#17:第6日 (2) 暁の女神

 いつもより睡眠が1時間長いのは、それだけで充実感があるということがよく解った。なぜなら、起こしてもらう前に目が覚めているからだ。

おはようモーニン、マイ・ディアー・アーティー。ランニングの時間よ」

 そして、こうして薄目を開けたまま、我が妻メグが俺を起こす声が聞ける。それからキス。至福だ。目覚めで、これに過ぎるものはない。

おはようモーニン、マイ・ディアー・メグ。君も1時間長く寝られたから、連日の疲れも少しは取れただろう」

 連日、あちこちの観光に行って、見るだけでなくガイドの真似事までこなし、連夜、俺とベッドの中で格闘する。昨夜は後者が1時間短かったんだから、その分の疲れが少なく、回復時間が長いという、二重の効果があったはずだよな。

「私は疲れてなんかいないわ。でも明日、帰る時には、飛行機の中でぐったりしているかも」

「今は海外出張に付いて来て、気が張っているから」

「ええ、そう。でも、あなたがお仕事をしている姿をあまり見ていないのが、少し残念だわ」

「今日は夕方まで、会議場に張り付きだ。そこに君がいれば、見られる。それとも、今日もどこかへ観光に?」

「会議場へ行くわ。名目上は私も仕事で来ているんだから、今日くらいは皆さんのお手伝いをしないと」

「ジェニーの代わりにプロモーショナル・モデルとしてシミュレイターの案内をやってみる?」

「できるならやりたいわ。あれ、とっても面白そうだと思ってたの」

 ジョークのつもりだったのに、マジシリアスで返されたよ。我が妻メグに会うモデル用の服があったら、本当にやりかねんな。ただ、彼女が来場者の注目の的になるというのは、俺の本意ではない。見せびらかしに来たわけじゃないんだから。

 顔を洗い、トレーニング・ウェアに着替えて外へ出る。準備運動をしながら、気にしているのは、昨日一昨日と見かけた白いドレスの女。フェードラという名だったか。美女というわけではないが、なぜだか気になる。

 もちろん彼女より我が妻メグの方が美しいし、マルーシャ――ここで彼女を引き合いに出すのは変だが――に並ぶものでもない。

 美しさの基準が、少し違う気がするんだよ。例えば美女と美少女が少し違うように。軸が異なるとでも言えばいいか。

 別に論文にすべきことでもないので、詳しく分析する必要はない。単に気になるというだけ。

 とりあえず走り出す。今朝も、彼女に会うだろうという気がするし、それが必然だと――もちろん仮想世界のシナリオ上で――思いつつ。

 しかし、行きの行程に彼女はいなかった。代わりに別の誰か、女が……おや、どうしてジェイドがこんなところに。

 例のパープルのローブを着て、デッキ・チェアに寝そべり、紫のつば広帽キャペリンをゆるゆると振っている。顔をあおいでるのかと思った。「おはようモーニン!」と一言だけかけて、通り過ぎる。彼女は俺に積極的に接触してこないと思ってたのに、どうしたことかな。

 走っている間に、今日と明日の展開を考える。

 今日は会議場に閉じこもった後、クロニスから何らかの招待を受けることになると思うが、そこでターゲットに関する決定的なヒントが得られるのだろう。そして明日、行動を起こす。

 ターゲットが“何か”についてはまだよく判らないが、“どこにあるか”は今まで行った場所にヒントがありそうだ。つまり、遺跡。

 ただ、他の島へ行くには、時間がなさ過ぎると思う。だからクレタ島のどこか。

 隠された神殿を探す……みたいなミッションになるかなあ。そしてそこからの生還。

 ……それって前回のゲームの世界観に近い? まあ、この仮想世界そのものがゲームみたいなものだし、ある程度は似ていてもしかたない。どこへ行っても宝探しなんだから。

 川の手前まで来て、折り返す。4日前に比べて数分間、日の出が遅くなったことを実感してしまった。要するに、東の空が少し暗い。見て判るようになったということことだ。

 そしてホテルの方へ戻るにつれて、だんだんと明るくなってくる。辺りがパープルからオレンジへと変わっていく。

 約25分後、白いドレスの女が現れた。ちょうど行きに、ジェイドがいた辺りだ。しかしデッキ・チェアのところではなく、そこと波打ち際の間に立っていた。

 彼女のドレスも薄いオレンジに染まっているのだが、俺の目と脳が勝手に補正して、白だと認識させてくれる。磁石に引き付けられるように、彼女の元へ。

おはようございますカリメーラ・サスミスターキリエ

おはようモーニン、ミス・フェードラ」

 不思議な感覚。やはり彼女の美しさは、これまで見てきた女と何かが違っている。そしてどうしてこんなにも好ましいのか。

 あるいは彼女は“女”ではなくて、本当に“女神”なのか。人間の美しさの基準が当てはまらない存在なのではないか。この世のものとは思えないほどいい香りまで漂ってるし。

 いやいや、何を非現実的なことを。いくらここが仮想世界だからって、女神を実在させるわけがないだろ。とにかく彼女は、普通とは質の違う美しさの基準に支えられて、ここに存在してるんだ。

