#17:第3日 (2) クノッソス遺跡

 バスが出発したら我が妻メグは俺の隣の席に座ったが、ガイドの資料に目を落とし続けて、俺のことなんて見向きもしない。クロニス氏の役に立つことが、俺の株を上げ、ひいては財団の名誉にもなる、という考えだろう。ただし、俺が「やればいいよ」とも言ってないのに引き受けたんだから、先走りすぎだ。しかしもう止めることはできない。

 我が妻メグが横にいるので、テオもポーランド美女も話しかけてこようとしない。それだけは助かる。

 バスは市街地と田園の境目のようなところを走り、20分ほどで遺跡前の駐車場に着いた。途中で案内は全くなし。バスを降りるとクロニス氏は参加者に「世界会議のIDカードを見せれば中に入れます」と説明する。全部で30人ほどいる。確かに東洋から西洋まで、いろんな顔つきが見られる。こんなツアーはなかなかないだろう。

「それから彼女はツアーのアシスタントを務めてくれるミセス・ナイトです。実は予定していたツアー・アテンダントが急病で来られませんで、皆さんと同じく参加者の一人だった彼女が協力を申し出てくれまして……」

 おい、いきなり嘘をつくなよ。お前の方から協力しろって言ったんだろうが。

 しかしここで俺が否定すると、クロニス氏ではなく我が妻メグの機嫌を損ねそうな気がする。他の人が気持ちよく過ごせるのなら、事実と多少異なることがあっても構わない、といった義侠心を我が妻メグは持っているので。

 クロニス氏は結局、俺の存在には一言も触れず、「あちらが入り口です」と言って我が妻メグと共に参加者を誘導する。気分の悪いものを感じながら付いて行こうとすると、後ろから肩を叩かれた。女の手だな、これは。誰だ。ポーランド美女はこんな失礼なことしないだろ。

「ハロー、ドクター・ナイト」

 振り返ると、キャロライン・リーだった。記者ジャーナリストがどうして技術ツアーに付いて来るんだよ。

「付いて来たわけじゃないわ。私がここにいたら、あなたたちが来たのよ。偶然に」

「会場の方は取材しなくていいのか」

「ブースはめぼしいものは昨日全部取材したわ。午前中のセッションで良さそうなのがなかったから、時間つぶしにここへ来たの。会議のことを報告するだけじゃ、記事に潤いがないでしょ」

 そんなものかね。俺にはよく解らんよ。

「それにしてもソクラテス・クロニスはいい女性を見つけたわね」

「あれは俺の妻マイ・ワイフだよ」

 本当ならそれを参加者全員の前で言いたいのだが。

「知ってるわよ。でも、もう一つ興味深いことを教えてあげましょうか。ソクラテス・クロニスは独身」

「それがどうかしたのか」

「今年離婚したばかりだけど、その女性は未亡人だったのよ」

「へえ」

「一人だけじゃないわ。前の夫人も、その前の夫人も未亡人。いずれも外国の有名人の妻で、その有名人が急死した後に結婚したのよ」

「へえ」

 話をしているうちにツアー一行はエントランスを入り、日陰棚パーゴラの覆う通路を通り抜けて、クールーラという穴の前に来た。直径が6メートルほどで――あれ、どうして俺はメートル法を使ってるんだ――地面を掘り下げて、周りに石を積み上げてある。巨大な井戸のようだ。

「それを聞いて何とも思わない?」

「俺はまだ生きてるからな」

 仮想世界の中で死ぬ予定もないし。

「急死した有名人は、いずれも事故よ。それも、とても信じられない状況で」

「例えば観光旅行の最中に、うっかり穴に落ちるとか?」

 目の前の穴は、深さ4メートルほどだろうか。この程度では死なないだろう。井戸かと思ったが、防水機構が全くないので貯水槽ではない、とクロニス氏が言っている。その横に立っている我が妻メグの、笑顔のにこやかなことよ。まるで彼の配偶者パートナーのようだ。

「近い例があるわね。ヨットでクルージング中、海に落ちて死亡」

「へえ」

 俺はヨットなんて持ってないし、持とうとも思わない。それに仮想世界の中で持つのは不可能だろう。いや、カードを使えば買えるかもしれないが、乗る暇がない。

「他の一人は自宅のワイン倉にいるときに、落ちてきたワイン・ボトルで頭を打って死亡。もう一人は俳優で、スタディオで撮影中に銃が暴発して死亡。問題は、いずれもそのとき近くにソクラテス・クロニスがいたことよ」

