#17:第6日 (7) 船上のディナー

 最終日なのでシミュレイションは5時に終了。撤収にかかるのだが、ブースの解体や箱詰めは運送業者がやってくれる。もちろん、いろいろと指示する役目が必要だが、それはミキ、ナナ、エリック、アビーが対応する。オリヴァーとトリッシュは本日のレポート作成及び全日程のまとめ。

 俺だけ仕事がないのかというとそうではなくて、ソクラテスや国際会議の事務局員が挨拶に来るので、応対しなければならない。とはいえ、全体の運営がどうだったかとか、会場の雰囲気がよかったかとか、他の展示の感想とかを述べるくらい。しかし5日中3日はここにいなかったのに、俺が答えていいものかどうか。

「財団の展示、特にシミュレイターは好評だったようだな。私が見に来た時もそうだが、弟たちに聞いても体験希望者の列が途切れたことがないとか」

 ソクラテスがお世辞らしきことを言ってくれる。本当に好評だと思ってるなら、内容に言及してくれよ。

「カット・モデルが目立ってたし、大画面で動くものを見せると人が寄ってくるんだよ。少し音が大きくて、隣のブースには迷惑をかけたらしい」

「事務局にクレームは上がらなかったと聞いている。当事者間で協議して片付いたのなら特に問題はない」

 隣で事務局員が頷いている。どこか他でトラブルがあったのだろうか。聞く必要もないけど。

「ところでミセス・ナイトは」

 なぜそんなことを訊いてくる、ソクラテス。

「着替え中だ。プロモーショナル・モデルの手伝いをしたんでね」

「彼女が?」

「ところでディナーに招待いただいてありがとう。我が妻マイ・ワイフ共々楽しみにしている」

 そっちの方に話を逸らしておく。事務局には関係ないけどな。話しているうちに我が妻メグが着替えを終えて戻ってきた。もちろん朝と同じ姿。ただ化粧が少し濃いな。モデルのために濃くしたんだろうが、落としてないんじゃないか?

 ソクラテスと事務局員が笑顔で我が妻マイ・ワイフにも挨拶をする。事務局員は初めて会ったろうに、何を必要以上に親しげにしてるんだ。

 二人が他へ行ってしまったので、我が妻メグにモデルのことを訊く。

「ジェニーがとても疲れていると思ったから、お手伝いしたかったのよ」

 いや、それは解ってる。と、そこへジェニーが着替えを終えて戻ってきた。普通の若い女の服装だな。化粧もモデル仕様から普通並に落としてある。我が妻メグと抱き合って挨拶。何だ、やけに仲良くなってるなあ。俺には抱き付いてくれないのか。そうか。

奥様ユア・ワイフに手伝っていただいて、本当に助かりました!」

「体調が悪かったのか。働かせすぎたのなら申し訳ないことをしたな」

「いえ、昨日の夜遅くまで、財団の皆さんと飲んでいたのが悪かったみたいで」

 夕食会の後で、エリック、チャンドラセカール、ミルコと一緒に飲みに行った? 夜中の1時まで? あいつら、余計なことをしやがって。

「とにかく君が進行をしてくれたおかげでシミュレイターはとても好評だったようだ」

 ソクラテスと事務局員が褒めていたと言っておく。

「私もやっていてとても楽しかったです! こんな楽しい仕事は初めてでした。また財団の仕事があったら呼んで下さい!」

 ジェニーが満面の笑みで言う。いやあ、さすがに今後ギリシャでの仕事はないと思うねえ。体調が万全ではないので、今日の打ち上げ夕食会には不参加だそうだ。

「ところで、クロニスのディナーには誰が参加するか、ミスター・ソクラテスに訊いた?」

 我が妻メグがさらっと言う。訊いてるわけないだろ。いいじゃないか、そんなのどうだって。訊きたけりゃさっき君が訊けばよかったんだよ。着ていくのも、普通のフォーマルでいいよ。

 6時半に撤収が完了。皆と一緒にバスでホテルに帰る。部屋へ戻って着替え。俺はあっという間に終わるのだが、我が妻メグは時間がかかる。化粧もやり直し。パーティーではないので、華美になりすぎないように抑えている。最上級ビジネス仕様ってところか。

 ちょっと思い付いて、マルーシャからもらった香水を我が妻メグに評価してもらう。ただし、セッションの発表者からサンプルでもらった――あの匂いの実験をした女から――ということにしておく。

「いい香りだけど、とても若々しい感じね。私にはさすがに合わないわ」

「そうかな、君にも合うと思うけど」

「でも着けてからの時間によって変わるのよ」

 香水はいくつもの匂い成分を混ぜて調合するが、それぞれの揮発速度が違うので、時間が経てば香りが変わってくる。

 最初の5分から30分くらいまでの香りをトップ・ノート、その後3、4時間までをミドル・ノート、最後まで残る香りをラスト・ノートという。どの頃合いに、一番いい香りを漂わせたいかで、香水の選び方も異なるわけだ。

 ちなみに我が妻メグが使っているのはドルチェ&ガッバーナの『ライト・ブルー』。全米で最もよく売れている銘柄で、特別仕立てを好まない我が妻メグらしいと言える。マルーシャからもらった香水は、使う予定はないがジャケットのポケットに入れて行くことにした。お守りチャームのようなものだ。


 我が妻メグの準備ができたらタクシーで港に向かう。船は、火曜日に昼食を摂ったレストランの前に、まだ停泊していた。船首の両側に船の名前が書いてある。"Ariadneアリアドネ"。