「今朝もお会いできて、とても嬉しいです」

「ああ、俺も君に会うのを楽しみにしていたよ」

「本当ですか? ありがとうございます! あなたのこと、もっと知りたいですわ」

「俺も君のことを知りたいね」

「でも、残念ながら今は時間がないんです。この後、どこへ行けばあなたに会えますか?」

「今日も仕事で、コンヴェンション・センターへ行く。世界会議だ。でも残念ながら関係者以外は会場に入れない」

「では夕方以降なら?」

「まだ予定は決まっていないんだが、知人からディナーに誘われる可能性が高くて、そうなると夜遅くまで……」

「夜遅くても、ここで待っていれば会えるでしょうか?」

 どう答えよう? もちろん、寝る前に夜のビーチを散歩、というのはできなくもないが、俺一人で出てくるわけにはいかない。我が妻メグ同伴で彼女に会うことになるが、それはお互い望まぬことのはずで。

 我が妻メグが自宅待機ならもっと自由が利くんだけど、しかしそれはそれで、いろんな女に振り回されるリスクも高くて、一長一短だな。

 ともかく、フェードラにはどう答えようか。

「夜は無理だな。明日の朝は……」

「もうお会いできないんです」

「それは残念だ。もう少し君と話したかったんだが」

 そう言いながら俺は彼女の手を取って……って、あれ、どうして俺はこんなことしてるんだ? 身体が勝手に動いてるような気がするが、それとも何らかの潜在意識が働いてるのか。

「君のことは忘れないでおくよ。またいつか、会えたらいいな」

 現実世界ならこんなしらじらしいやりとりは嫌なんだが、仮想世界だと本当に二度と会えなくなるからなあ。我が妻メグやマルーシャは例外中の例外レア・エクセプションで。いや、そういう例外が二人もいるんじゃ、“レア”は言いすぎかもしれないけど。

「ありがとうございます。私もあなたのこと、忘れませんわ」

 フェードラは、それこそを愛おしくて抱きしめたくなるような笑顔で言うと、俺の手を振りほどき、2、3歩後ずさりした。そして下目遣いにしばらく俺を見つめてから――その視線の名残惜しそうなことといったら――振り返って、心許ない足取りで走っていく。

 俺は追いかけなかった。なぜか足が動かないというか、追わない方がいいと俺の心がささやきかけるというか、とにかくぼんやりと立っていた。

 十数ヤード先でフェードラは立ち止まって振り返り、また思わせぶりな視線で俺を見つめてから、走り去った。これはいったい、どういうイヴェントなんだろうか。今夜、やはりここへ来いという暗示? よく解らん。

「ハイ、アーティー」

 気を取り直して走り出そうとしたら、声をかけられた。女で、聞き憶えがあるからジェイドだろう。どこにいた。さっきのデッキ・チェアにはいなかったよな?

おはようモーニン、ジェイド」

 やはりパープルのバス・ローブ姿。その裾をそよ風に靡かせて、ビーチ・パラソルの陰に立っていた。そもそも、どうして君がここにいるんだよ。いつもの散歩コースとは反対側だろ。

「さっきの女性、とてもチャーミングね。お知り合いかしら」

「いや、朝に見かけるだけなんだ。挨拶したのもまだ2度目でね」

「彼女、私と同じホテルに泊まってるのよ」

「そうなのか」

 隣のアポロニアだな。泊まっているということは、旅行者? 地元民じゃないのか。やっぱりクロニス家の関係者なのかも。

「とても重大な秘密を持っていて、私はそれを知ってるんだけど、あなたに教えるべきか迷っていて」

 何だよ、その思わせぶりな言い方は。こっちは天邪鬼コントラリーなんで、そういうのには反発したくなるね。

「教えてくれる必要はないよ。謎は謎のままにしておいた方が魅力的ってことがあるものさ」

「そうね、彼女は確かに謎の人物だわ。朝のこの一瞬だけ現れて、消えてしまうんですもの」

 朝にだけ現れる幽霊ゴーストなんて、聞いたことないぜ。それに幽霊ゴーストならホテルに泊まってるんじゃなくて、“棲みついてるインハビッツ”だろ。

「ところでどうして君がここにいるんだ」

「彼女があなたに何をするつもりか、気になったから」

 どうしてそんなことに興味を持つ。他の人からは興味を持たれたくないくせに。

「俺を誘惑しようとしたら、注意してくれるつもりだったのか」

「そんなことないわ。あなたを殺そうとしても止めるつもりはなかったもの」

 傍観者的興味か。まあいいか。

「今朝はまだ我が妻マイ・ワイフと挨拶してない?」

「ええ、まだ。でも、今日はあなたも一緒に朝食を取る約束をしていたでしょう? だからそのときでいいかと思って」

 確かにそうだな。いつどこで、という話はしていないが。きっと我が妻メグが知ってるんだろう。それじゃあ後で、と言って別れ、また走り出す。

「今日はずいぶん遅かったのね」

 スタート地点に帰り着いたら、我が妻メグに言われてしまった。時間を計っていたとは思えないが、彼女も彼女で、俺が走って行って帰って来るのはこれくらいかかる、という感覚が養われているのだろう。

「散歩してる人とちょっと挨拶をね」

「犬と遊んだりしたのかしら?」

「犬は俺に懐かないんだよ」

 ポート・ダグラスの砂浜で、犬に散々吠えられたのを思い出した。整理運動をして、ホテルに帰りながら、朝食のことを聞く。予想どおり、ジェイドの泊まっているアポロニアへ行くことになっていた。もちろん、部屋に戻ってシャワーを浴び、着替えてからだ。

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