#17:第6日 (6) 黄泉の国

 ブースに戻って、驚いた。プロモーショナル・モデルが二人に増えている。もちろん、ギリシャ人じゃない。我が妻メグだ!

 白いブラウス、白いボレロに、黒いロング・パンツ。それはどこで手に入れたんだよ。横で楽しそうに見ているミキに訊く。傍観すんな。

「モデルは服を2着もらってるんです。もちろん1着は予備ですけれど、メグはジェニーより少し背が低いですから、ブラウスの袖やパンツの裾を少し手直しして……」

 手直しって、裁縫セットでも持っていたっていうのか? 持ってたのか。さすが我が妻メグ。いや、そんなことに感心してる場合じゃない。

「まさか彼女が自分でやりたいって言ったとか?」

 当然、という感じでミキが頷く。そりゃ、元々けしかけたのは俺だけど。

「ジェニーは5日目で、とても疲れてるんですわ。笑顔で隠してますけれど、私もメグも気付いたんです。それでメグが、交替でやりましょうと……」

 それは解るけど、パフォーマンスが完璧じゃないか。朝からの1時間半ほどであそこまで慣れたってのか?

 まさか我が妻メグに、コンシエルジュやツアー・ガイドだけでなく、プロモーショナル・モデルの才能があるとは思わなかった。意外と万能人ヴァーサタイラーなのかも。

 ただ、年齢がちょっとね。おそらくこの会場内で最高齢のモデルだろう。

「ところで昼食は」

「あなたは1時からセッションの司会チェアマンですので、今から行って下さい。一緒なのはエリック、アドリアンヌ、リディア、サトシ、ジェニー……」

「メグは一緒じゃないのか」

「ジェニーが休憩に行くときは、メグに進行をしてもらわないと」

 だったら我が妻メグとジェニーの順番を交替しろよ。なぜダメなんだ。ジェニーの疲れがピーク? この後も1時間ごとに休憩させる予定? しょうがないなあ。

「ワォ、ワォ! ドクター・アーティー、奥様ユア・ワイフにお手伝いいただいて、ありがとうございます!」

 疲れてなさそうな笑顔でジェニーが言う。でもこの昼休みに話したいのは君じゃない。ナカジマだ。彼ってサトシって名前だったのか。ゲームのキャラクターにいなかったか? まあどうでもいい。

 食事エリアへ行く。他の連中を適当に座らせながら、ナカジマの向かいに座る。彼はアマルフィのナカムラほど話さないのは判っている。

我が妻メグが、君から聞いた日本神話が面白いと言っていた」

「神話。ああ、話したね」

 物静かな笑顔でナカジマが答える。日本人らしい表情だ。

「太陽神が隠れた洞窟が日本各地にあるというのは本当?」

「本当だよ」

 一番有名なのがイセにある“天の岩屋”。海岸沿いにある、おそらく海蝕洞。有名な伊勢神宮イセ・シュラインに参拝する人は、おおかたそこも見ていくらしい。

 その次に有名なのがタカチホにある天岩戸神社。山の中の、かなり大きな洞窟で、おそらく溶岩洞。中に鳥居が建っているそうだ。

 ナカジマはわざわざ地図を描いて教えてくれた。イセは長細い日本列島の中央あたり、タカチホはずっと西のキューシューという島にある。あまりにも場所が違いすぎる。

 他にも、と言ってナカジマは洞窟の場所を地図に書き加えていく。奈良にあり、タンゴにあり、アワジにあり、オカヤマ、トクシマ、ヤマグチ、そして沖縄にまで。

「もっとあるはずだけど、全部は憶えていない……」

 いや、これだけ憶えているだけでもたいしたものだって。というか、どうしてそんなこと憶えてるんだよ。

「子供の頃に本で読んだから」

「他に洞窟と関係があるようなエピソードはあるか」

「洞窟……さあ、思い付かない」

 ナカジマは首を捻りながら考えていたが、しばらくして「洞窟ではないけれど」と言う。

「死者の国のエピソードがそれに近いかも」

「ぜひ聞かせてくれ」

「日本では黄泉ヨミと呼ぶんだが」

 神話では概ねどこでも死者の国は地底にある。日本でも同じ。ただし、山にあるという解釈もある。

「現世と死者の国を結ぶのは黄泉比良坂ヨモツヒラサカという坂道だが、これが地底へ下りる坂とする場合と、山へ登る坂とする場合がある」

「天上界と冥界の違いかな」

「いや、天国と地獄という区別ではないようだ。とにかくあの世とこの世は坂道で地続きで」

 人は死ぬと黄泉へ行くが、生きている者が死者に会うために黄泉へ行くこともできる。神話で日本を作ったのはイザナギとイザナミだが、イザナミは子を産んだ後で亡くなり、黄泉へ行った。イザナギは悲しくて彼女に会いたいあまり、坂を通って黄泉を訪れた。

 暗闇の中で会った後、一緒に現世へ帰ろうとイザナミを誘う。イザナミは「黄泉の神々と相談するが、私の姿を見ないで欲しい」と言って去る。

 しかしなかなか戻って来ないので焦れたイザナギは灯りを点け、腐爛した姿のイザナミを見る。驚いて逃げるとイザナミが追ってくる。坂の途中に大岩を立てて道を塞ぎ、ようやく逃れることができた。

