ。

 今夜、二人は挨拶する時に抱き合ってなどいない。ではなぜ香りが移ったか。二人の身体が接触するとすれば、一緒にいる時に襲撃を受けて、マルーシャが身を挺して我が妻メグを守ろうとした。それ以外にない。

 マルーシャに限って、自分だけ助かって、我が妻メグをむざむざを連れ去られるようなことはないだろう。だから彼女も捕まって、どこかへ幽閉されたわけだ。ただ、それはこの近くの部屋ではなさそう、というだけで。

「……どうしたんです? ドクター……」

 背中に身を寄せてきたテオが囁く。声がフェードラ寄り。怖さで女っぽくなってるんだ。

 ああもう、こいつのこと、どう呼べばいいのかな。いっそ“ギリシャ人グレコ”にするか。いや、それの女性形は“グレカ”だった。中性を意味する名前ってないのかよ。

「どうやって意識を取り戻させるか、考えてたんだ。しかし、ひとまずここから連れ出そう」

 連れ出すには抱きかかえなければならないが、片手では無理だ。テオにライターを渡す。先にを見つけてよかったと思う。手助けがいなかったら、暗闇の中で我が妻メグを抱えてどうしたらいいか途方に暮れていたところだ。

 我が妻メグを両腕で抱き上げて、廊下へ。足跡が続く方へ行っていいのだろうか。そしてそっちは船首か船尾か。

「ヘイ、フェードラ、さっき君がいた部屋へ戻って、窓から外を覗いてきてくれ。そうすれば……」

ああ、神様オー・セー・モウ!」

「何だ、一人だと怖いのか?」

「ああ、いいえ、そうじゃないんです。あなたにフェードラと呼んでもらえたことが、嬉しくて……」

「朝にも呼んだじゃないか」

「でもあれは、女性としての僕で……」

 心構えが違うのかよ。その辺りのことは後で聞いてやるから。

「とにかく、見てきてくれ。そうすればここが右舷か左舷が判る」

「え? ああ、景色を見るんですね? でも……」

「ドアを開けたままでいいよ。見ていてやるから」

 扱いが難しいなあ。今は心の中が男半分、女半分なんだろう。女として扱うと恥ずかしがるに違いないが、男として扱うのは可哀想だし。その中間なんて解らんよ。

 テオは舷側の部屋に入っていったが、すぐに戻ってきた。

「こちらは右舷のようです。下が海でしたから……」

「OK、すると窓に向かって左手が船首だな」

 廊下の足跡も、そちらへ続いている。

「フェードラ、君がライターを持って、先導してくれ。ゆっくりでいいぞ」

「解りました。怖いですけど、あなたのためなら……」

 普段は男らしくしてたんだから、ここでも勇気を振り絞ってくれよ。しかしテオは、本当に怖そうなゆっくりとした足取りで歩き始めた。俺は歩測しながら付いて行く。

 テオの身体を隠すシーツは、裾が長すぎて引きずっている。廊下の足跡を全部消してしまうだろう。何人がここを通ったか、もう知りようがないが、しかたない。

 40ヤードほど行ったところでテオが振り返って「左にも通路があります」と言う。

「そっちに階段があるだろう」

「たぶん……」

「行こう」

 テオは返事をしなかった。階段を上がればここを出られるかもしれないのに、嬉しくないのか。5ヤードほど行くと「階段があります」とテオ。

 右手の壁側に、上り階段。その向こうにあるのはエレヴェイターの扉か。さらに向こうに空いている穴は下り階段だろう。

「上にも下にも行けるよな」

「はい」

「エレヴェイターは動かないよな」

「必要な時だけ電源を入れることになっていたと思いますが……」

「上へ行って、プロムナード・デッキへ出られるか、見て来てくれるかい」

 テオがさっと振り返ったが、何とも形容しがたい表情をしている。

「ひ……一人で行くんですか?」

 言うと思ったよ。怖がりだな。女なんだからしかたない。

「後ろから付いて行ってやるよ。だが俺はこうして一人抱えてるんだから、ゆっくり上がれ」

「も、もちろん……」

 階段を登る。途中で左に折れ、もう一度左に折れて、一つ上のレヴェルへ。しかし、「上への階段は、シャッターが下りています」とテオが残念そうに言う。エレヴェイターの扉の向こう、ライターで照らされたところを見ると、まさにそのとおり。鍵穴を探したが、見つからない。向こう側にあるのだろう。