「へえ」

 死んだ後ならどうだっていいよ。生きている間に我が妻メグを他の男に奪われる方がショックだ。そうなったら悲しくて自殺するかもしれないな。

 でもここは仮想世界で、我が妻メグを奪うのが目的で俺を殺そうとする奴はいないはずだ。そんなシナリオを書く奴がいたら、おかしいだろ? 殺人ゲームじゃないんだから。

「君はそういう記事も書くのか」

 ツアーの団体が動き始める。南から回り込んで中庭へ入るようだ。途中にアーサー・エヴァンズの胸像が建っていた。

「私は科学専門だから書かないわ。でも、地元のプレスはどうかしらね。今日の午後にも、『ソクラテス・クロニス、新しい恋人を見つける』なんて記事が出るかも」

「俺が死ぬ前提かよ」

「ゴシップ専門のプレスなんて、そんなものでしょ?」

 そりゃそうだけど、君はそんなことを俺に注進して、何になるんだ? キー・パーソンだとしても、ターゲットと何の関係もない情報だろ、それは。

 俺は歩き始めたが、キャロラインは付いて来なかった。ツアーの一員でないから、ここでお別れというわけか。でも肝心の宮殿を見ずに、どこへ行こうってんだ。

「ドクター・ナイト、彼女の言うことは気にしないで下さい」

 テオが後ろから声をかけてきた。そりゃ、君も兄貴のことを悪し様に言われたんだから、かばう気持ちは解るけどね。

「ミスター・ソクラテスが未亡人と結婚したのは事実?」

「事実です。その夫が3人とも事故死したのも事実です。でも、兄は事故現場の近くにはいませんでしたよ。プレスの捏造です」

「じゃあ、彼の近くにいれば逆に安心じゃないか」

「そ……そういう考え方があるんですか?」

 冗談だよ、驚くな。それに、気にするなと言ったのは君だぜ。

 歩いて行くと、右手の方に遺跡の一部が見えてきた。基礎しか残っていないが、城壁の一部だとのこと。木製の橋でその上を越えていく。列の前の方が角を曲がったところで、歓声が聞こえてきた。広場に入る前だと思うが、何だろう。

「テオ、君はどうしてここへ来たんだ。ギリシャ人だから、来たことがあるんじゃないのか」

「ないんですよ。僕はほとんどずっとアテネにいるんです。兄たちや妹はずっと船に乗っているんですが、僕は船に弱くて」

 クロニス・グループのヘッドクォーターが船? 豪華客船のようにでかいのか。地中海や、時には大西洋を周遊しながら、世界の経済を回してると。一昔前のスパイ映画の悪役のようだな。

「付属研究所だけがアテネにあるのか」

「そうです」

「君が所長?」

「とんでもない。末端の研究員ですよ。役職すらもらえてないんです。あなたとは全然違う」

「俺の肩書きって何のためにあるんだろうな」

 名刺に書いてないんだよ。仮想記憶の中にもない。ただの博士Ph.D.なんだ。

 列の先頭にようやく追い付いた。“行列のフレスコ画”の回廊だった。壁と、列柱と、フレスコ画の一部が建っている。親切にもテオが説明してくれる。

「どれも修復済みのものです。オリジナルのフレスコ画はイラクリオン考古学博物館に入ってます」

 なるほど、フレスコ画は不自然なほどに色鮮やかだし、その前の柱なんて去年塗り直したかのように綺麗だ。

「来たことがないのに知ってるんだな」

「有名ですから、これくらいは」

 本当は我が妻メグに教えてもらいながら見たかった。その我が妻メグは、ソクラテスの話を笑顔でただ聞いているだけで、アシスタントをしているようには見えない。いや、今、質問に答えてるのか? 俺が質問したらどうするつもりなんだろう。

「ドクター・ナイト。お時間があるなら論文の話を……」

 ポーランド美女が遠慮がちに話しかけてきた。控えめにしているが、今日の参加者の中で抜群に美人だよなあ。

「ミズ・エレンスカ、技術テクニカルツアーの最中にそういう話は困るな。観光のように思えるけど、古代都市の視察だ。過去の都市計画の研究だよ。仕事中だぜ」

「そうですよ。論文の話なら後で僕も一緒に」

 何を乗っかろうとしてるんだよ、テオ。ツアーの最中くらい、論文のことは忘れろって。二人とも、仕事熱心なんだか、俺に執着してるんだか、よく判らないけどさ。

 少し先に行くとU字型の石碑。“聖なる牛の角”の象徴だそうで、過去には宮殿内のあちこちに飾られていたらしい。

 通路の坂を登って中庭へ。東南の隅に出て来た。南北は50メートルほど、東西は25メートルほどの長方形。広いと言えば広いか。さっきからどうして俺はメートル法を使ってるんだろう。頭の中で勝手に変換されるようにアップデートされたのだろうか。

 広場の東側は居住区で、王の間、女王の間などがある。西側は神殿だったとされ、玉座の間、宝物庫、倉庫など。2階建ての遺構が残っており、一部は3階建てで、かつては4階建ての部分もあったと推定されている。一部には劣化を防ぐための屋根が架けられていた。

 まず西側の1階。一番の見どころと言われる玉座の間へ。壁際に石の椅子があり、部屋の中央に石の鉢が置いてある。壁にはスカーレットイエローの塗料で絵が描かれている。鳥のような頭の、四つ足の動物。

 我が妻メグによると“グリフィン”。頭が鷲、胴体がライオン、尻尾がヘビの怪物。鳥の王と獣の王が合体していることから王家の象徴であるらしい。そしてゼウスやアポロンらの車を引く役目を与えられていたと。

 階段を登って展示室へ。復元された壁画の一部が展示されている。オリジナルはもちろん博物館。部屋が狭くて、俺は後ろにいるので――ふてくされて遅く来たせいだ――我が妻メグの声が聞こえない。

突撃する牡牛チャージング・ブルと、その腰に捕まっている人です」

 テオがまた親切にも説明してくれる。祭か儀式の様子らしい。

「じゃあその横の、タコの足のようなのは?」

 玉座の間の壁にも描かれていた植物――たぶん葦とされている――の前に、それこそタコが足を曲げたような螺旋状の、何だかよく判らないものが描かれている。

「何を意味するものか判らないそうです」

「当時の前衛アヴァン・ギャルドアートかな」

「かもしれません」

 声は聞こえないが、我が妻メグが困ったような顔をしているのが見えるから、彼女も質問されて困っているのかもしれない。その様子をソクラテスが楽しんでいるようなのが気に入らない。早く我が妻メグを俺に返せ。

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