 おいおい、今まで気が付いてなかったぞ。これもターゲットに関係してるんじゃないのか。しかし今さら船の周りをうろちょろするわけにはいかず、タラップを登る。

 上に執事のような黒服の優男が立っていた。名前を告げると「お待ちしておりました。あちらへどうぞ」と恭しく言われ、そこに控えていた船員の案内で連れて行かれる。

 同じデッキのレストランに案内されたが、客船時代のままらしく、やたらと広い。しかしそこが満員になるほどの客はいないようで、真ん中辺りの大きめの丸テーブル五つほどに、食器カトラリーが用意されていた。全部で30人ほどのようだ。

 まだ誰も席に着かず、少し離れたところに固まって、立ったまま食前酒を飲んでいる。

 そこへ挨拶に行く。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3人が揃っていた。この3人が同時にいるのを初めて見た気がする。

「ようこそ、ナイト夫妻」と言ってくれたが、3人とも俺より我が妻メグへの挨拶が手厚い。もちろん俺もこの手の社交は我が妻メグに任せることにしているので、無駄なしゃべりをしないで済むのは楽でいい。

 その他の客は、見たことがあるのもいるし、ないのもいる。見たことがあるのはたいていがブースに立っていた奴だ。ないのは事務局関係だろう。

 誰も彼もがパートナーを連れているが、見たことがある奴の中には、この二人がそういう関係だったのか、と思うようなのもいる。

 つまりパートナーを連れていないのは、クロニス兄弟くらいだろう。全員独身なのか。ソクラテスは解ってたし、アルキメデスも我が妻メグにやたら色目を使ってたので独身だろうとは思っていたが、プラトンもそうだったとはね。デロス島にいた美少年が、浮気の証拠でも握っているのかと考えてたけど、違うようだな。

 しばらく歓談しているうちに――俺は我が妻メグの横に立っているだけで、酒を飲みもせず話もほとんどしていないが――客が途切れ途切れに現れる。そして8時になる直前、マルーシャがやって来た。

 いや、見かけはポーランド美女だ。それなのに、圧倒的な美しさを全身から放っている。歓談が途切れて、その場にいた連中全員の視線が――もちろん男だけでなく女も――彼女の方へ移ったほどだ。

 服はゆったりとした袖なしスリーヴレスの紺のロング・ドレスで、華美ではなく、胸元の露出も控えめ。ただし胸の大きさは昼間より確実に2インチ大きくなっていた。俺の奨めを実行してくれたわけだ。

「まあ、あの方、確かポーランドの……」

 我が妻メグまで彼女に目を奪われている。どこで会ったんだっけ。ああ、クノッソスへ行った時か。しかしマルーシャと同一人物であるとは気付かないようだ。知っているのは俺だけだろう。

 だが知っていてすら、別人だと思うほどの違いがある。人類の美しさの頂点にいるはずなのに。

 何が違うのか、言葉で説明できない。ポーランド美女の方が知的、というわけでもない。マルーシャは元々芸術家独特の雰囲気を持ちながら、高い知性も感じさせていたんだから。それは一流の研究者にも共通する特徴だ。優れた研究者は、研究に対する“美学”を持っているからそうなる。

 それでも敢えて違いをひねり出すとしたら、“孤独感”だろうか。芸術家の中でもオペラ歌手や楽器演奏者は、同業者との協調性を持っている必要がある。孤高の存在ではあり得ない。だが研究者は違う。分野にも依るが、孤高の存在はいる。ポーランド美女は、常に寂しそうだった。

 とはいえ、マルーシャが表情も、冷たさと同時に孤独感を漂わせているのだが。

 しかし彼女は一人ではなかった。付き添いがいる。といっても、テオだった。一人で参加する彼女の、エスコート役を務めることにしたのだろう。ポーランド美女の希望かな。

 うん、ちょっとややこしくなってきた。見かけはポーランド美女つまりミズ・エレンスカなのだが、この場ではもうマルーシャということにしよう。俺が彼女の名前を呼ぶ時だけ注意すればいい。もっとも、呼ぶ機会はないんじゃないかな。

 マルーシャがテオに付き添われて、皆の輪に加わる。クロニス兄弟はもちろん、他の男たちも大歓迎の笑顔で彼女を迎える。男ども、自分のパートナーをほったらかしにするなよ。

 もちろん俺はその場を一歩も動かず、マルーシャを囲む輪を遠巻きに眺めているだけで、我が妻メグの元を離れない。むしろ、我が妻メグが彼女の近くへ行って挨拶したそうに見える。女なのに、どうして美女に興味を示すんだろう。

 マルーシャがこの場の注目を全てさらったようだと思って見守っていたら、別の客が来た。人数的にどうやら最後の客ではないかと思うが、これが中折れ帽ブリム・ハット野郎・ガイことヴァンダービルト氏じゃないか。

 制服ユニフォームのように着ていたカーキ色の上下ではなく、チェックのツイード・ジャケットを羽織っている。そして同伴している女は、リンドスのアクロポリス神殿に現れた東洋系オリエンタルだ。

 いいのか、こんなところに連れて来て。アリストテレスが恐慌パニックを起こすんじゃないか。見ていると平静を保っているようだが、野郎と女には一歩も近付こうとしない。ソクラテスだけは冷静に挨拶しているが、態度がおざなりなのは見え見えだな。

「全員揃ったので」とソクラテスが言って、食事の席に着く。

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