「ところで『見てはいけない』というのはギリシャ神話にも同様のエピソードがあるらしい」

 竪琴の名手オルフェウスの妻はエウリュディケが毒蛇に咬まれて亡くなる。オルフェウスは冥界へ行き、ハデスに妻を生き返らせて欲しいと頼む。ハデスは「連れて帰ってもいいが、地上に戻るまでは決して振り向いてはいけない」と言う。

 地上まであと少しのところで、オルフェウスは後ろから来るエウリュディケを心配して、振り返ってしまう。エウリュディケは冥界へ引き戻される。

「こうして『見てはいけない』という条件は、神話では必ず破られるわけで」

「見るなと言われれば見たくなるのが人のさがだし、見なければストーリーとして成立しないよな」

「ええ、神話は悲劇が好きだからね」

 洞窟と黄泉の話を聞いているだけで、休憩時間が終わってしまった。ナカジマに礼を言い、俺は1時からのセッションへ。

 しかし今の話はターゲットと関係があるのかな。獲得した後で「振り返ってはいけない」という条件が付く? ダメだ、俺は振り返りそうだなあ。

 さて、セッション。テーマは『見えない流れの可視化とシミュレイション』。

 発表者は5人で、それぞれのテーマは大気汚染、騒音、匂い、噂、そして熱。第一印象では、このうち噂だけは可視化できない気がする。その他の四つはセンサーを使えば“計算機上”では可視化できそうだ。

 待てよ、匂い? さっきマルーシャから香水をもらったな。何か関係があるだろうか。これは真面目に聞くことにしよう。発表者はフランス人。また国立科学研究センターCNRSの研究員だ。ただし女性。

 部屋の中で、匂いがどのように伝わるかの実験を行った。部屋の大きさは30メートル×16メートル。バスケットボールのコートより少し広い。ただし天井は低い。2メートルほど。そこに天井まで届く衝立をたくさん置いて、簡易な迷路を作る。通路の幅はちょうど1メートル。入り口から出口まで、通り抜けられる道は一つ。袋小路もたくさんある。

 さて、入り口付近に香水の入った皿を置く。また、入り口から出口に向かう、ごく緩やかな風の流れを作る。当然、匂いは“通り抜けられる道”を伝わって出口に届くであろう。しかし袋小路の末端にも、十分に時間を置けば届くはずである。

 なぜなら匂いというのは空中に“匂い物質”が飛散する現象であって、濃度差が生じるならば、物質は濃い方から薄い方へと拡散するはずである。よって空気の流れが少ないところにも届く。

 到達時間は袋小路の長さにも依るだろう。しかし道の曲がり方に依存するだろうか? 迷路内に多数の匂いセンサーを設置し、その流れを追う実験をした。

 またそこから得られた結果に基づき、計算機上で様々な迷路を作ってシミュレイションを行った。さらにそれを実際の迷路へフィードバックして結果を検証した。

 ……可視化という点では不十分な気がするが――匂いの伝搬を迷路上にカラー・ドットで表示しただけだ――、匂いが複雑な経路を通って伝わるかという実験は面白いだろう。しかし衝立の継ぎ目や天井・床との隙間から匂いが漏れて伝わるかもしれない、という危惧はクリアしてるのかなあ。

 さて、質問は。聴講者からはなし? じゃあ俺が。

「これを部屋の中ではなく、複雑な形状の洞窟でできないものかね」

「この研究では通り抜けられるのが一本道という制限を付けてしまったので、それを満たす洞窟があればできるのですが、まだ探していません。それに洞窟というのは出入り口が一つしかないものが多くて、入り口から出口に風を流す、というのがやりにくいものですから」

「換気もできないから、複数の実験がやりにくいな。香水の種類を変えるくらいか」

「いえ、複数の香水をきちんとセンサーも今のところないものですから」

「迷路内の匂いの濃度差を感じ取って、迷路を抜けることができるかという試行は面白いんじゃないか」

「考えてみます」

「ところでこの研究はどんな応用が」

「建物内でガスや煙のセンサーを、どこに配置すれば効率的かにつながると思っています」

 効率的って、そんなのケチることないだろ。一定間隔でたくさん設置しろよ。身の安全がかかってるんだから。

 他の4人の発表は、考えごとをしながらだったので聞き流してしまった。もちろん、質問と最後の講評はしたけど。

 さて、与えられた役目はこれで終了。財団のブースに戻る。もう他のブースを見て回る必要もないだろう。

 んん、何だ、この混雑は。財団のブースの周りに人だかりが。こんな時間からなぜ集まってくる? もうほとんど終わり頃だぞ。

 シミュレイターの車の周りで、プロモーショナル・モデルが動き回っている。我が妻メグ! 何をそんなに張り切っているのか。周りで見ている人からの質問には、財団の研究者が随時対応してるはずだろ。どうして君がそれをしてるんだよ。

 しかもあの嬉しそうな顔。確かにあんな笑顔で説明してもらったら、聞く方も楽しいよな。しかし、彼女だけが目立ちすぎてるだろ。注意しないといけないが、直接はよくないな。

「ヘイ、ミキ、あれはどういうことだよ。我が妻マイ・ワイフに働かせすぎだ」

「でも彼女が自発的にやってくれているし、好評なのよ」

 何だよ、それは。勝手にさせすぎだろ。ちゃんとコントロールしろよ。

「技術的なことに正しく答えられてるのか?」

「彼女が解らないことはちゃんと研究員に聞いているはずよ」

 本当かなあ。しかしそれより、他のことを心配した方がいいかもしれないな。個人的なことを訊かれてるんじゃないか、とか。

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