#17:第3日 (1) 技術ツアー

  第3日-2033年10月11日(火)


おはようモーニン、マイ・ディアー・アーティー! ランニングの時間よ!」

 夜中はどんなに乱れていても、朝の我が妻メグは爽やかこの上ない。まるで別人のよう。そして疲れ知らず。いや、その前の夜より少しは睡眠時間が長いから、俺もさほど疲れているわけではない。

 トレーニング・ウェアに着替えて我が妻メグと共に外に出る。朝7時過ぎのビーチは、やはりまだ暗い。準備運動をしてから、一人走り出す。コースはもちろん、昨日と同じ。

 朝焼けの光が射し始めた砂の上を行く。今朝も静かで、誰もいない……と思っていたら、女がいた。長い黒髪と、白いロング・ドレスの裾を風になびかせ、波打ち際に佇んでいる。まるでギリシャ神話の女神のよう。とはいえ、俺も本物の女神を見たことがあるわけではなく、世間に流布しているイメージでそう思っただけだ。

 顔は彫刻のように整っているが、中性的で、しかもどこかで見たことがある気が。もしかして、テオ・クロニスに似ているのか。ということは、彼の妹?

 しかしそれを確かめる暇もなく、通り過ぎてしまった。ランニングの途中によそ見をするのはよくないし、じろじろ見つめると相手にも悪い。引き返してきたときに、もう一度見るくらいだな。そこにいれば、だが。

 赤い太陽が水平線からじりじりと昇ってくるのを見ながら走り、ビーチの端で引き返して、赤い光を背に浴びながら戻る。

 残念ながら、帰りに女神はいなかった。しかし我が妻メグのところまで戻ると別の女がいた。にこやかに話しているから、互いに面識があるのだろうと思う。

「ジェイド、彼が私の夫マイ・ハズバンドのアーティー。アーティー、彼女が昨日の夜に話をしたジェイド・ブラックモアよ」

 夜に話をした、って、名前しか聞いてないと思うけど。ともあれ「会えて嬉しいナイス・トゥ・ミート・ユー」と挨拶し、握手する。華奢な手だ。

 さっき見た女神と同様に長い黒髪だが、顔は違っている。吊り目、吊り眉で鼻が高く、確かにモデルのような顔立ち。ただし気だるい表情。背もすらりとして、我が妻メグより6インチは高い。

 パープルのバス・ローブを羽織っている。バス・ローブだよな? 胸の盛り上がり方が生々しい。下に何も着てないんじゃないのか。じっくり見ないでおくけど。

 握手の手を放した途端に、ジェイドはローブの胸元から黒縁の眼鏡を取り出してかけた。どこにでもいそうな女の事務員ガール・フライデイのようになってしまった。美貌を隠す眼鏡だ。まるでマルーシャの変装。

「休暇で来ているそうだが、仕事は?」

「聞かないで欲しいの。休暇中は一切忘れたいのよ。だから携帯端末ガジェットだって家に置いてきたわ」

 気持ちは解るね。急な案件に対応しなくていい職業なら、そうするのがいいさ。現実世界の俺は貧乏だから携帯端末ガジェットが持てなくて……というプロファイルが、仮想記憶で上書きされている気がするなあ。二重の記憶というのはどうも混乱していけない。

「家の場所くらいは聞いてもいいだろう」

「トロントの西のミシサガ。それ以上は聞かないでね」

「どこに泊まってるんだ」

「あなたたちの隣よ。アポロニア」

 ジェイドが振り返って指を差す。アトランティカのすぐ西にあるホテルだった。実は昨日も我が妻メグを見かけた? ははあ、西の方へ散歩しに行ったという、あれが君だったのか。

「休暇の時はなるべく人を避けてるのよ。でも、せっかくクレタに来たんだから遺跡見学のツアーだけは行こうと思って。そうしたらバスでメグと隣の席になって、私に気を使いながらさりげなく親切にしてくれたので、嬉しくて」

