#17:第6日 (4) 二つの顔

 朝食の後、レストランを出ようとしたらテオを見かけた。一人で食べていたようだが、どうしてここにいるんだ。

「ここに泊まってるんです。言ってませんでしたか? それは失礼」

 やけにすっきりした顔をしている。何かいいことでもあったのか。方程式に代入する数値が集まったとか。

「まだですが、近いうちに完成させますよ。ところで、論文の共著者にあなたの名前を入れても……」

「もちろん、構わない」

「ありがとうございます! 世界的な研究者と共著できて、こんな嬉しいことはありません」

 嬉しそうなのに、握手しようともしないんだな。君のエルデシュ数は10だって、教えてやらなくてもいいだろうか。

 ホテルに戻ってバスに乗るから、一緒に来るかと言うと、恐縮しながら付いて来た。しかし俺には話しかけてこず、我が妻メグと話している。何だか楽しそうだ。姉妹を見るよう。いや、何か感覚がおかしい。

 バスに乗ったら席が離れてしまった。テオに会って思い出したのか、我が妻メグが今夜のことについて話しかけてくる。詳しくは何も決まってないのに、と思って聞いていると、何だか憶えのある香りが漂ってきた。

「どうしたの?」

 我が妻メグが訊いてくる。俺が鼻を鳴らしたのに気付いたか。

「いや……何でもない」

 憶えがあるのに思い出せないというのは嫌なものだが、匂いの記憶は視覚的なものと結びつきにくいから、しかたない。しかもすぐに慣れてしまい、何の匂いだったかもう判らなくなってしまった。


 会議場に着くと、後からバスを降りてきたテオが「プラトンが財団のブースの前でお待ちしていると」と言う。

 会って話がしたいというのはテオからもミキからも聞いていたが、時間と場所を今朝通知するとは言われてなかったなあ。そりゃ、あちらさんも忙しいんだろうけど。

 ブースへ行くと、あの神経質そうな顔が待っていた。隣に明るく楽しいジェニーがいるのに、話しかけもしない。そのジェニーはいつもどおり「ワォ、ワォ!」。ちゃんと挨拶しろ。

「やあ、ドクター・ナイト。朝一番から押しかけて済まないが、30分ばかり時間を取ってもらえるかね。論文は理解して来たんで、こちらが考えるような条件を設定してシミュレイションができるかどうかを訊きたい」

 30分で終わるのかね。まあちょっとくらいオーヴァーしても構わないんだけど。

「いいだろう。テオ、君も聞くかい」

「ええ、同席していいのなら。プラトン、場所はどこです?」

「クロニスのブースのバックヤードを空けてある」

 プラトンは言うが早いがさっさと歩いて行く。俺とテオは付いていくが、もちろん我が妻メグは置き去り。いや、彼女はそんなこと気にせず、ジェニーに話しかけている。本気でプロモーショナル・モデルを務めるつもりかも。

 クロニスのブースに着くと、なぜかポーランド美女がいる。一緒に話を聞くのか? しかし俺たちを見て、ちょっとした戸惑いの表情。何なんだ。

 そうだ、彼女がもしかしたらマルーシャじゃないかと、今朝思い付いて……

「アリー、ここは今から私が使うことになっているんだ。他へ行け!」

 プラトンがバックヤードに向かって怒っている。すぐにアリストテレスが出てきたが、昨日見た精力的な顔つきではなく、少ししょげた感じ。いや、リンドスのアクロポリスで、謎の東洋系オリエンタル女に話しかけられた時もあんなのだったな。

 どうやらバックヤードへポーランド美女を誘い込もうとしていたようだ。彼女はアリストテレスと一緒にどこかへ向かうが、去り際に優しい笑顔を残していった。

 彼女はマルーシャなんだろうか。今、見直しても、胸のサイズが明らかに小さいんだが。

 バックヤードに入ると、折りたたみ椅子に座って、折りたたみテーブルを囲む。テーブルには俺の論文と、いくつかのファイルが置かれている。ファイルは資料だろう。なぜ電子でないのかと思うが、紙の方がいろんなページを開いておける、という利点もある。

「まず論文中の高速ネットワークについてだが……」

 航空路を想定した場合についてプラトンが訊いてくるが、それはリオでも同じような質問を受けたので簡単に答えられる。さらに資料と照らし合わせ、陸上ネットワークと組み合わせた場合に、どういう結果が得られそうかを予想する。コストと輸送時間の関係はこんなグラフになるだろう、と紙に描きながら答えたり。

 ところで、テオがどういうわけか議論に参加してこない。テーブルから少し離れて座り、黙って話を聞いているだけだ。彼にも説明したことを一部繰り返していたりするのだが、どうしてやる気がないのかな。

