#17:第6日 (3) 2インチの違い
フェードラが帰ってきた。エントランスから急ぎ足で、ロビーを横切り、ソファーで待っている私のところへ来る。その美しい顔に浮かぶ満面の笑みを見れば、彼との邂逅が成功に終わったことが、容易に理解できた。
「ああ、ゼスピニザ・エレンスカ! こんなに嬉しいことがあるでしょうか? 僕はこの喜びを、どんな言葉にもできません! 彼が……彼が僕の手を握って、『君のことは忘れない』と言ってくれたんです!」
立ち上がって迎えた私の胸の中にフェードラは飛び込んできて、早口でまくし立てた。その美しさで、ロビーにいる全ての人の注目の的になっていることに、気付きもしない。だがそれも無理はない。彼女がその美しさを見せたいのは彼だけで、他の人のことは全く眼中にないのだから。
「お気持ちはよく解りますわ、ゼスピニザ・フェードラ。ですが、少し落ち着いて下さい。まずお部屋へ行きましょう。普段のあなたに戻らなければなりません」
「ああ、そうでした。化粧を落とさなければ。それにこの後、彼に会って、あれが僕であったのを見抜かれていないことを確かめないといけないのでした。そこまでが計画なのですから」
急いでエレヴェイターに乗る。しかしカゴの中でフェードラは、ビーチで彼に姿を見せた瞬間から、そのときの彼の態度と表情、交わした言葉、そして別れの様子を蕩々と私に語った。その精緻さから、全ての光景が彼女の記憶に焼き付いていることを、容易に理解できた。
本来なら一生残る記憶だろう。だがあと40時間あまりしか継続しないのだ。このステージがクローズするから。それは私にとっても残念なことだった。
部屋に戻り、鏡の前に座っても、フェードラは彼のことを話し続けた。ただ、手だけは正確に動いて化粧を落としていく。そしてものの数分で、テオプラストスが還ってきた。あとはスーツに着替えるだけ。
「キリエ・テオプラストス、一つだけ注意したいことが」
意識もテオプラストスに戻すため、私は呼び方を変えた。だが「何でしょう?」と答える声は、まだフェードラに近かった。
「予定ではこの後、彼のホテルへ行って朝食前に挨拶することになっていましたが、変更しなければなりません。彼が、このホテルへ来ます」
「何ですって?」
テオプラストスは同様の表情を見せた。まだ戻りきっていない。
「このホテルにカナダからの観光客がお泊まりです。ミス・ジェイド・ブラックモアとおっしゃる
「そ、そうなんですか。なら、時間的にかなり余裕がある……」
向こうのホテルへ行くことまで考慮して計画を立て、そのために化粧を素早く落とす練習をしたのだった。向こうからこちらへ来るのなら十分以上も余裕が生まれることになる。
だが姿は男性的に戻っても、精神はまだ女性的のままだ。移動中にそれを補正する予定だった。それをここで実行した方がいいだろう。
さほど難しいことではない。私の女性らしさに対して、テオプラストスが紳士的な態度を取るようにすればいい。彼の中の男性性を呼び戻すにはそれで十分のはずだった。
しかし、なぜかうまくいかないようだ。
「ゼスピニザ・エレンスカ、少し恥ずかしい告白をしなければなりません。実は彼と別れる瞬間、僕はあまりの悦びに、その……女性としてのエクスタシーを体感してしまったんです。ほんの少しだけ。その余韻がまだ身体の奥に残っているらしくて、男性に戻りきれないのですよ」
テオプラストスはあどけない少年のように頬を染めて言った。
「お察ししますわ。あなたはそれだけ、彼のことを大切に思っていらっしゃるのでしょう。そして男女の関係を求めていらしたのですね」
「前にも言いましたが、そういう場面を想像したつもりはなかったのです。しかし潜在意識では望んでいたのでしょうね。あるいは寝ている間に夢を見たかもしれません。全く憶えていないのですが」
「でも昨夜、寝る前から女性的な気持ちになっておられたのでしたね。意識的には想像しなくても、無意識があなたの性知識と結びつけることは考えられますわ」
「ゼスピニザ・エレンスカ、あなたはどうですか? 好きな人とデートをする前日に、無意識のうちに身体が欲するということは……」
「もちろん、ありますわ。夜中に突然目が覚めて、気が付くと身体が……ということもありますから」
「そうでしたか。おそらく僕の性的な経験不足のせいなのでしょうね。しかし、もう大丈夫です。テオプラストスとして、彼に会う心の準備ができました」
話しているうちに彼の表情や仕草が変わっていくことは、私も気付いていた。しかし、準備ができたと彼は言うが、100%でないのは私の目には明らかだった。
加えて、香水はどうするつもりだろう? 私がそれを指摘すると、テオプラストスは慌てて男性用のフレグランスを着けたが、あの若々しい薔薇の香りは微かに残っている。