 また我が妻メグがホテル・スタッフの能力を発揮したんだな。相手がそっとしておいて欲しそうなら、そのとおりにするというやり方マナー

「妻が褒められて俺も嬉しいよ」

「あなたは財団の研究者だって聞いたから、挨拶だけはしておこうと思って」

「カナダでも有名なのか」

「もちろんよ。だってトロントに支社ブランチがあるもの」

 本当かよ。俺の頭には入ってないぞ。しかしそれを確かめることはできず、彼女は「また明日の朝ね」と言ってビーチを歩いて行った。昨日と同じく散歩だろう。わざわざ人の少なそうな方角を選んでいるわけだ。

「彼女、仕事で仲間から裏切られたんじゃないかしら。それで人を避けるようになっていると思うのよ」

「君にできることがあればしてあげればいいと思うけど、迷惑にならない程度にな」

「もちろん解ってるわ。そうそう、彼女以外にももう一人会った女性がいて」

 ホテルの方へ戻りながら我が妻メグが言う。

「それもツアーで知り合った?」

「いいえ。でも、ミスター・テオ・クロニスの妹だと思うの。顔がそっくりで、髪の長さだけ違ったわ。ああ、着ている服も違ったけれど」

 長い黒髪に、白いロング・ドレス。じゃああの女神は、俺が見かけた後で我が妻メグに近付いたんだ。

「話をしたのか」

「ええ、少しだけ。私の名前と、あなたの名前を聞いてきたわ。でも、彼女は名乗らなかったの」

「どこへ行った?」

「あなたが走っていった方へ。会わなかった?」

「見なかったな」

 行きに見かけたのは、言わないでおいた。隠し事、というわけではない。話しても「あら、そうなの」で終わってしまって、それ以上何もできないからだ。

 ホテルへ戻り、俺だけ部屋に行って着替えて、朝食会場へ。当然のように我が妻メグが俺の席と食べ物を用意してくれていて、しかも今朝はムサカの皿が俺の前にもあった。「とてもおいしいから食べてみて」と。

 夜中に消費したエネルギーを補給した方がいいという意味と思って、食べることにする。でも、昨日の昼にも喰ったんだよなあ。味もそんなに違わない。

 そして今朝も隣のテーブルにミキとナナが来た。我が妻メグは明るく挨拶してから、二人と楽しそうに話している。そういえば俺はナナとほとんど話をしていない。今日は俺が技術テクニカルツアーに行ってしまうし、夕食のテーブルで同じになるまで話せそうにないな。

 ところで、財団メンバーの部屋割りってどうなってるんだっけ。

「どうしてそんなことを気にするんです?」

 ロビーで集合待ちの間にエリックに訊いたら、怪訝な顔をされてしまった。「しかも3日目になって、今さら」と言いたいのを堪えてくれているのが判る。

「急に疑問に思っただけさ。特に意味はないよ。一人一部屋じゃないんだろう?」

「ええ、どこも二人部屋です。フロリダ・メンバーは僕とオリヴァー、アビーとトリッシュ、ミキとナナがそれぞれ同じ部屋」

「他は国が同じ二人で一部屋?」

「まさか。同性どうしですよ」

 ドイツとクロアチア、インドと日本という組み合わせで、男どうし、女どうしで同室。なるほど。

「同室の二人で話をしようと思ったら、英語で話さないといけないんだ」

「ええ、ナカジマはチャンドラセカールに寝る直前までずっと話しかけられて、難儀しているそうですよ」

 日本人の男はナカジマというのか。彼ともほとんど話してないな。

「可哀想だな。替わってやりなよ。オリヴァーが同部屋なら日本人も気持ちよく過ごせるだろうし、エリック、君は議論好きだからチャンドラセカールも満足するだろう」

ご冗談をユア・キディン!」

 ご自分でどうぞ、と言われたら俺もやりたくないので、冗談で済ませておく。全員集まったらマイクロ・バスでコンヴェンション・センターへ。俺と我が妻メグ技術テクニカルツアーへ行くのだが、集合場所がそこなので皆と一緒にバスに乗る。