「なるほど、これは面白い応用だ。季節便の運行計画を立てるのに参考になりそうだ」

「悪天候に強いシステムを構築するのに参考になる論文もあるが、必要ならタイトルを教えよう」

「ほう、そんなものも。参考文献のこれとこれが? すぐに取り寄せて読んでみよう。ドクター、大変有用な議論だった。時間を割いてくれたことに感謝する」

 予定どおり30分で終わった。ギリシャ人なのに、時間調整能力に長けているな。握手をしてバックヤードを出る。プラトンはそのまま残ったが、テオは俺と一緒に出て来た。

「10時からセッションで発表だったな。聞きに行ってやるよ」

 振り返ってテオに言うと、明らかに動揺している。期待してたんじゃなかったのか。

「あなたに聞いていただくほどの内容ではありませんよ」

「知り合いが聞いていると緊張するとか?」

「それもあります」

「そういうのは早く慣れないといけない。一番前に座ることにしよう」

「でも、確かミズ・エレンスカがあなたに時間を取って欲しいと……」

「さっき、アリストテレスとどこかへ行ったじゃないか」

「いえ、そこに」

 向き直ると、確かにポーランド美女がいた。どうして気配を消して立ってられるんだ。「ハイ、ミズ・エレンスカ」と挨拶しながら、さりげなく、しかしじっくりと胸を見る。やはり2インチ小さい。それから目。マルーシャの目は独特の色合いの緑だが、ポーランド美女はヘーゼルだ。知性の煌めきはほんの少しあるが、競争者コンテスタントのものではない。

 コンタクト・レンズで隠している? それはどうやって確かめられるだろうか。

おはようございますグッド・モーニング、ドクター」

 そういや、彼女には「アーティーと呼べ」と言ってなかったんだっけ。まあ、そういう仲でもない。

「話をしに来た?」

「いいえ、もうセッションを聞きに行かないと」

「どこの」

 無言でテオの方を見る。ほら、彼女にも期待されてる。ずいぶん仲がいいな。それにしてもテオの困惑の表情というのは、見ていてなぜか気持ちいいなあ。初々しいんだよ。

「では、ミズ・エレンスカと二人で、一番前に座って聞くことにしよう。もちろん難しい質問もする」

「困りますよ、そんな」

「ドクター、申し訳ありませんが、私は一番前は避けたいと思っていまして」

 ポーランド美女からダメ出しを喰らってしまった。何だろう。一番前だと目立つから嫌なのかな。

「じゃあ君は後ろでいいよ」

「いえ、真ん中より少し後ろあたりで、並んで座って下さいますか。セッションの合い間と後に、少しお話がしたくて」

「発表中に関係ない話をするのは発表者に失礼だよ」

「では、終わった後で」

「もちろんそれは構わない」

 とにかく、聞きに行くことにする。テオを促し、会議室のA-10へ。もうすぐ始まるのに聴講者が少ない。あまり期待されてないのか。テーマは『ギリシャの通信と交通』。何とローカルな。外国人が聞きに来ないわけだ。

 発表者は4人で全員ギリシャ人。司会チェアマンもギリシャ人。なのに発表は英語なんだよな。世界会議だから。テオの発表は2番目。

 これだけ人が少なけりゃ、一番前に座っても目立たないんじゃないか、と思ったが、ポーランド美女が宣言どおり真ん中後ろあたりに席を取ったので、俺も隣に座っておく。

 開始までまだ少し時間があるが、ポーランド美女は話しかけてこない。黙ってじっと前を見て、俺のことを無視している雰囲気すらある。

 それにしても、横顔も綺麗だなあ。まるで絵に描いたよう。視線を少し下げると、胸の盛り上がりがすごい。これ、正面から見るより大きいんじゃないか。

 いや、そんなところばかり観察してはいけな……

 ……?

 この大きさ。

 まさか、マルーシャ!?

 待て、よく観察するんだ。髪色も髪型も違うが、顔の輪郭は同じだ。目の大きさや色はどうとでもなる。鼻……マルーシャのがどんなだったか、思い出せない。美人の鼻というのは忘れやすいらしい。いや、そんなことはどうでもいい。唇のカーヴの完璧さも、よく見たら同じじゃないか。

 それでどうして、正面から見た時だけ――いや斜め前からも含むが――マルーシャとは違うように見えるんだ?

 錯覚なのだろうか。目が騙されている? それが彼女のテクニックなのか?

 横目で俺を見た。俺がじっと見つめているからだろう。しかしその目の流し方、まさにマルーシャ。いつも俺を見る時の、冷たい視線。

 どうして今まで気付かなかった?

 何度目だよ、こんなの。何回騙されたら注意するんだよ、俺は。

 自分で頭を思い切りぶん殴りたくなってきたな。しないけど。

「迂闊だった」

「気にしなくていいわ。あなたを欺くことだけ、特に力を入れたから」

 マルーシャの声だ。それもいつもどおり、氷のように冷たい。ポーランド美女とは声質もトーンも違うし、独特のポーランド訛りは欠片もない。

 彼女は一体何種類の声色を持っているのか。いくつの言語をしゃべれるのか。

「ハンナ・エレンスカという名前もどこかで聞いたことがあるんだ」

「ノルウェイでしょう。山小屋に泊まる時、使ったわ」

 そうだった。チェス・マスターの人妻がいたところだ。ただ基本的に、ステージ終了後に登場人物の名前は忘れるんだよ。思い出したい名前だけ、後で思い出すようにしてるけど。

「今回は途中で名前を変えたのか」

「いいえ、偽名を使っているだけ」

「じゃあ、よく使う偽名なんだ」

「ええ、そう」

 他に何種類あるんだったかな。バックステージでビッティーに憶えさせた方がいいかもしれん。

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