私が気付くだけだろうか。そういえば、彼の香りに対する知識は、私の記憶に多くない……
シャワーを浴びてバス・ルームから出てくると、出掛ける用意を終えた
「いつの」
「今夜に決まってるじゃないの」
「今夜の招待を朝に通知するとはなあ」
「あら、でも、一昨日くらいから彼はたびたび、埋め合わせするっておっしゃってたし」
まあね。そういう意味では、ちゃんと予想ができたよな。今夜しか機会がないんだから。
「他にどんな方が招待されているのかしら。フォーマルは1着しか持って来ていないから、格が合うか心配だわ」
別に気にすることないだろ、主賓でもあるまいし。それにいい服着たって、中身は変わりゃしないんだから。
「その心配は夕方でいいよ。合わないなら買えばいいだけさ」
「そんな贅沢なことできないわ」
とにかく後でいいんだと説得して、アポロニアのレストランへ行く。ジェイドが待っていた。ローブではなく、平凡なレジャー用の服を着ている。ローブ以外を見たのはこれが初めてなのだが、目立たない、普通の観光客だなあと思う。例の眼鏡をかけて美形を隠してるし。
ビュッフェの料理を取って、窓際の明るい丸テーブルに着く。「昨日はどこへ?」などと
ヴェニス風……って、ミコノス島で見たよな。もちろん、それよりも規模が大きいんだろうけど。なぜギリシャにヴェニス風が多いかというと、この辺りの島の多くはかつてヴェニス共和国の領土だったからだそうで。
ミコノス島やロドス島でそんな説明あったっけ? なかったような気がする。
「ハニアでは他にどんなことを……」
「特に何もせず、ハーバーのカフェでずっと夕方まで過ごして」
「まあ、なんて優雅な過ごし方なんでしょう!」
感心するようなことかよ。俺たちだってヴァケイションが1ヶ月あればそういう風に過ごしてるって。どこへ行っても1週間だから、観光にしても慌ただしくなってるんだ。その合い間に本来の仕事を、いや、仕事ってのは世界会議参加じゃなくてターゲット探しなんだけど。
しかし観光地で一日ぼんやりしていただけなのに、ジェイドはそこそこたくさんの話題を提供してくれる。景色を眺めてたんじゃなくて、人間を観察してたのかな。俺だけ黙って聞いてたら、先に料理がなくなってしまった。
「もう少し食べる? じゃあ取ってくるわ」
話をしていればいいのに、いつもの習慣で
「仕事は順調?」
何を話すか考えあぐねていたら、ジェイドの方から話しかけてきた。
「もちろんだ」
「会議に参加せず、観光ばかり行ってるようだけど」
「それも仕事のうちなんだよ」
「情報収集」
「そうだ」
「何か判ったのかしら」
何かって、何が。どうして君がそんなことを気にする。何だよ、その興味がありそうでなさそうな、妙な視線は。綺麗な
「君、まさか」
「関わらないでおこうと思ってたんだけれど」
ヴァケイション中の
「何か言いたいことでもあるのかね」
「逆よ。何もしないことを表明しに来たの」
「中立の立場を守るという宣言?」
「そう」
「どうして今頃」
「別の人に、そうした方がいいって言われたのよ」
「会ったのか。いつ?」
「教えない」
「他に二人いるんだぜ」
「知ってるけど、会ったことがないわ」
「存在を気付かれてもいないと」
「そう。こっちの方へは来ないのね、きっと」
言った後でジェイドは、コーヒーをうまそうに飲んでいる。“別の人”ってのが
しかし、ジェイドに何か示唆するとしたらマルーシャなんだけど、どこにいるんだ。アテネで別れたきりだぜ?
「ジェイド、コーヒーのお代わりはいかが?」
「あら、メグ、ありがとう! ちょうど飲み終わって。取りに行こうとしてたの。あなたって本当に気が利くわ」
褒められても得意気にならないのが、
いや、そんな分析をして喜んでる場合じゃない。マルーシャはどこにいるのかってことだよ。ジェイドに示唆したのは、俺にその存在を知らしめるためだろう。もっと周りに注意しろと。
財団のメンバーの、女に化けている? マイアミからは、アビー・グレイソン、トリッシュ・グリーンウェル、ミキ・ゴールド、ナナ・マツダ。どれも違う。
海外からは、ドイツのアドリアンヌ・コレサー、クロアチアのリディア・ヴ……ヴチュコヴィチ、日本のホシノ・ヒカリ、インドのハリシャ。インド人だけファミリー・ネームが判らないのはいいとして、どれもマルーシャではない。
会議の参加者で、他に俺に近付いてきた女は……
……ハンナ・エレンスカ? まさか。胸の大きさが2インチは違うぞ。しかしハンナという名が共通するし、目をよく見ていない。
今日、話をすることになっている。そのときに確かめよう。
「ムサカ、食べないの? 私が食べさせてあげましょうか?」
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