 着いたらブースの確認。ジェニーが明るい笑顔で待っていた。「おはようグッド・モーニング、エフゲニア・ミカロポウロウ!」と声をかけると、泣かずに「ワォ、ワォ!」と喜んでいる。ワォ、じゃない、おはようと返せよ。

「昨日はたくさんしゃべったんで、喉の調子が悪くなってないかい」

「いいえ、万全ですよ! 今日も頑張ります」

 頼もしいことだ。シミュレイターの動作確認をして、「後は任せた」とみんなに告げて、開場の前に俺と我が妻メグだけ外へ。

 ツアーのバスを探す。目印はギリシャ国旗、と我が妻メグが教えてくれる。すぐに見つかったが、バスの横にソクラテス・クロニス氏が立っていた。いるのは判っていたが、何となく嫌な予感がするのはなぜだ。

やあヤー・ス、ナイト夫妻。よく来てくれた。実は折り入って頼みがあるんだが」

 我が妻メグと嬉しそうに握手しながら、何を頼むつもりだよ。

何かワッツ・アップ?」

「ツアー・アテンダントが添乗する予定だったんだが、急病でキャンセルになってね。代わりに私が案内をする予定だが、英語を流暢に話せるアシスタントが欲しいんだ。ミセス・ナイトの英語は非常に聞き取りやすいので、アシスタントをしてもらえないか?」

 ツアー・アテンダントがキャンセル? 本当か、それ。しかも我が妻メグの英語が聞き取りやすいのを利用しようとするとは、都合が良すぎるだろう。

 嫌な予感はこれか。しかし横目で我が妻メグを見ると、目をらんらんと輝かせている。まずいな。「人の役に立ちたい」というホテル・スタッフの習性がここでも。

「そういうことならぜひお手伝いしますわ! アーティー、あなたは私の横にいてくれて構わないのよ。そうですね、ミスター・クロニス?」

「もちろん、そのとおりだ。それにずっとアシストしてもらう必要はなくて、要所だけなんだ。主にツアー参加者からの質問に答えることをね。今回の参加者は世界中から来ているので、私の英語が聞き取れない人もいるだろうし、私が相手の英語を理解できないかもしれない。そのときにフォローを頼みたいんだ」

 英語が通じないのを心配してる? 冗談だろユア・キディン。確かにソクラテスの英語は特有のアクセントがあるが、聞き取れないことはないし、何より俺の米語が通じてるじゃないか。それとも自動翻訳の補正がかかってるってのか?

 しかし、我が妻メグがすっかり乗り気になっている。こういう状態の彼女を止めるのは、俺には難しすぎる。おそらく、ヘラクレスの12の難行の一つ“ケリュネイアの鹿”――矢のように速く走る牝鹿――を捕まえるよりも。

 バスに乗り込んだら、クロニス氏は打ち合わせと称して我が妻メグを自分の隣へ座らせた。俺は一人になってしまった。

「ドクター・ナイト?」

 後ろから聞き憶えのある声。テオだな。振り返って椅子の後ろを見ると、不思議そうな顔のテオと共に、ポーランド美女が。どうして君らがペアなんだ。

「ミセス・ナイトはどうしたのです?」

「君の兄貴に捕まったんだよ」

 ツアー・アテンダントの件を話す。テオが「冗談でしょうアー・ユー・キディング?」という顔をする。ポーランド美女もまた同じ。

「だったら、僕らと一緒に行動しませんか。ミズ・エレンスカはもちろんご存じでしょう? 僕も彼女も一人きりで参加していて、話し相手が欲しかったので」

 だから、どうして君らがペアなんだよ。テオはともかくポーランド美女は相手が選び放題のはずだろう? それに俺が加わったら、君ら、俺の取り合いをするんじゃないのか? 『2.5次元』の件で。

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