「上はどうなってたか憶えてるか」

「見たことはありませんが、間違って下へ行かないように、やはりシャッターをしていると聞いたような……」

「じゃあここでシャッターをガンガン叩いても、上では気付かないかもしれないか」

「おそらくそうでしょう。それに、ここへ船員が下りてくるのは、寝る時ですから……」

 船員が部屋にいても起きてないと。交替の時間しか人が通らないよな。今はそんな時間帯じゃないはず。

「階段はここだけじゃないだろう。他はどこに?」

「船尾の方です。機関室に近い……」

「そこもここと同じ造りか」

「判りません。ただ、少なくともエレヴェイターはこのレヴェルには止まりません」

「階段も封鎖されてるだろうってことか。しかたない。下りよう」

「どうするんです? まさかレヴェル1まで……」

「そうだよ。君の妹、アリアドネが来てるかもしれないだろう?」

 嬉しそうな顔をしない。妹に会うのが嫌なんじゃあるまい。

「確かに、彼女は主に夜に起きて活動してますが……」

「だったらなおさら都合がいいじゃないか。先に下りてくれ」

 躊躇してるな。やっぱり怖いか。上がるより、下りる方が“奈落に落ちるフォール・イントゥ・ジ・アビス”ようで、もっと怖いのは当たり前だけど。

「協力してくれたら、後で埋め合わせは必ずするよ」

「埋め合わせって……」

「君が満足してくれるようなことだ」

 テオの顔がみるみる赤くなっていくのが、暗がりの中でも判った。何を想像したんだろう。

「僕はそんなつもりは! それに、一人が怖くてあなたに付いて来ただけなのに……」

「だったら考えごとより行動だ。ここに考える材料は何もない。そういうときは、怖くても歩を進めることが大事だろ」

「余計なことを考えずに、ですか……」

 階段の端の方へ避けてやると、テオが恐る恐る、という感じで下りてきた。そのまま、先に立って下へ。先ほどのフロアからさらに一つ下りる。

 そこから下へ行く階段はなかった。確かにここはレヴェル1のようだ。

「ここの造りも君は知らないんだろうな、フェードラ」

「ううっ……あ、あの、この場ではテオと呼んでいただく方が……」

 何を照れてるんだ。本名を呼ばれたくらいで。

「この後、フェードラと呼ぶ機会がないかもしれないのに?」

「それはどういう……」

「ここから出られなかったら、そうなるだろう」

「! そんな、まさか諦めるんですか?」

「俺は逆転カムバックが好きだから、諦めないよ。それに楽しみは後にしない主義なんだ。特に、今できることを後の楽しみに取っておくなんて、つまらないね。君をフェードラと呼ぶくらい、この世が終わるまで続けられるのにさ。それにフェードラと呼ぶと、君はとてもいい顔をするよ。もっと見たいね」

ああ、神様オー・セー・モウ!」

 恥ずかしいからって、ライターの火を消すなよ!

 しばらくして、ようやく心が落ち着いたか、テオがライターを点けた。表情がさっきよりフェードラ寄りになったな。そのうち、俺が心の中でも自然にフェードラと呼ぶようになりそうだ。

「どう……しますか、これから。僕が、一人でフロアを歩き回って、見てくるとか……」

「一番いいのは、君とメグがここに残って、俺が見て回ることだな」

 テオが嫉妬しないように我が妻マイ・ワイフではなくメグと呼んでおく。

「あなたが戻ってるまで……僕が、奥様ユア・ワイフを見守るんですね。でもライターは一つしかないから、真っ暗な中で……」

 奥様ユア・ワイフって言うなよ。せっかくの俺の心遣いが台無しだ。

「ただ、時間が判らないから君も心細いだろう。時計は持ってないよな」

「ええ、アクセサリーは全部奪われてました。……服も脱がされるんじゃなくて、全部切り裂かれたんです。着けているのはボトムだけで……」

 パンティーだけか。ブラジャーはともかく、タンクトップも着けてなかったのかよ。しかし切り裂くなんて陰湿なことをするのは女だろう。

 なら、我が妻メグを幽閉したのは男? 中折れ帽ブリム・ハット記者ジャーナリストが協力したのか。記者ジャーナリストは誰に対しても反抗的な感じだったから、協力しそうにないけどな。

 それはともかく、行動。

「1秒ごとに数字を数え上げられるかい、フェードラ。15分間、900まで数える間に、戻ってきてやる」

 1000より小さい方が、心理的負担は低いはずだが、どうか。

「900まで……うう、不安ですけど、やってみます……そう、奥様ユア・ワイフの意識が戻ったら、どうすれば……」

「一緒に数えていればいいさ。そうだ、カウントダウンにしよう。フットボールでゲーム・クロックが減っていくのを、彼女は見慣れている。すぐに意味が解るだろう」

「やってみます……」

 我が妻メグの身体を廊下に置かねばならないが、その前にテオのをちょいと借りて、埃を拭く。裾は歩き回ったせいですっかり黒ずんでいた。

 テオが気を使って、しゃがみ込んで裾の綺麗なところを床に敷いてくれたので、我が妻メグをそこへ横たえる。ライターを受け取る。OK、カウントダウン、スタート。

「900、899、898……」

「ヘイ、タイムアウトだ、テオ。床に足跡があるぜ。これは誰のだ?」

 歩き出す前にライターで床を照らしたら、なんと足跡がたくさん付いていた。俺たちはまだ歩いてないんだから、別人のだ。しかも裸足で小さい。女だろう。

「……フェードラでしょう。彼女はいつも裸足なんです」

「エレヴェイターから続いてるぞ。彼女はエレヴェイターで下りてくるのか」

「ごめんなさい、知りません。僕が彼女と会うのは、いつも彼女の部屋なんです」

「君は普段、船に乗ってないんだったな。知らなくてもしかたないさ」

 しかし、足跡をたどっていけばフェードラに会えるかもしれないってことだ。これは15分かからないかもしれんな。まあいい。

「OK、テオ。リスタートだ」

「897、896、895……」

 時計クロックを900に修正リセットしてもらうのを忘れたよ。まあいい。廊下を照らしながら、足跡をたどる。

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